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2010年 10月
『伊丹万作エッセイ集』
伊丹万作 著
[ちくま学芸文庫 1,470円 2010年]
「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだま
されるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちが
いないのである。
これは伊丹万作が戦争責任について論じたエッセイの一文である。この言葉が今でも新鮮さをもって私たちの胸に届くのは、「だまされていた」と憤慨(ふんがい)しながらも、実は「平気でいられる」自分たちの姿が見ぬかれているからであろう。誰かに責任をおしつけて、自分たちを安全な場所に置こうとするのは、一種の本能のようなものである。しかし、責任者を特定することで事足れりとして、そこで思考を停止してしまうことが、実は一番危険であり、かつ私たちのもつ病であることを、伊丹の言葉は示してくれている。私たちの日常の生き方さえも問いなおさせる力をもつ文章であろう。
田村晃徳(親鸞仏教センター嘱託研究員)
「駆け込み訴え」−『富嶽百景 走れメロス 他八篇』より
太宰治 著
[岩波文庫 500円 1957年]
「この純粋の愛の貪欲のまえには、どんな刑罰も、どんな地獄の業火も問題でない。私は私の生き方を生き抜く。身震いするほどに固く決意しました。」
本短編は、イエスを「売る」ことを決意し、役所に駆け込んだユダ自身の「声」のみで構成されている。駆け込みの勢いそのままに激白し続けるユダの語りは、困惑した感情であふれ、まったく支離滅裂であるが、ここに一貫しているのは、意外にも彼自身のイエスへの熱烈な「愛」である。この愛ゆえに彼は自分の手でイエスを売るのであり、地獄の業火も恐ろしくないという。
親鸞はその師法然との関係を語る文脈で、己(おのれ)自身を省みて「地獄は一定(いちじょう)すみかぞかし」と言っている(『歎異抄』)。親鸞もまた明らかに法然を「愛して」いたはずであるが、本書のユダと『歎異抄』の親鸞の、それぞれが語る「私」の位置はまったく異なっている。現代社会を顧みるとき、いわゆる"宗教事情"に限らず、あらゆる人間関係における核心と問題点が、両者のこの違いに凝縮されてはいないだろうか。
内記洸(親鸞仏教センター嘱託研究員)
『多主語的なアジア』
杉浦康平 著
[工作舎 2,800円 2010年]
書名にあるこの「多主語的」とは著者の造語である。「私が○○する」といったような、自己を強調する西欧における一主語的な発想に対し、森羅万象あらゆる存在がこの私とつながりをもち、私の中に息づいているというアジア文化特有の生命観を「多主語的」と表現するのである。
本書では、いまなおアジアに残るさまざまな造形物や、古の儀式などのデザインから、この多主語的な精神を読み取ることを試みている。目を凝らせば実はすぐ近くにある、脈々と受け継がれてきたアジアの多主語的世界観に意識を向けてみることの意義は大きい。私たちは西洋的近代化の波に迎合し、無反省に自我を拡大しつづける在り方から少し立ち止まる必要があるのかもしれない。
本書の中で、私が特に目を奪われたのは、インド、ムガール朝時代に描かれた「話す木」という細密画である。それはアレキサンダー大王に予言を授けたとされる伝説上の木で、その画は遠くから見るとただの大木だが、よく見ると、咲いている花から幹に至るまで、すべて蛇や馬や猫や人間などの生物たちで構成されているのだ。これはとても文章では表現できない、むせかえるような、生命のざわめきを感じさせる一枚である。
花園一実(親鸞仏教センター研究員)
濁浪清風
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