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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んでいる。前回は『地蔵十輪経』以降が「教誡(きょうかい)」ということを強く説く展開であることを報告した。今回は、その続きとして『集一切福徳三昧(じゅういっさいふくとくさんまい)経』の引用意義について考察していく。
 一仏乗と不礼余天 ―『集一切福徳三昧経』の引用意義―
 親鸞仏教センター研究員 藤原 智

■ 『集一切福徳三昧経』の引用箇所
 前回の報告では、『地蔵十輪経』、『集一切福徳三昧経』、『本願薬師経』という連続する三つの経典が、「化身土巻・末巻」の冒頭に掲げられた『涅槃経』の文、すなわち「仏に帰依せば、終(つい)にまたその余の諸天神に帰依せざれ」(『真宗聖典』368頁)を展開させる文であることを指摘しつつ、そのなかでも特に『地蔵十輪経』の意義について報告をした。今回は続く『集一切福徳三昧経』の引用について考察していきたい。
 『集一切福徳三昧経』巻中からの引用は、非常に単純である。


『集一切福徳三昧経』の中に言(のたま)わく、余乗(よじょう)に向かわざれ、余天を礼(らい)せざれ、と。已上  (『真宗聖典』386頁)
「不向余乗、不礼余天」という漢文にしてわずか八文字、しかも、内容的にも特に変わったことを言っているようには見えない引用である。この文は『集一切福徳三昧経』において、次の言葉にはじまる文脈のなかにある。

いかんが菩薩摩訶薩(まかさつ)の浄戒荘厳なるや。謂わく、戒浄にして欠なく、学戒を捨てず。禁を毀(そし)るを愍(あわ)れみ、持戒を極敬す。身の三業を浄め、口の四過を浄め、意の三業を浄む。自ら十善を成し、他に十善を教う・・・  (原漢文『大正蔵』12-994a)
ここからさまざまな善行が語られていくなかで、親鸞はたった二つの事柄だけを取り出す。そこには親鸞の明確な選択の意志があると思われる。
 「余乗に向かわざれ、余天を礼せざれ」とあるが、「化身土巻」の展開からすると、必要なのは後者の「余天を礼せざれ」だけに見えはしないだろうか。例えば「後の不礼余天が正しく今の入用なり」(皆往院鳳嶺『仏教大系 教行信証』9-531)という理解もされているのである。しかし、この二句のみが選んで抜き出されている限りにおいて、この二句が経典上で同時に並列的に説かれていることに意味があると親鸞は考えたとするほかない。つまり、親鸞はここで「余乗」という言葉に注目していると言うことができるのである。
■ 『余乗』という言葉をめぐって

 この「余乗」という言葉は、仏教以外の教えと理解できる。しかし、むしろこの語で想起されるのは、次の『法華経』(「方便品」)の言葉ではないだろうか。


如来但以一仏乗故、為衆生説法。無有余乗若二、若三。(『大正蔵』9-7b)
如来はただ一仏乗をもっての故にのみ、衆生のために法を説きたもう。余乗のもしくは二、もしくは三あることなし。

諸仏如来言無虚妄。無有余乗、唯一仏乗  (『大正蔵』9-7c)
諸仏如来の言には虚妄なし。余乗あることなく、ただ一仏乗のみなればなり。
 ただ一仏乗のみありて余乗あることなし、これが『法華経』の理念である。この場合、余乗とは二乗・三乗であり、声聞乗・独覚乗を意味する。大乗仏教は、これらを自己の覚(さと)り(自利)のみを求めるものであり「小乗」であるとして批判することになる。親鸞は、源信の『一乗要決』に引かれる『勝鬘(しょうまん)経』にもとづき、「大乗は、二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は、一乗に入らしめんとなり。一乗はすなわち第一義乗なり」(『真宗聖典』196~197頁)と確かめつつ、さらに『法華経』の一仏乗という理念を『無量寿経』の教説に見いだし、「ただこれ誓願一仏乗なり」(『真宗聖典』197頁)と結論づけたのは周知のとおりである。
 『集一切福徳三昧経』から「余乗に向かわざれ」と引用する際に、親鸞の頭にあったのはこの『法華経』の経言ではないだろうか。もちろん、「余乗に向かわず」と「余乗あることなし」では、厳密に言えばまったく異なることを言っていることになる。しかし、『集一切福徳三昧経』と『法華経』はともに鳩摩羅什(くまらじゅう)の翻訳になる経典であり、同一の訳者が使う同一の言葉には通底するものがあると見ることも不思議はないのではなかろうか。「余乗あることなし」とは、余乗の存在を外に排除した枠内で一乗だと語られることではなく、余乗も仏説としてその内に包摂するからこそ、一仏乗に対する余乗というべきものはないということである。ただし、声聞乗がそのまま作仏(さぶつ)に至るかどうかと言えば、そこにはやはり断絶があると考えるべきであって、余乗は否定契機として一仏乗に包摂されるのではないか。この点において、「余乗あることなし」という理念は、現実に際しては「余乗に向かわず」という自覚的態度をとることになるのではないだろうか。ともかく、「余乗に向かわざれ、余天を礼せざれ」とは、「一仏乗を立場とせよ、余天を礼せざれ」と言い換えることも可能なのではないだろうか、ということである。

■ 『集一切福徳三昧経』の引用に託されたもの

 親鸞がこの「化身土巻・末巻」を執筆する際に、対論者として想定しているのは、比叡山天台宗がその代表と言ってよいと思われる。この点については、すでに第3回の報告や第11回の報告で言及してきた。そして、この比叡山天台宗が真実教と位置付けるのが『法華経』である。
 そうすると、「余乗に向かわざれ、余天を礼せざれ」と同時並列的に説かれている箇所のみを引用することによって、親鸞が言おうとしていることは、次のようになるのではなかろうか。
 もし、比叡山が『法華経』を真実教とし、その理念たる一仏乗を標榜(ひょうぼう)するのであれば、そこには同時に「余天を礼せず」ということがなければならないと釈尊は教えているのだ。しかしながら現実の比叡山の姿といえば、専修念仏に対し「今専修の輩、事を専修に寄せて、永く明神を敬うことなし」(「一向専修停止事」『親鸞聖人行実』96頁)と批判の言葉を浴びせかけるばかりである。そこには自己自身の掲げる仏教の理念すら放棄した、ただただ退廃の姿があるばかりではないか。むしろ専修念仏こそが、一仏乗という理念を純粋に生きているのだ。そのことをどうか省みてほしい、と
 『集一切福徳三昧経』の引用はたった二句八文字である。しかしその二句のみを選び抜き出したところに、親鸞によって大きな意義が託されているのである。

(文責:親鸞仏教センター)

※本報告の詳細については『現代と親鸞』第29号(2014年12月1日号)に論文として掲載しています。
 (出版物紹介のページから見ることができます)

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