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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んできた。前回まで『弁正論』の非常に長い引用について報告してきた。今回は、続く善導『法事讃』の引用の意義について考察する。
 諸仏が見る娑婆の姿―善導『法事讃』の引用―
 元親鸞仏教センター研究員  藤原 智

■ 末巻での『法事讃』の位置づけ
 『弁正論』に続いて、人師の釈文の第一として引用されるのが善導(613~681)の『法事讃』である。この引用は「化身土巻・末巻」のなかでは唯一の純粋浄土教文献である。それゆえ、たとえば鳳嶺(ほうれい 1748~1816)は「善導法事讃の御釈は浄土真宗の亀鑑となるべき文にして…中略…釈の九文中最も大切なる文」(中略筆者、『佛教大系 教行信証第九』655~656頁)とその重要性を述べ、了祥(1788~1842)は「化末見渡ス処。モトヽナル処ハ。弁正論ト法事讃ヘ落居ス。」(『真宗全書』58-167頁)、「勘決真偽ノ本トナルハ弁正論ナリ。コヽロノ決スルハコノ光明ノ文。ヨテコノ二文体トナリテ。余ヲソレニソヘル。」(同177頁)と『弁正論』とともにこの末巻の根本となると指摘した。
 唯一の浄土教文献とはいえ、もちろん末巻の文脈と異質に『法事讃』があるわけではない。これまでの展開を振り返れば、『本願薬師経』の引用では「九横(くおう)の難」の第一難と第八難が引かれていたが、この『薬師経』の「九横の難」に注目したのが善導であった(本報告第15回参照) 。善導の『観念法門』には五種増上縁というものが説かれるが、その冒頭には次のようにある。

謹みて釈迦仏の教、六部の往生経等に依って、阿弥陀仏を称念して、浄土に生ぜんと願ずる者、現生に即ち延年転寿を得て、九横の難に遭はざることを顕明す。 (原漢文『真聖全』1-626頁)

ここで善導は、阿弥陀仏を称念することで、「九横の難」に遭わないことを説くのであり、『本願薬師経』引用はこれによるものと言える。
 また、その五種増上縁で重要なのは現生護念増上縁であるが、これについての善導の説示のなかには、次の言葉がある。

又『灌頂(かんじょう)経』に依るに、第三巻に説きて云く。「もし人、三帰・五戒を受持すれば、仏、天帝に勅す。汝、天人六十一人を差(つかわ)して、日夜年月に受戒の人を随逐守護して、諸の悪鬼神をして横に相悩害することを獲しむることなかれと。」これまたこれ現生護念増上縁なり。 (原漢文『真聖全』1-630頁)

ここで善導は『灌頂経』を用いるが、おそらくこの説示を受けてであろう、源信(942~1017)は『往生要集』に念仏の利益として冥衆の護持を得ることを説き、そこで『灌頂経』(『護身呪経』)を引いている。それはこの善導の引用と同じ文脈の箇所であり、さらに親鸞はその源信の引用箇所を引いていた(本報告第12回参照) 。なお親鸞が善導の引用箇所を引かなかったのは、それが「受戒の人」を守ることを説いているからであろう。
 このように見れば、これまでの経典引用も善導の説示に従ってなされていたといえよう。『法事讃』の引用はこの流れにある。

■ 親鸞による読み込み
 さて、本文を見ていきたい。この文は『法事讃』巻下にあって、『阿弥陀経』六方段――すなわち東方・南方・西方・北方・下方・上方の六方の世界にいる諸仏が、みな阿弥陀仏の功徳を称讃していると説かれる箇所――の上方世界の諸仏の称讃の意義について善導が述べた文章である。(引用文は親鸞の自筆本に従い適宜『真宗聖典』の記述を訂正した文を示す。)

光明寺の和尚の云わく。
上方の諸仏、恒沙(ごうじゃ)のごとし。還(かえ)りて舌相(ぜっそう)を舒(の)べたもうことは、裟婆(しゃば)の十悪・五逆、多く疑謗(ぎほう)し、邪を信じ、鬼(き)に事(つか)え、神魔を餧(あ)かしめて、妄(みだ)りに想て、恩を求めて福あらんと謂(おも)えば、災障禍(さいしょうか)横さまに転(うたた)いよいよ多し、連年に病の床枕(じょうしん)に臥(ふ)す、聾(ろう)・盲(もう)、脚(あし)折れ、手攣(ひ)き撅(お)る、神明(じんみょう)に承事(じょうじ)して、この報を得るもののためなり。いかんぞ、捨てて弥陀を念ぜざらん、と。已上 (『真宗聖典』396頁)

 内容は難しくはないが、一点注意すべきは「為」の字である。通常ならば「娑婆のため」と読み、「十悪五逆」以下にはかからない。しかし、親鸞は「為」の字を以下の下線 部分という非常に広い範囲にかけている。

   上方諸仏如恒沙  還舒舌相為裟婆  十悪五逆多疑謗  信邪事鬼餧神魔
   妄想求恩謂有福  災障禍横転弥多  連年臥病於床枕  聾盲脚折手攣撅
   承事神明得此報  如何不捨念弥陀

つまり、この文章は大きく見れば次のようになる。「諸仏は、〔裟婆の十悪五逆~この報を得るもの〕のために舌相を舒べたもうた。どうして、そのような邪な在り方を捨てて弥陀を念じないのか」。このような構造を押さえたうえで、その内容をさらに見ていきたい。
 諸仏の言葉は誰に向けられているのか。それはまず「裟婆の十悪五逆」である。その者は、多く疑謗するものであるが、より具体的には邪を信じ、鬼に仕えて神魔に供物を捧げ、それによる恩を求めて福がやってくるだろうと妄想する者である。しかしその結果は、多くの「横」、つまり不慮の災禍がやってくることになる。長年、病の床に臥すことになり、耳は聞こえず、目は見えず、足は折れ、手は曲がる。神明に仕えることで、このような報いを横さまに得ることになる。その者のために、諸仏は誠実の言葉を述べるのだという。
 通常では、諸仏は娑婆のために言葉を発したとだけあり、「十悪五逆」以下はそれを受けて善導が呼びかける衆生の姿だと理解される。それを親鸞は、諸仏が見た娑婆の具体的な衆生の姿として「十悪五逆」以下を読み込み、その者のために諸仏は弥陀を称讃する言葉を発するのだとした、といえよう。

■ 諸仏が見通す衆生の在り方
 ところで、ここで注目されるのが次の『観念法門』の現生護念増上縁の文章である。

又『弥陀経』に説くが如し。「もし男子・女人有りて、七日七夜、及び一生を尽くして、一心に阿弥陀仏を専念して、往生を願ずる者は、この人常に六方の恒河沙(ごうがしゃ)等の仏の、共に来りて護念したまうことを得、故に護念経と名づく。」護念経の意は、また諸の悪鬼神をして便りを得しめず、また横病・横死、横に厄難あることなく、一切の災障自然に消散するなり、至心ならざるを除く。これまたこれ現生護念増上縁なり。 (原漢文『真聖全』1-629頁)

この、『阿弥陀経』六方段の説によって護念の意義を述べる文は、基本的には上記の『法事讃』と同意であり、文脈的にも『本願薬師経』の「九横の難」に直接対応するものである。さらにこの『観念法門』の文は、師法然(1133~1212)の『選択集』においても護念章の初めに掲げられる文であり(『真聖全』1-986頁)、当然親鸞も注目していたはずである。しかし、親鸞はこの『観念法門』ではなく『法事讃』の文を引く。そこに親鸞の着目点があるのではないだろうか。
 上記の『観念法門』は、阿弥陀仏を専念すれば、悪鬼神の便りはなく、横難はやってこないと説くものである。そこには衆生の主体的な事柄は出てこない。これに対して、『法事讃』の引用は「邪を信じ、鬼に事え」るという衆生の在り様が、さまざまな横難を生み出すのだとするものである。つまり、親鸞がここで言いたいことは、阿弥陀の仏力によって横難に遭わないという単なる護念ではなく、横難に遭うことになる「恩を求めて福あらんとおもって鬼神に奉仕する」といった衆生の在り方である。そのため、『観念法門』ではなく『法事讃』を引いたのであろう。
 では、なぜ鬼神に奉仕することが横難に遭うとされるのか。その理解の一助として、現生護念に関する法然の法語を見たい。

宿業限りありて、受くへからん病は、いかなる諸の仏神に祈るとも、それに依るましき事也。祈るに依りて病もやみ、いのちも延ふる事あらは、誰かは一人としてやみしぬる人あらん。 (底本の注記に従い一部漢字にした。『昭和新脩法然上人全集』604~605頁)

ここで法然は、どれほど病気を治し延命を求めて神仏に祈ろうとも、その祈りによってそれが果たされることはないのだという。それに対し、念仏者について次のように述べる。

念仏を信する人は、たとひいかなる病を受くれとも、みなこれ宿業也。これよりも重くこそ受くへきに、仏の御ちからにて、これ程も受くるなりとこそは申す事なれ。 (同605頁)

これは、本来ならば受け止めきれない重い病をも、苦悩の衆生を必ず救おうという弥陀の願力を信ずるところに受け止められるようになるというのであろう。病の身という自己の事実は変わらない。それを受け止める側の在り方が変わるのである。(あるいは横難として挙げられる「聾・盲」を、文字通り身体障害を指すものではなく、「行巻」に引く『安楽集』の「九十五種の邪道に事う。我この人を説きて、「眼なき人」と名づく、「耳なき人」と名づく」〔『真宗聖典』173頁〕といった仏法を見聞できないという意味にも解しているかもしれない。)
 鬼神に奉仕することにより「横難」を受けるとは、思い通りにならない身を思い通りにしたいとどれほど神仏に祈り託そうとも、それは決して果たされずかえって思い通りにならないという事実だけが拡大していく、その悪循環であろう。我々誰しも(弾圧者も含む)がそのようななかに沈んでいる。それが「疑謗」の姿である。諸仏はその姿を見通して、その者のために弥陀を称讃する。
 親鸞は『教行信証』末尾に「疑謗を縁として」(『真宗聖典』400頁)と記す(「毀謗」ではない)。「疑謗」そのものは諸仏が見通した娑婆の我々の事実であり、それ自体はいかんともしがたい。けれども、その我々に向けた諸仏の言葉に耳を傾けることはできる。問題は「疑謗」と言われている我々の在り方を認めるところにあるのである。そこに善導は「いかんぞ、捨てて弥陀を念ぜざらん」と呼びかけるのである。 (文責:親鸞仏教センター)

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