「読み書きのできない者たちの中国古代史」

柿沼 陽平 KAKINUMA Youhei
早稲田大学文学学術院教授
親鸞は、読み書きのできない大衆(以下、無文字階層)をまえにして、仏法を説いたといわれている。たとえば『歎異抄』をみると、いたずらに学問に拘泥するよりも、むしろ「一文不通のともがら」が無心に念仏をとなえる姿をほめたたえている。
また親鸞は晩年に「いなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき、愚痴きわまりなきゆえに、やすくこころえさせんとて、おなじことを、とりかえしとりかえしかきつけたり」とのべ、『一念多念文意』を著わしている。
こうした親鸞の教えが13世紀頃から徐々に日本に広まってゆく背景には、無文字階層の民の存在があった。おりしも鎌倉幕府が成立し、関西方面では寺社仏閣・貴族が、関東方面では武士が中心となってしのぎを削るなか、親鸞のまなざしは無文字階層の民に注がれていたのである。
このような無文字階層の者と仏法との関係は、じつは古代中国にさかのぼる。そもそも仏教は漢代に伝来し、後漢時代には都の洛陽において仏像が作成されていた ※注1 。 やがて後漢末の群雄のなかにも仏教を信奉する者があらわれ、とくに現在の徐州や南京にあたる地域で信者を増やしていった ※注2 。
その後、『三国志』に描かれるような動乱の時代となり、それを統一した西晋もすぐに帝室関係者同士の争いによって動揺し、万里の長城以北に源流をもつ「五胡」が華北を席巻するようになる。なかでも石勒(せきろく)は、一介の奴隷から立身出世を果たした異種族出身者であり、後趙の皇帝にまでのぼりつめる。彼は文字を読み書きすることができず、部下に命じて『漢書』を音読させ、中国の歴史を学んだらしい ※注3 。
このように無文字階層に属していた石勒は、しかし、仏教に深く帰依する。その発端は、西域からやってきた仏図澄(ぶっとちょう)が戦場で予言を的中させ、石勒の信任を得たことにあった ※注4 。仏図澄は無文字階層の石勒にたいして仏法を説き、かくしてそれが中国仏教の隆盛につながったわけである。
ところで、このように、中国古代に石勒のごとき無文字階層がいた点について、いささか意外に思われた読者もいるかもしれない。というのも、中国は一般に「漢字文化圏」の中核に位置づけられ、近代まで世界の文化の最先端を走り続けた国として知られているからである。なるほど、漢字の祖先とされる甲骨文字は、紀元前13世紀頃にすでに出現しており、甲骨文の源流らしき記号の登場はそれ以前にさかのぼる ※注5 。
その約千年後には漢帝国が成立し、現在とほぼ変わらぬ漢字の体系が構築されている。後漢時代には許慎『説文解字』という字書まで著わされている。よって、石勒は異種族出身の奴隷であったために無文字階層であったにすぎず、むしろその他大勢は漢字に習熟していたとしても一見不思議はない。この点をもう少し掘りさげて説明してみよう。