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研究活動報告
清沢満之研究会
第1回「現代と親鸞」公開シンポジウム

〈かたられる〉死者
■ 問題提起と開催趣旨
 「大切な人が死にゆくときに、本質的な問題は「命が失われる」ことなのだろうか、という問いをずっと考えています。かけがえのないその人がいなくなる、まさに〈誰〉かが失われるということが悲しいのではないか」(加藤秀一「〈生まれる〉ことをめぐる倫理学のために——〈誰〉かであることの〈起源〉」、『親鸞仏教センター通信』60号〔2017年3 月〕、4 頁)、これは第54回「現代と親鸞の研究会」にお招きした加藤秀一氏からの問題提起である。「まさに〈誰〉かが失われるということが悲しいのではないか」と語る視点は、死者に関しても同型の問いとして考え得るものである。「死者」と呼びならわしてきた、我々が悲しみ愛しみ、呼び、時には呼ばれるその存在は抽象的な「死者」などではなかったのかもしれない。我々がかたっていた亡き人の、〈誰か〉としての在り方がそこにあるのではないか。

 しかし、そもそもなぜこうした問題提起をする必要があるのだろうか。それは、抽象的な、通約された「死者」にすることで、「死者」というものをあまりにも容易く扱える存在に変容させていると思わざるを得ないからである。数万の死も「死者」という語で括ってしまえば容易に語ることができる——〈かたられる〉のではないだろうか。数万単位の死ですら一人一人の人格を捨象して、容易に意味づけもできてしまう。「死者」と抽象化された者に対して一度立ち止まって考えてみたいと思い、議論の公開を目指した第1 回「現代と親鸞」公開シンポジウムを開催した(2019年6 月1 日、於大正大学)。以下に提題者並びにコメンテーターからの報告を記す。 (親鸞仏教センター嘱託 中村 玲太)
◆ 提題Ⅰ
亡き人を〈悼む〉こと、「死者」を忘れること

加藤 秀一(明治学院大学社会学部教授)

 自分は生きているくせに、まるで「死者」に成り代わりうるかのように、今は亡き人々の思いを〈語る=騙かたる〉こと。私はそれを〈非在者の騙り〉と呼び、その欺瞞性と暴力性を批判してきた。そのような〈騙り〉は、「死者」たちの追悼という体裁をとりながら、実際にはしばしば、次なる死、より一層の犠牲を貪欲に求めるからだ。しかもそれは、必ずしも大きな声をもつイデオローグたちだけのことではない。欺瞞と暴力の種子は、「死者」というありふれた観念の中にすでに胚胎している。近頃流行りの、「死者」と「生者」を対比するたぐいの言論の胡散臭さ。これに対抗して、私たちは、「死者」という胡乱な観念を忘れようと試みることはできないだろうか。私たちの一人一人にとって忘れがたい、かつて近しかった人をただ〈悼いたむ〉ことに満足すべきではないだろうか——「国家」「民族」「共同体」等々と(その時々の社会的雰囲気に乗じて)名づけられる虚妄のために誰かを殺すことを止めるためにも。

 今回、かくのごとく素朴かつ粗っぽい私からの問題提起をめぐって、多くの人と討議する機会を得られたことは得がたい僥倖であった。主催者、登壇者、参加者のみなさまに心より感謝したい。
◆ 提題Ⅱ
「死者」はどこにいるのか
  ——仏教の死者観と人間中心主義批判——


師 茂樹(花園大学文学部教授)

 本発表では、唯識を中心に、仏教の視点から死者をめぐる議論を——現代においてどれほどの意義があるのか心もとないが——相対化することを試みた。

 輪廻を前提とする仏教においては「死者は存在しない」と言ってもよいかもしれない。一般に死者として観念される地獄の亡者や餓鬼らは、五道(六道)に生きる生者(衆生)である。人間が死後になるかもしれない餓鬼は、人間から見れば死者であるが、同時に餓鬼から見れば人間も死者である。死者に対する倫理があるとすれば、それは生きとし生けるものに対する倫理とほぼ同義である。
 唯識において、六道それぞれの環境世界を作り出しているのはそこに生きる衆生のアーラヤ識である。さらに言えば、衆生はそれぞれのアーラヤ識が作り出す個別の世界に生きている。誰かの生前の痕跡は、六道の各環境世界の書き換えという形で現れる。ただし同じ世界に転生するわけではないため、ある衆生の前世の痕跡が同じ世界にあるとは限らない。個々の衆生が生きる環境世界には、死者の痕跡とともに、衆生自身の活動記録が刻まれている。このような世界観のなかで駆動される倫理とは、他者の立場には立てないし、他者を代弁することもできない、というものであろう。
◆ 提題Ⅲ
極楽浄土に往き生まれて

吉水 岳彦(大正大学非常勤講師)

 死者は生者から見た一過程の呼び名に過ぎない。念仏者にとっての「死」は、新たなる「生」である「往生」に他ならず、浄土教における「死者」とは、「極楽に往き生まれた人」を意味する。そして、地獄や餓鬼、畜生などの苦界に新たな生を得るのではなく、極楽往生という解脱を遂げ、なおかつ美しい有相荘厳の世界を自由に飛びまわる生を得るのである。加えて、往生人は極楽で如来になることもできるが、この世に残した縁ある者を導こうと願えば、再び苦しみの世界に戻って来ることができる(還相回向)。

 そのような死者(菩薩)の実在は、凡夫の目には見えないが実在する阿弥陀如来を信じて念仏申すうちに実感されてゆく。死別後の新たな生活を歩みだす念仏者は、極楽は遠けれども会いたいと願い念仏を申せば一瞬にして帰り来る菩薩(死者)が、必ず自分のもとを訪れてくれると、死者との持続的なつながりを見出す。そして、常に見守り導いてくれる如来や極楽の菩薩(死者)をそばに感じられるからこそ、どんなに厳しい環境におかれようとも生き抜くことができるようになる。念仏者にとって死者は実在し、近くにも遠くにも居て、ときどき生者以上にその存在を感じさせる存在である。
◆ コメント概要

コメンテーター 佐藤 啓介(南山大学人文学部准教授)

 三人の提題は、それぞれに重なり合うものであったが、特に、それぞれの提題者に次のようなコメントや質問をおこなった。

 加藤氏は、亡き人を死者として一般化して悼むことの問題点を鋭く指摘した。その主張には全面的に賛同したい。そのうえで、亡き人を悼むことができるのは、その人と関わりのあった人に限るべきだとされたが、それでは、社会のなかで人との関わりが断たれ、無縁となった人を誰がどのように悼むことができるのか。次に師氏は『餓鬼草子』を題材としながら、人間界と餓鬼界などが複数の層からなる世界を構成している魅力的な世界像を描き出した。そのスケールに非常に刺激を受けたが、ではその場合、人間が餓鬼らのために行う供養の営みは、どのように意味づけられるのだろうか。最後に吉水氏は、死者を「極楽に往き生まれた人」として描き出し、そこから具体的な死者と生者との関わり方を描き出した。その倫理的な視座に貫かれた思索に敬意を表するとともに、端的に気になったのは死しても「極楽に往けない悪しき人々」をどう考えるのか、という点である。

 上述のような倫理的・仏教的論点は、親鸞教学の観点も交じえていずれも全体討議のなかでより深められた。三人の提題者に深く感謝したい。
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