龍谷大学経営学部准教授
竹内 綱史
(TAKEUCHI Tsunafumi)
■特集を捉える [岩田文昭「いのちの否定と肯定」へのコメント]
いつ頃からか、私は「いのち」という言葉が大嫌いである。「生命」とか「生」といった言葉は問題ない。平仮名で「いのち」と書いてあると、どうしても警戒してしまうのだ。なぜか。それは、「いのち」という表記を見ると、まず間違いなく「イイ話」が語られることが予想され、しかも、その「イイ話」の背後には無数の苦しみが隠れているにもかかわらず、万事オッケーであるかのような語り、万事オッケーでなければならないかのような語りになることがほとんどだからだ。そういう語りは不誠実なのではないか(注1) 。
『アンジャリ』第41号の特集テーマ「〈いのち〉という語りを問い直す」は、以上のような嫌悪感に囚われてる私には非常に興味深いものである。その中でも特に、「いのちの否定と肯定」を分析する岩田氏の論考は、私の関心にとても近いものであった。氏の論考は、「いのち」には、ただひたすら肯定的に語られ「生命主義」や「いのち教」とまで言われる側面と、悪や苦などの否定的要素を正面から見据えて語られる側面のあることが、W・ジェイムズや上田閑照の議論から取り出され、その肯定否定の両面を浄土教の祖師たちのなかに見て行くというものである。
この世の悪をまるで存在しないかのように無視して、「いのち」の素晴らしさを喧伝する現代の「いのち教」こそ、私が大嫌いな当のものであり、落ち着いた氏の筆致からも似たような嫌悪感が読み取れるが(私の勝手な思い込みかもしれないが…)、むしろ興味深かったのは、悪を直視した末に出てくる「いのち」の語りが、「いのち教」と見紛うほどに似てくるという点である。氏は、法然の高弟である證空は、現生の肯定を強調するため生命主義的に解釈されることがあるが、それは誤解だと論じている。その議論の当否等については専門外なので私には分からないが、生の否定を通り抜けてから到達される肯定の境地が、否定的側面を無視して肯定する境地と見分けがつかなくなるという問題は、非常に重要な論点だろう。
岩田氏は論じていないが、その問題は氏の参照する上田閑照の議論にも当てはまるように思われる。上田は「人間として生きる」ことを三つに分け、自然科学の対象となる「生命」、人文科学の対象となる「生」の先に、「死」や「貧」といった否定的な契機を通して見えてくる「いのち」があると言う。「生」から「いのち」へは悪を見据えた上での飛躍があり、その意味での「いのち」は学問の対象にはならず、対象化できないものであって、宗教や芸術などで表現されるに過ぎないとされる。私が気になるのは、その意味での「いのち」の語りが、「いのち教」における語りと接近してしまう、あるいは、同じようなものとして受けとめられてしまう危険性である。それは上田の文章自体の美しさのせいもあるとは思うが、より根本的には、そもそも「生命」や「生」と「いのち」を並列して論じていることがもつ危うさである。上田自身が注意を促しているように、それは対象化できないものであるはずなのだが、「対象化できないものである」と語ってしまうこと自体が、対象化を生んでいるのではないか。つまり、本来、頭(だけ)では理解できないはずのことを、理解したと思い違いしてしまうことにつながるのではないか。
要するにこういうことだ。通常の生の否定を経た上での肯定が「いのち」を生きることであるとされるが、それをそのようなものとして語ってしまうことによって、否定を経ずに肯定する「いのち教」と見分けがつかなくなってしまうのである。苦しみや悪と対峙することで否定された生から、肯定へと転じるその転回は、宗教的経験の一つの核心であるわけだが、それはあくまで経験されねばならぬものであり、対象化されて、つまり頭だけで理解されるような類のものではない。そんなことはもちろん繰り返し繰り返し指摘されてきたことではある。だがここでももう一度繰り返さねばならないだろう。「苦しみや悪と対峙する」ということは生易しいものではまったくない。それを経た末にようやく到達された境地で発せられる言葉を、「そうですよね、やっぱり〈いのち〉って素晴らしいですよね」などと、「いのち教」的に受けとめることには、強い嫌悪感を覚えざるを得ないのだ。
けれども、そこからさらに、「だが…」と続けなければならない。
ニーチェの『ツァラトゥストラ』第四部に、「ロバ祭り」という奇妙なタイトルの節がある。ツァラトゥストラが期待した「ましな人間」たちが、いつの間にかロバを崇めるようになってしまったことを批判する場面である。ロバは「I-A(イーアー)」と鳴くことでどんなことでも受け入れる「肯定の精神」の象徴として、「ましな人間」たちによって崇められている。注目すべきは、そのロバは、ツァラトゥストラ=ニーチェが推奨する「Ja(ヤー)」(英語のyesに当たるドイツ語)という「肯定の精神」と瓜二つだという点である。つまり「ヤー」と「イーアー」の微妙な違いにこそ決定的な差が存在し、ツァラトゥストラ=ニーチェの考える真の肯定(永遠回帰の肯定)――それはこの世の悪のすべてを見据えることを要求する――とは、何でもかんでも肯定するロバの「イーアー」ではなくして、「ヤー」なのだ、という話である(注2) 。つまりここには先に述べた二つの「いのち」、いのち教的「いのち」と、生の否定の末に到達するはずの「いのち」との、決定的でありながら見紛いがちな差異と、同じ事態が俎上に載せられているわけだ。
問題はその先である。『ツァラトゥストラ』では明らかに「ヤー」と「イーアー」の決定的違いが話題にされているのだが、ニーチェ自身が別で展開している認識論的な枠組みからしても、そもそも「ヤー」と「イーアー」に客観的な違いが存在するとはとても言えない可能性が高いのだ。
そうなると、こう言わざるを得なくなる。自分の肯定が「ヤー」だと思っている人であっても、本当は「イーアー」と言っているのと変わらないのではないのか。「いのち教」的生命礼賛を唾棄して、悪を見据えた先に辿り着いたつもりでいる「いのち」の肯定であっても、それもまた結局、「いのち教」と何ら変わらないのではないか。そこに真の違いなどというものが本当に存在するのか。――このように問うこと、問い続けることが、必要なのではないか。そのような自問と逡巡にあくまで留まり続けることにこそ意味があるのではないか。岩田氏の論考はそう問いかけているのだと、私は理解した次第である。
(注1) この問題については、本稿とはだいぶ文脈の違うものではあるが、難波教行氏の素晴らしい論考は参考になる。難波教行「「生命讃仰」言説の落とし穴 ――親鸞思想を通して」、『現代と親鸞』第45号、2021年、253-271頁。
(注2) 須藤訓任『ニーチェ 〈永劫回帰〉という迷宮』、講談社選書メチエ、1999年、81頁以下参照。
(たけうち つなふみ・龍谷大学経営学部准教授)
訳書にバーナード・レジンスター『生の肯定――ニーチェによるニヒリズムの克服』(岡村俊史/竹内綱史/新名隆志 訳)。他論文多数。