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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んできた。前回は天台大師智顗『法界次第初門(ほっかいしだいしょもん)』の引用の意義について考察した。今回は、それに続く慈雲遵式(じうんじゅんしき)の引用について報告する。
 俗を誘う祭祀の法―慈雲遵式『往生西方略伝』序―
 元親鸞仏教センター研究員  藤原 智

■ 天台典籍引用を見る視点
 「化身土巻・末巻」は、前回報告した天台大師智顗(ちぎ、538-597)の『法界次第』以降、最後の『論語』を除きすべて天台宗関連の典籍の引用となる。これについては、当時の比叡山天台宗を強く意識し、それが祭祠を勤めとしていることに向けて天台典籍の引用となったとする興隆(1759-1842)の見解を紹介したことであった。加えて、今回は了祥(1788-1842)の『末法灯明記講義』(1831年)と、その弟子の法住(1806-1874)『教行信証金剛録』(1842年)の見解も併せて見たい。
 了祥は「山門南都ノ奏達状。及ヒ末灯・消息ノ世ノ謗リ。第一ガ神明ヲ軽スルト云事。ソノ難払ハスンハアルヘカラス。爾ルニ十年已来気ニカヽルガ神道。」(『真宗全書』58-164)と述べ、末巻の文脈を比叡山などの批判との関係から見るが、そこに日本の神道の存在も考慮する。その上で天台典籍の列挙について「ナゼ天台テツク子ル(=積み重ねる:筆者註)ナレハ。別シテ山王二十七社テ。神サマヲカブリテソシルカ天台ナリ。ソノソシル口ヘソツチノ止観ヲミヨ。…中略…ソノホカ天台ノ師資。鬼神敬フハミナ誡メヂャ」(中略筆者、『真宗全書』58-165)と、比叡山が山王社を担いで批判を行っていることに対して、天台の諸師がそのような態度を誡めていることを示すものだ、と述べるのである。
 この了祥の見解を受けて法住は、「これ(慈雲:筆者註)より下横川の釈に至るまでは、神道即ち餓鬼道の所摂なる事を釈し給ふ御引用のこゝろなり。」(『続真宗大系』8-432)と、諸典籍の引用を端的に、日本の神道にいう神祇が餓鬼道に収まることを指摘するものだ、という。これらの点を念頭に、以下本文を見ていこう。

■ 慈雲遵式の言葉と親鸞の読み方
 まず引かれるのが、中国・宋代天台浄土教の代表的学匠である慈雲遵式(964-1032)の言葉である。この文は『往生西方略伝』の序であり、親鸞がしばしば引用する宗暁(しゅうぎょう、1151-1214)『楽邦文類』(1200年)に載せられている(『大正蔵』47-168a)。おそらくここからの孫引きであろう。遵式については、親鸞はすでに「行巻」で元照(がんじょう、1048-1116)の『観経義疏』から「慈雲法師の云わく」(『真宗聖典』186頁)としてその言葉を引いており、重視している様子がうかがわれる。
(なお親鸞自筆本に従って引用する。)  

慈雲大師の云わく。しかるに祭祀の法は、天竺には韋陀(いだ)、支那には祀典といえり。既に未だ世を逃れず。真を論ずるは、俗を誘(こしら)うるの権方(ごんぽう)なり、と。文 (『真宗聖典』397頁)

注目すべきは、親鸞がここで遵式を「大師」と呼称していることである。遵式を「大師」と呼ぶ例は宗暁『四明尊者教行録』(1202年)に見えるが(『大正蔵』46-922a)、『教行信証』で「大師」と呼称されるのは、ここを除けば曇鸞に限られ、また親鸞の手紙を見ると「大師」と言えば法然を指す。そうすると、あえて「慈雲大師の云わく」として引かれるこの言葉には、非常に大なる重みがあると見るべきであろう。なお引用が「文」という言葉で締められている点について、これが重要な証文だという意義がありそうだが、詳しくは不明である。
 第一文目は、鬼神を祭祀する教えは、インドではヴェーダ(韋陀)、中国では祀典と呼ばれる書物にある、という。これは「祭祀」という事柄が、中国独自の問題ではなく、普遍的な宗教問題であることを確かめるものであろう。
 問題は第二文目である。まず文の切れ目について、漢文で示すと、普通「既未逃於世論、真誘俗之権方」と文章が切れる。しかし、親鸞の訓点に従うと「既未逃於世、論真誘俗之権方」というように「論」の字を後に掛けて読むことになる。そうすると「真」という字の意義が変わる。通常では「真に俗を誘うるの権方なり」と読むのであり、そこでの「真」は「本当に」という程度の意味であろう。対して、これを親鸞は「真を論ずるは」と読む。それによって、この文は「真について論じているのは」という意味になる。もちろん主語は「祭祀の法」である。つまり、祭祀の法が「真実」について論じているのは俗を誘うための仮の方法である、ということになるのである。(藤場俊基『親鸞の教行信証を読み解くⅤ』251-253頁、明石書店、2001年参照)
 この親鸞の読みの意図するところは、祭祀の法は世俗を脱したものではなく、真実を開示することを目的とせずに、俗を誘うために仮に「真実」について論じている、とするものであろう。宣明(1749-1821)の言葉を借りれば、「騙して導びく」「仮りに偽りて其道を行ふ」(『仏教大系 教行信証第九』663頁)ということである。なお山辺習学・赤沼智善『教行信証講義』(1574頁、法藏館、1951年)は、「権方」を「出世間道に入らしめんがための権化方便」と肯定的に解釈しているが(同意見として柏原祐泉『「顕浄土方便化身土文類」の考察』172頁、東本願寺出版部、2000年)、本文を「真を論ずれば」と読んでおり、今はこれを採らない。この文章のもつ意義を探るには、その文脈を見ねばならない。

■ 祭祀の法を語る遵式の問題意識
 遵式の引用は、単に「祭祀の法は」というのではなく、よく見ると「しかるに」という接続詞から始まっている。これは、この文章が文脈の繫(つな)がりのうえで理解されねばならないことを示していると考えられる。その文脈とは、『教行信証』と原文との双方の文脈である。
 『教行信証』を見るならば、この「しかるに」は直前の『法界次第』の三帰説を受けているといえる。その中心は『涅槃経』からの「余のもろもろの外天神(げてんじん)に帰依せざれ」(『真宗聖典』397頁)という教言である。そして逆に、外天神に帰依する法として遵式のいう「祭祀の法」が取り上げられていると見ることができよう。そうすると、祭祀の法はどこまでも否定的評価がされており、「権化方便」などと見ることはできない。
 次いで、遵式の短い引用が、原文の『往生西方略伝』序ではいかなる文脈にあるかを見たい。遵式は、引用された文の前に次のように語っている。

応(まさ)に知るべし。念仏の人は現世に安穏にして、衆聖守護し、諸々の災厄を離る。且(また)近く今時の風俗に校量するに、競うて鬼神を祭り、其の福祐を求め、安穏を得んことを望み、邪を信じ、命を殺し、罪を造り、寃(あだ)を結び、必ず福慶として人を利すべき無く、虚しく来世に地獄の罪報を招けり。 (『国訳一切経』和漢撰述部諸宗部7-94)

『往生西方略伝』は念仏往生を勧める文であり、その念仏の利益を確かめるなかで、それと異なる近時の人々の在り方を指摘していく。それが鬼神を祭祀することにより安穏を得ようとする在り方である。遵式の文章を見ると、特に生贄(いけにえ)を捧げるような在り方を批判しているようであり、それが地獄に生ずる罪を招くと述べるのである。この指摘を受けて、親鸞の引用した「祭祀の法」についての言葉が述べられていく。言うまでもなく、極めて否定的な文脈である。
 そして、引用箇所の後も見てみよう。そこでは、まず「周公」「仲尼(孔子)」「老子」「荘子」といった中国の思想家が挙げられつつ、それに対して釈尊の教えこそ理を尽くすものであると述べられていく(なおここで孔子が挙げられているが、それは後の親鸞の『論語』引用へ繫(つな)がる重要な点であると考えられる。詳しくは『論語』引用箇所において再度考察したい)。そして、その仏教的観点から鬼神について次のように確かめられていく。

天趣上に在り、人其の次に居る。修羅、中に処(お)り、鬼畜は斯(こ)の下なり。今人を以て鬼に事(つか)ふ。…中略…何ぞ逆(もと)ることの甚だしきや。…中略…
諸々の有智の人、請ふ、仏を観じ、念ぜよ。獲る所の現世の福利、功徳は豈(あ)に、世人祠祀の法の現に福利なく、未来に苦を受くるに同じからんや。 (中略筆者、同前94~95頁)

善趣たる天・人、そして中間の修羅に対し、悪趣として地獄・餓鬼・畜生の世界はある。この六道の世界観において、人が鬼に仕えることを説くというのは、まったく道理を逆転させるものである。だからこそ、まさしく念ずべきは仏であり、利益なき祭祀の法におもねて、苦悩を受けるようなことがあってはならないのだ、と遵式は呼びかけるのである。
 これらの文章を親鸞は引用していない。しかしそれは、この文脈を無視したということを意味するものではない。親鸞は「祭祀の法」の本質を語る言葉を鋭く抜き出そうとしたのであって、その背後にある遵式の上記の発言は当然念頭にあったであろう。
 天台浄土教の大家たる慈雲大師遵式は、念仏を勧めるとともに、鬼神を祭祀する法について、それがいかにも「真実」を語っていると見せかけ、悪道へと衆生を誘うものであると看破し、そこから離れることを人々に求めた。そこには鬼神を悪道、ことに餓鬼道の存在であると見る仏教の知見があった。この遵式の言葉にもとづいて、餓鬼道についての天台的解釈が次いで確かめられていくことになるのである。

(2018年4月、文責:親鸞仏教センター)

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