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研究活動報告
『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会
 親鸞仏教センターでは、現代社会と親鸞思想の接点を探るという目的のもと、親鸞の主著である『教行信証』「化身土巻・末巻」の研究に取り組んできた。これまで「化身土巻・末巻」における諸典籍の引用を見てきた。今回からは、いよいよ「後序」と呼ばれる箇所について報告する。
 洛都の儒林という存在―「化身土巻」の帰結としての「後序」―
 元親鸞仏教センター研究員  藤原 智

■ いわゆる「後序」の構造
 前回で『論語』の引用までを考察し、今回からいよいよ『教行信証』のいわゆる「後序」に入っていく。「いわゆる」と付けたのは、ここは「顕浄土真実教行証文類序」(総序)や「顕浄土真実信文類序」(別序)と異なり、親鸞自身が「序」と呼んでいる訳ではないからである。存覚は『教行信証』全体の「流通分」、もしくは「化身土巻」の「総結」と呼び、深励は「結勧」、宣明は「縁起」と呼んでいる(三木彰円「親鸞における『教行信証』の課題」『親鸞教学』第98号、大谷大学真宗学会、2012年)。ただし、ここは直前の『論語』から一行分のスペースを開けて記されており、それまでとはあらたまった文であることに間違いない。「竊以」という書き出しなど「総序」との連関もあり、「竊以」以下を便宜上「後序」と呼んでおく。
 さて、その「後序」も大きく二つ、ないし三つに分けて見ることができよう。まず一つの分け目は、「慶哉(慶〔よろこ〕ばしいかな)」(『真宗聖典』400頁)以前と以後である。「慶哉」以前は、具体的な日付などが記された文であるのに対して、それ以後はある意味理念的な表現であって、古田武彦は「この「慶哉」以降の部分のみが改めて正しく、「後序」と限定指称さるべき」(『古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編Ⅱ 親鸞思想』596頁、明石書店、2003年:初出1975年)と指摘する。また、その「慶哉」以前も、「諸寺釈門」(『真宗聖典』398頁)と「洛都儒林」(同前)を中心とする念仏弾圧に関わる記述と、「愚禿釈鸞」(『真宗聖典』399頁)に始まる『選択集』と法然の真影の付属(ふぞく)に関わる記述との二段落に分けることができよう。
 ところで、「慶哉」以前の前半部分について、画期的な見解を示したのが先に挙げた古田武彦である。結論的には、この前半部分の大部分は、『教行信証』執筆時に作成された文章ではなく、過去に親鸞自身が書いた記録文書を、『教行信証』に引用し組み込んだ文章だと言う。それ故、古田はこの前半部分を、後半を「後序」の部と呼ぶのに対して、「初期文書」の部と名付けることになる(先掲古田)。この見解については、平雅行も「私は基本的にそれを支持したい」(「『教行信証』後序と奏状」『『教行信証』の思想』291頁、筑摩書房、2011年)と述べている。
 その理由をごく単純に言えば、「後序」前半部分において在位期間が西暦1198~1210年である土御門天皇を「今上」(『真宗聖典』398頁)と呼び、あるいは「本師聖人、今年は七旬三の御歳なり」(同400頁)と法然を七十三歳(1205年)だと記すのは、まさにそのときに書かれた文書でなければならないからである。少なくとも「元仁元年(1224年)」(同360頁)を一つの基準と考えられる『教行信証』執筆時点においては、上記の文章を書くことはありえない。よって「後序」の前半部分は過去のいくつかの時点で書かれた複数の文章を、親鸞自身が引用して成り立っているのだというのが、古田のおおよその指摘である。その詳細については、のちに個別に確認したい。
 さて、本報告も基本的にこの見解に従っておく。ただし、古田や平も指摘しているが、前半部分のすべての言葉が過去に書かれた文書というわけではない。例えば、第二段落目は「しかるに愚禿釈の鸞」(同399頁)という言葉に始まるが、この「愚禿」は流罪以後の自称であるため、『選択集』付属の時点ではない(先掲平294頁)。また前半部分の終わりの「仍(よ)って悲喜の涙を抑えて由来の縁を註(しる)す」(『真宗聖典』400頁)も、「悲」が念仏弾圧と法然の死に、「喜」が吉水入門から選択付属に呼応するとして、古田は「引用掲載部全体に対する結論」(先掲古田595頁)と指摘する。(ただし、平はこの箇所を「臨場感あふれる筆致や、緊密な内容的連関からして、この文全体は真影に銘文を書いてもらった元久二年閏七月二十九日から間もない時期に書かれたものであろう」〔先掲平294頁〕と指摘する。)
 では、どこまでが過去の文書で、どこまでが『教行信証』執筆時に書かれた文章だと考えられるだろうか。問題は、具体的日付などに言及していない箇所である。
 まず冒頭の「竊(ひそ)かに以(おもん)みれば、聖道(しょうどう)の諸教は行証(ぎょうしょう)久しく廃(すた)れ、浄土の真宗は証道いま盛(さかり)なり」(『真宗聖典』398頁)であるが、漢文で記せば「竊以、聖道諸教、行証久廃、浄土真宗、証道今盛」と極めて整然とした文章であり、後述するが内容においてもそれまでの展開をまず押さえるものとして、『教行信証』の後序冒頭を飾るにふさわしいものである。また、例えば「聖道諸教行証久廃」は、初め「聖道諸門教証久廃」であったという(大谷大学編『顕浄土真実教行証文類 翻刻篇』665頁、真宗大谷派、2012年)。このような変更は、過去の文書をそのまま転載するという原則からは外れるため、この一文は『教行信証』執筆において新たに記されたものと考える。
 またそのあとの以下の文章は、「聖道諸教、行証久廃」「浄土真宗、証道今盛」に対応する形で、同様の構造をもっていることが指摘されている(傍線三木、三木彰円「親鸞における教学の視座(上)」『親鸞教学』第76号、大谷大学真宗学会、2000年)。

、諸寺釈門、昏教不知真仮門戸
   洛都儒林、迷行無弁邪正道路

、愚禿釈鸞、建仁辛酉暦、棄雑行帰本願
          元久乙丑歳、蒙恩恕書選択

この文章は、前半部分の二つの段落を対照的に位置づける文章であって、『教行信証』本文構想時にしか記すことはできないと考える。そのため、上記の箇所は――もともと似た文章があったとしても――『教行信証』執筆における文章だと考える。(ただし「建仁辛酉暦、棄雑行兮帰本願」について、古田は後時の地の文との理解を退け「この当時の親鸞自身の記念すべき記録文書より原文面のまま摘出掲載したもの、と見なすほうが妥当性を有する」〔先掲古田613頁〕とし、平は古田の意見に対し「この部分は元久二年閏七月段階での回想と考えても差し支えあるまい」〔先掲平294頁〕とする。)

■ 親鸞の問題意識としての「洛都の儒林」
 では、あらためて本文の読解に移っていこう。

竊かに以みれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛なり。しかるに諸寺の釈門、教に昏(くら)くして真仮(しんけ)の門戸(もんこ)を知らず、洛都(らくと)の儒林(じゅりん)、行に迷(まど)うて邪正(じゃしょう)の道路を弁(わきま)うることなし。 (『真宗聖典』398頁)

 この後序の冒頭の文章は、三願転入直後の次の文章を受けての帰結と考えられる。

信(まこと)に知りぬ、聖道の諸教は、在世正法(しょうぼう)のためにして、まったく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖(そむ)けるなり。浄土真宗は、在世・正法・像末・法滅、濁悪(じょくあく)の群萌(ぐんもう)、斉(ひと)しく悲引したまうをや。 (『真宗聖典』357頁)

「化身土巻」は、この文章から二つの教誡が展開してきたのであり、親鸞にとって大きな問題は、自らがそこに身を置いていた聖道門とは何であったか、という点にあると言える。そしてその二つの教誡の論述において親鸞の念頭にあったのが、これまでの報告で繰り返し指摘してきた元仁元年の延暦寺の奏状であった。ただし、後序においてはそのことが表に出ることはない。
 さて、本報告で特に考えたいのが、「洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし」である。上に見たように、三願転入以降、親鸞は「聖道諸教」と「浄土真宗」という範疇(はんちゅう)で考察を展開していたように考えられる。それがここに至って、「洛都の儒林」が登場する。その意義を明らかにすることこそ、親鸞の問題意識を鮮明にすることになる。
 この「洛都の儒林」は、「洛」に「ミヤコ」、「都」に「ミヤコ」、「儒林」に「ソクカクシヤウナリ」と左訓があり(大谷大学編『顕浄土真実教行証文類 翻刻篇』665頁)、京都の世俗の学者を意味すると考えられる。なおこの点から、親鸞の「非僧非俗」(『真宗聖典』398頁)という言葉について、「俗」とは単なる世俗ではなく、この「俗学生」という知的集団であり、これとの決別を述べたものであると寺川俊昭(『寺川俊昭選集』第四巻235頁、文栄堂、2009年:初出『教行信証の思想』文栄堂、1990年)や加来雄之(加来雄之「已に僧に非ず俗に非ず」(『親鸞教学』第90号、大谷大学真宗学会、2008年)は指摘する。
 ではこの「洛都の儒林」は、『教行信証』の展開上でどこから出て来たのか。それは彼らの在り様について「迷行兮無弁邪正道路」と記すところに見えよう。ここで「無弁邪正」と言っているのは、明らかに『弁正論』の題名との連関が考えられるのであり(法住『教行信証金剛録』『続真宗大系』8-389頁参照)、「洛都の儒林」の問題は『弁正論』の内容から考えねばならない(なおこの点からも、この文は記録文書の引用とは考えにくい)。
 俗学生たる「洛都の儒林」は、「儒林」と名付けられるように、具体的には孔子の教えを受け伝えるものと一応は考えられよう。その孔子の教えは、『弁正論』において、以下のとおりに述べられたものである(本報告第35回参照)。

老子・周公・孔子等、これ如来の弟子として化をなすといえども、すでに邪なり。ただこれ世間の善なり。凡を隔てて聖(せい)と成ることあたわず。 (『真宗聖典』396頁)

孔子は如来の弟子として教化をしたけれども、その教えの表層だけが切り取られ、儒教として定着し邪となってしまった、というのがこの文の意図であろう。そうすると、まさに「洛都の儒林」こそ、その「すでに邪」となった孔子の教えを喧伝(けんでん)する集団として親鸞に認識されていると言えよう。彼らは「五常」、もしくは忠・孝といった徳目をもって世間を秩序づけようとするものであり、それこそ「行に迷うて邪正の道路を弁うることなし」と記される内実であったのではないだろうか。
 そしてその「洛都の儒林」がいよいよ問題となるのは、「諸寺の釈門」が彼らに惑わされているという事実にある。つまり、親鸞は「諸寺の釈門」について「教に昏く」と指摘するが、それは「諸寺の釈門」が仏教とは何かをわかっていない(真仮の門戸を知らず)ために、やすやすと「洛都の儒林」すなわち「外道」に惑わされてしまうという指摘であろう。そうして法然が説いた専修念仏を「不孝の罪」として断罪してしまうことになる(本報告第25回参照)。『弁正論』の直前には『起信論』の次の文章が引用されており、それは上記の「諸寺の釈門」の姿を的確に描写したものとも言える。

『起信論(きしんろん)』に曰わく、あるいは衆生ありて、善根力(ぜんごんりき)なければ、すなわち諸魔・外道・鬼神のために誑惑(おうわく)せらる。 (『真宗聖典』387頁)

 親鸞の『弁正論』引用は、孔子の教えが釈尊の覚りに基づくべきものであること、しかしそれが末法の現在に至ってすでに歪められ邪なものになっていることを指摘するものと言える内容であった。それに対し、親鸞による最後の『論語』引用は、仏陀の教説に基づいて把握されるべき孔子の言葉を記すものとして理解されるものであった(本報告第43回参照) 。
 これらの展開を通して、親鸞はまさに教えに昏くして「洛都の儒林」に誑惑せらる「諸寺の釈門」を、「行証久しく廃れ」と言い切ったのだと言えよう。そして「諸寺の釈門」と「洛都の儒林」の思想的共同によって惹起(じゃっき)された痛ましき事件として、承元の法難の記録が次に引かれていくことになるのである。その点については次回考察したい。

(2018年10月、文責:親鸞仏教センター)

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