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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んできた。前回は諦観『天台四教儀』の引用の意義について考察した。今回は、それに続く神智法師従義と大智律師元照の引用について報告する。
 悪道としての天―神智従義・大智元照の引用―
 元親鸞仏教センター研究員  藤原 智

■ 『四教儀集解』を引用する課題
 今回、まず考察するのは、神智従義(じんちじゅうぎ、1042-1091)『四教儀集解』の引用である。これは直前に引かれた諦観(たいかん、?-971)『天台四教儀』の注釈書である。つまり、『天台四教儀』だけでは十分に意を表すことができないため、その注釈書を用いてより詳細な論及を行おうとするものであろう。そこで初めに、前回見た『四教儀』の引用で何が問題となっていたと考えられるのか、簡単に振り返りたい。
 そもそも問題となっているのは、恐らく延暦寺大衆による専修念仏批判である。そこでは、専修念仏の輩が日本の神を拝まないことなどを取り上げ、従来の伝統に背く不孝の罪であり、神々の怒りを招くものとして非難された。その際、日本の神々は仏の示現であるとも語られていた。親鸞はこの批判に対して、神と呼ばれている存在、それは鬼神(きじん)と言い換えられ、三悪道である餓鬼道(がきどう)に収まるものであり、人がそれを祭祀する必要がないことを示そうとした。それが『天台四教儀』の引用であったと考えられる。
 けれども、当時の概念として、神は蛇や狐を神格化したような実類神と、仏・菩薩の示現としての権化神との二種に分けられていた。そのうえで、権化神への拝・不拝が問題とされていたのであり、『天台四教儀』の引用では実類神には該当しても、権化神には当たらないということになりかねない。そうすると、権化神とされた神々をも含めた形での応答ができるのかどうかこそが、親鸞が最も課題にしたことではないだろうか。そのことを念頭に『四教儀集解』以下の引用を見ていきたい。

■ 餓鬼道の範疇におさまる天神
 『四教儀集解』は、『天台四教儀』が餓鬼道について説くなかの、「餓鬼道」「闍黎多」「此道亦遍諸趣」「諂誑」「下品」という五つの語句について注釈を加えている(『新纂大日本続蔵経』57-561a~b)。親鸞はそこから「餓鬼道」と「諂誑(てんおう)」に関する注釈のみを引用する。この二つに親鸞の関心はあったといえる。
 引用された注釈文を見てみよう(以下『真宗聖典』の表記を一部改めた)。

神智法師、釈して云(い)わく、餓鬼道は、常に飢(う)えたるを「餓」と曰(い)う、「鬼」の言(ごん)は尸(かばね)に帰す。『子(し)』の曰わく、「古(いにしえ)は人死(にんし)と名づく、帰人(きにん)とす。また天神(てんじん)を「鬼」と云う。地神(じじん)を「祇(ぎ)」と曰うなり。」乃至 (『真宗聖典』397頁)

「乃至」と記す省略箇所より前が「餓鬼道」という言葉の注釈である。「餓」についての注釈は読んで字のごとくである。問題は「鬼」である。まず親鸞は「「鬼」の言は尸に帰す。子の曰わく、」と読んでいるが、これは誤った読み方である。本来は「「鬼」の言は帰なり。尸子に曰わく、」と読む。「尸子」とは本の名前であり、親鸞の読み方は原文からすると意味不明である。これは「尸子」が本の名前だとわからなかったのか、意図的な読み方をしたのかは不明である。ともかく「「鬼」の言は尸に帰す」とは、「鬼」とは「尸(かばね)」すなわち、人の死体に帰着するものだという意味になろう。
 続く「子の曰わく、古は人死と名づく、帰人とす」も、本来は「古は人死を名づけて、帰人とす」と読むのではないだろうか。親鸞の「人死と名づく」という読みは「何を」が抜けることになる。おそらく「鬼の言」がそれに当たるのだろう。「鬼」とは、古くは人の死んだものに名付けたというのである。そしてそれが「帰人」ともいうとあるが、これは意味がよくわからない。
 前半の最後が「また天神を「鬼」と云う。地神を「祇」と曰うなり」であるが、これが一番の問題である。『新纂大日本続蔵経』所収の『四教儀集解』では「人神曰鬼地神曰祇也」とある。「天神」の語が「人神」となっており、おそらくこの「人神」が正しい。ここは親鸞が見たものに「天神」と書かれていたと解するほかはない。親鸞もこれが書き間違いだと気づいていた可能性はあるが、その場合むしろ敢えてその誤記を利用したとも考えられる。
 人の神(こころ・たましい)を鬼だというのが通常の理解である。けれども、親鸞が見た『四教儀集解』には天神を鬼だと記されていた。つまり六道における「天」を鬼神、さらには餓鬼と通じる存在であるとする見方が開けるのである。このことは次の元照(がんじょう、1048-1116)の引用につながるため、そこで再度考えたい。

■ 正直の心と不正直の心
 次に、「乃至」以降の「諂誑」に関する注釈を見てみよう。

乃至 形(かたち)あるいは人に似たり、あるいは獣(じゅう)等のごとし。心、正直ならざれば、名づけて「諂誑」とす、と。 (『真宗聖典』397頁)

天をも含めて餓鬼を解釈するなかで、それは獣のような形で把握されることもあれば、人のような姿のこともあるという。餓鬼・鬼神は、人の死の延長上の存在としてあるということであろう。そしてその餓鬼の心を『四教儀』は「諂誑(へつらい、たぶらかす)」としていたが、そのことを不正直の心であるとする注釈を親鸞は引く。この「正直」という言葉は、『教行信証』において極めて重要である。
 「正直」という言葉が出てくるのは、「信巻」の三心一心問答の字訓釈である。それは本願文に誓われた「至心」「信楽」「欲生」という三心の字訓を案じて、信心の意義を探ろうとするものである。その考察の結びで親鸞は次のように述べている。

今三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮(こけ)雑(まじ)わることなし、正直の心にして邪偽(じゃぎ)雑わることなし。 (『真宗聖典』224頁)

親鸞は三心の意義を、真実・正直の心であり、虚仮・邪偽が雑わらないと述べる。しかし、三心の字訓のなかに、「真実」は確かめられたが、「正直」という語はなかった。ここで親鸞は、邪偽が雑わらざるものとして意図的に「正直の心」を付加しているのである。そこには、餓鬼・鬼神と関わり諂誑・不正直の心を語る『四教儀集解』の解釈が念頭にあったのではないか。
 正直の心について、おそらく典拠となるのは以下の二つであろう。一つは善導『観経疏』回向発願心釈の言葉。

ただこれ決定(けつじょう)して一心に捉(と)って、正直に進みて、かの人の語(ことば)を聞くことを得ざれ。 (『真宗聖典』234頁)

ここでは、仏の本願を信じ、まっすぐに進むことを「正直」と語る。もう一つは、曇鸞『浄土論註』の障菩提門の言葉。

正直に依るがゆえに、一切衆生を憐愍(れんみん)する心を生ず。 (『真宗聖典』294頁)

これは浄土の菩薩の心を述べたものであり、あらゆる衆生を憐れむ心を生ずる立場を「正直」と語っている。つまり、一心に仏の本願を信ずるところに、あらゆる衆生を包むものが開かれてくる。それが「正直」という言葉に含蓄されているのである。
 それに対して、衆生の邪偽なる意識は、人の死の延長上に衆生を誑かす鬼神を見出すのである。そしてそのような衆生の邪偽意識において把捉され語られる限りにおいては、天神なる存在も、また悪趣たる餓鬼に収まる。これが『四教儀』に重ねて『四教儀集解』を引用し、正直・不正直という心の差異として親鸞が確かめようとしている事柄なのである。

■ 六趣を通じる「孝」という価値概念
  『四教儀集解』に続けて大智律師元照『盂蘭盆経疏新記』が引用される。藤場俊基は、『四教儀集解』の末尾に「已上」などの締めくくりの語がないことから、切れ目なく元照以下の引用に繫がることを指摘するが、しかし内容的に「ちょっと首をかしげざるを得ない」(『親鸞の教行信証を読み解くⅤ』256頁、明石書店、2001年)という。ともかく今は、この元照の引用を『四教儀集解』と一体のものとして考えてみよう。
 親鸞が引く元照(大智)の文は、以下の通りである。

大智律師の云わく、神は謂(い)わく鬼神なり。すべて四趣(ししゅ)・天・修(しゅ)・鬼・獄(ごく)に収む、と。 (『真宗聖典』397頁)

この文章は、単純に見れば、神と鬼神とは同義であり、それが天・修羅・餓鬼・地獄という四趣に含まれるということになろう。そして、一連の文脈で「天」が問題になっているとみるなら、天神と餓鬼が同質のものであることを示し、先の『四教儀集解』で「天神を「鬼」と云う」と記されていたことを補足するものと理解することができよう。道隠(1741-1813)の『教行信証略讃』は「上の天神を鬼と曰う意を釈し顕わすなり」(原漢文『仏教大系 教行信証』9-670)と指摘する。しかし、それではただ同じことを繰り返しただけとなってしまう。そこで、この文章が原文ではどのような文脈で語られているのかを確認したい。それにより、この文に親鸞が着目した理由を考えたい。
  『盂蘭盆経疏新記』は、『盂蘭盆経』に対する注釈書である宗密(しゅうみつ、780-841)『盂蘭盆経疏』に、さらに元照が重ねて解釈を加えた書物である。『盂蘭盆経』は周知のとおり、亡母が餓鬼道に堕ちていることを知った目連に、その救済の法を説く経典である。その最後に釈尊は次のように述べる。

仏告諸善男子善女人是仏弟子修孝順者。応念念中常憶父母供養乃至七世父母。
仏、諸の善男子善女人に告げたまわく、「この仏弟子、孝順を修せん者は、まさに念念のなか、常に父母の供養、乃至七世の父母を憶うべし。 (『大正蔵』16-779c)

この言葉に記されるように、『盂蘭盆経』は「孝」ということを中心テーマとして説かれるのである。そして、この『盂蘭盆経』を注釈する宗密『盂蘭盆経疏』は、その冒頭に次のように述べるのである。

始於混沌。塞乎天地。通人神。貫貴賤。儒釈皆宗之。其唯孝道矣。
混沌に始まり、天地を塞ぎ、人神に通じ、貴賤を貫き、儒・釈みなこれを宗とするは、それただ孝道なり。 (『大正蔵』39-505a)

宗密は『盂蘭盆経疏』冒頭で、この世界の始まりから、天地に満ち、あらゆる存在に貫通して宗とせられるものこそ「孝道」であると宣言する。この宗密の言葉の「通人神」を解釈する元照『盂蘭盆経疏新記』の言葉が、以下の文章である。

通人神者、人則可知、神謂鬼神、総収四趣天修鬼獄、雖分幽顕、皆有君親、則験幽霊咸知孝敬、若準下云慈烏鸚鵡尚解酧恩、是則孝道通於六趣矣。
人神に通ずるとは、人はすなわち知るべし、神はいわく鬼神、すべて四趣、天・修・鬼・獄に収む。幽・顕を分かつといえども、みな君親あり。すなわち幽霊を験するに、ことごとく孝敬を知る、もし下に「慈烏鸚鵡、なお恩を解し酧(むく)いる」(『大正蔵』39-511c)と云うに準ずれば、これすなわち孝道は六趣に通ず。 (下線筆者『新纂大日本続蔵経』21-456c)

下線部が親鸞の引用箇所である。文章全体の意味するところは、宗密が孝道というものが人と神を通じると述べたことについて、そこで言われる「神」とは四趣に収まるものである。顕たる人と幽たる神は、その区別があるけれども、ともに君親があり、孝敬を知っている。また、別の箇所では動物=畜生も恩を理解すると述べていることからすると、孝道は六道全体に通じるものである。以上のように、「孝」ということが六道を貫いているということを元照は述べているのである。
 ここから親鸞の引用に戻れば、神・鬼神が四趣に収まるというのは、「孝」という価値概念を共有しているという意味において同質だということである。つまりそれは、神に高度な理論解釈を施し、権化神として位置付けようとも、その神が「孝」という価値概念において把握され語られるなら、三悪道と何ら変わらず、人を誑惑するものだということである。
 本報告第36回で見たように、親鸞が『弁正論』の長い引用で対峙していたのは、まさに「孝」という価値体系であった。それは平等を尊ぶ思想と、敵と味方を分ける思想との差異であった(本報告第27回)。上の『四教儀集解』では正直の心と不正直・邪偽の心とが対比されたが、このことと相応するものである。
 伝統と言えば聞こえは良い。しかしそれが固定化し体制化されるとき、祖先は鬼神として祭祀の対象となり、その体制に従わない者は悪とされ排除されていく。そのことを肯定する価値概念が「孝」である。その鬼神は、いかに美名でもって語ろうとも、悪趣の存在と変わらない。親鸞が「外教邪義の異執を教誡」(『真宗聖典』368頁)するとしてこの「末巻」の論述を始めたとき、究極的に見据えていたのはこの一点なのである。

(2018年6月、文責:親鸞仏教センター)

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