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研究活動報告
『西方指南抄』研究会
 末木文美士氏は昨年、『親鸞 主上臣下、法に背く』(ミネルヴァ書房)を上梓(し)された。そこで末木氏は親鸞のみではなく、法然、證空、清沢満之といった当センターでも考究・発信してきた人師の思想も掘り下げながら浄土教に関して問題提起を行っている。
 問題提起は多岐にわたるものであるが、そのなかで本研究会が特に注目したのが浄土教と「菩薩」ということである。末木氏は本書のなかで、自力/他力について論じるなか、「……自力をはたらかそうとする一瞬一瞬に、その自力が崩れて他力が現れてくるのである。それゆえ、自力が一度他力に転じたら、後は放っておけば他力のままだということはあり得ない」(285~286頁)と論じ、別の箇所には「他者との関わりをプラスの方向に向け、他者の力になりたいというのは、ごく自然のことではないだろうか。そして、その菩薩の心が自力で実現しないという挫折が他力を呼ぶのではないだろうか」とある(130頁 ※強調は報告者)。
 こうした末木氏の問題提起を念頭に置きながら、自力/他力、他者との関わりの是非、二種回向などについて忌憚(きたん)なき議論がなされた。ここでは末木氏の提示された大乗仏教における「菩薩」観を中心として、その一端を報告する。 (親鸞仏教センター元研究員 中村 玲太)
菩薩の倫理とその根拠

東京大学・国際日本文化研究センター名誉教授
末木 文美士氏
1 宗教と世俗の問題
 私が「菩薩の倫理とその根拠」について考えるきっかけになったのは、「諸行」と言いますか、例えば、東日本大震災のときのボランティア活動をどう評価するか。親鸞の思想が、それをはっきり肯定できるものでなければおかしいのではないか。このように考えたわけです。それは単に親鸞の言葉のなかにボランティアを肯定できる一節があるとか、そういう断片的な問題ではなく、根本の構造がそれを肯定できるものでなければ何か間違っていると思うのです。また、二諦説的に言えば、そうした問題関心は世俗のことであり、つまり俗諦の問題で、真諦は他力念仏だけだと、このようにはっきり分けることがはたして適切なのかと。
 世俗の問題は、真諦と切り離されたものではなく、仏法のなかに入ってこないといけない問題です。仏法というのはあくまで宗教の領域で、これだけの範囲でしか通用しませんよ、という話ではない。世俗の問題を導きうるものでなければ本当の宗教と言えないのではないだろうか。親鸞は権力者、天皇をも批判するのですが、それは「主上臣下、法に背く…」なのであり、その批判の根拠はどこにあるのかと言えば、それは仏法にあるのです。現実の権力者に向けられた言葉なのであって、そこで考えられた仏法というのは、世俗の法は向こうに置いておくような狭い範囲のものではないのです。
  親鸞を議論するなかで、親鸞は聖道門を否定したのだから、一般の仏教の理論は親鸞において通用しないのだ、という解釈もありますが、はたして親鸞は一般の仏教と違うことを主張したのか。『教行信証』はあくまで仏法の体系、これこそ仏法の正しい在り方なのだと示したものであると思います。親鸞は本当の仏教の理念をどうやったら実現できるのか、ということを考えているのではないのか。そして、仏法の根本は何かと言えば、「菩薩」ではないかと考えます。
2 菩薩の定義
 衆生というのは根本の構造からして他者と関わらざるをえない。他者とは、自分と同じにならない、自己と同化しきれない、異なる者であって、そうした他者と関わっていかなければならない。他者との関わりは、他者とも関われるという可能性の問題ではなく、それ以外ありえない必然の原理なのです。これが「存在としての菩薩」です。第二段階として、それを自覚化して他者にはたらきかけていく、これが「実践としての菩薩」です。
 また、われわれの存在は現世内だけでとらえることができない。そもそも菩薩というのは仏陀の前世として形成されたものです。それが仏陀だけでなくわれわれ一人ひとりの在り方の問題になってくる。こういうところに大乗仏教の転換があります。
 大乗仏教のなかでは、自業自得から他者との関係が問題となってくる。そこで言われるのが「廻向(えこう)」です。自分だけで完結しない相互の関係を言うのが廻向であり、それによって他者が、そして自己が変革されていく。こういう在り方を認めるのが廻向だということです。
 また輪廻も、もともとはそこから離れなければならないもの、マイナスに見られるものだった。この輪廻がマイナス、否定されるものだけではなく、輪廻をしていくなかで修行をしていく。輪廻そのものが修行として肯定的にとらえられていく。さらに、煩悩も全面的に否定されるわけではなくて、煩悩の衆生と関わっていくうえで、自らも煩悩を失ってしまえば「衆生と共に」ということがありえなくなってしまいますから、煩悩の意味づけが変わってくるのです。
3 浄土教と菩薩
 浄土教における菩薩と言えば、法蔵菩薩の誓願というものをどう考えるのか。阿弥陀仏を単に救済者としてとらえてしまうが、それだけではなくもともと菩薩というのは、われわれを救ってくれると同時に、それが模範、モデルとしてわれわれに手本を見せてくれる、という側面もある。
 それが『大無量寿経』では消されてしまっている。ところが、『大無量寿経』の異訳で初期の訳出になる『大阿弥陀経』では、それが明白に述べられている。『大阿弥陀経』の阿闍世(あじゃせ)授記の一段です。阿闍世太子が、自分も阿弥陀仏と同じように誓願して、菩薩として修行して仏に成りたい、それに対して仏陀が授記を与えるという一段がある(『大正大蔵経』巻12、303頁中段)。
 法蔵菩薩の物語が単なる神話ではなく、モデルとなっています。源信なども阿弥陀仏をモデルとした誓願を立てています。
 親鸞の場合は、菩薩と言えば「法蔵菩薩」なのであって、われわれの側が菩薩である、あるいは菩薩に成るということはありえない、そうした声も聞かれたのですが、それはどうだろうかと、菩薩理解に関して疑問に思うわけです。

※ 末木氏の問題提起と質疑は、『現代と親鸞』第38号(2018年12月1 日号)に掲載予定です。


末木 文美士(すえき ふみひこ)氏
1949年、山梨県生まれ。東京大学文学部印度哲学科を卒業後、1978年、東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。専攻は仏教学、日本思想史。東京大学助教授、同大学院人文社会系研究科教授を経て、現在、東京大学・国際日本文化研究センター名誉教授。
 著書に、『草木成仏の思想 安然と日本人の自然観』(サンガ、2015年)、『親鸞 主上臣下、法に背く』(ミネルヴァ書房、2016年)など多数。
 また、『アンジャリ』第10号(親鸞仏教センター)に、「天皇信仰と仏教 杉本五郎『大義』をめぐって」を執筆いただいている。
さらに、2006年10月13日に「清沢満之研究会」にご出講いただき、「清沢満之における宗教と倫理」をテーマにご講義いただいた。その内容は『現代と親鸞』第14号(親鸞仏教センター)に収録されている。
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