親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

第226回「悲しみを秘めた讃嘆」⑩

 菩提心の歩みは、大悲の菩提心として「法蔵菩薩」の物語を掘り起こし、その願心の因果を構築してきた。この物語には、この背景に仏道の伝承があったことが語られている。それが、『大無量寿経』の「乃往過去 久遠無量 不可思議 無央数劫」(『真宗聖典』9頁)に始まる五十三仏の伝承である。

 この伝承とは、文字通りの歴史的な伝承を語るものではない。この無央数劫という時間は、法蔵菩薩を生み出す根源を表そうとしている。すなわち法蔵願心の因位の大悲が、個人を超越して、しかも個人を包まずにはおかない問題を発掘してきた深みなのである。釈尊をも突き抜けて、釈尊を生み出してきた菩提心の深みを表そうとするものであると思う。

 この伝承を担った願心が、法蔵菩薩の名のもとに、真実の功徳を普く衆生に恵むための思惟に入るのである。その思惟は「五劫に思惟して摂受」したと言われている。「超世無上に摂取し 選択五劫思惟して 光明寿命の誓願を 大悲の本としたまえり」(『真宗聖典』502頁)と、親鸞は『正像末和讃』でこの間の事態を表現している。名号の選択の根底に、光寿二無量の願を置いて、いわばその上に名号が乗っているようなイメージであろうか。

 かくして、法蔵願心の物語が、光明・寿命の功徳をもった名号として、我らに届けられてくるのである。しかし、これが衆生にすんなりと受け止められるのではない。人間の邪見驕慢(じゃけんきょうまん)なる意識には、この物語は荒唐無稽のことであるとしか映らない。大悲弘誓と教えられても、それが一向に響かないのである。仏道をこの世の範囲内で思考しようとする世俗的知恵は、対象や目的を設定されれば、動き出す傾向が顕著なのである。

 そもそも仏陀が言語を超えた体験を、言葉を用いて表現したのは、この世俗の知恵を見通して、因縁として説き出したのである。目には見えない無量無数の因縁の中から、はっきりと見えるような因縁を取りだして言葉に定着させたのである。仏法は超世の事柄だと言われるのは、この一応は見える因縁のことのように語られていても、実はその背景には無量無数の因縁があるからであろう。

 浄土は三界を超えて、「勝過三界道〈三界の道に勝過せり〉」(『浄土論』、『真宗聖典』135頁)であると荘厳されているのは、人間が経験できる範囲(それを三界という)を超過しているということであろう。したがって、語られた言葉の意味を解釈することに関わるのみなら、それは世俗の学びではあり得ても、仏道を学ぶことにはならないのである。我らの学びが、世俗の発想に常に引き戻されるのは、我らの立つ場所が、世俗世間にあるからにはやむを得ないのだが、学仏道は常にそれを自覚的に乗り越えてこそ成り立つのであろう。

(2022年4月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ