親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

先徳との「対話」を目指して

花園大学文学部教授

師  茂樹

(MORO Shigeki)

■特集を捉える

 [大谷由香「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」へのコメント]

 

 哲学者の河野哲也は「思考とは、他者から発せられる多様な声を自分のなかに取り込み、そのあいだの対立や闘争やすれ違いを取り持ち、それらの声を交渉させ、調停し、まとめたり、和解させたりして関連づける」という「本質的に政治的な活動」だと言う(『じぶんで考えじぶんで話せる―こどもを育てる哲学レッスン』河出書房新社、2018)。仏教者にとって「自分のなかに取り込」むべき「声」は、まずもって仏典に説かれる先徳たちの様々な言説ではなかろうか。

 大谷由香「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」の中で紹介されている、『瑜伽師地論』菩薩地における「慈悲殺生」の議論、そしてそれを様々に注釈した東アジア、日本の学僧たちの「声」は、現代の我々にも多くの「思考」をもたらしてくれる。むしろ、ここで紹介されている先徳たちとの(広義の)対話の必要性は、現代においてますます高まっているように思われる。

 思えば今から四半世紀あまり前、我々の社会ではオウム真理教という団体による「慈悲殺人」(彼らは「ポア」と呼んでいた)が発生した。その時、たまたま見ていたテレビのワイドショーに仏教学者が呼ばれていて、「ポアは仏教なのですか?」と詰問されていた。その学者は「ポアは仏教ではありません」と答えていた。仏教は、どんな目的であれ、殺人は肯定しないというのだ。

 当時大学院生だった私は、彼がそう答えざるを得ない状況であったことに強く同情しつつも、その発言を聞いて思わず「嘘だ」とつぶやいていた。その時私は、まさに大谷が紹介する『瑜伽師地論』菩薩地の該当箇所を読んでいたのだった。私の中で複数の「声」が対立し葛藤していたことを思い出す。

 『瑜伽師地論』では、大谷が紹介している「慈悲殺人」以外にも、菩薩の慈悲にもとづく加害や(現代風に言えば)ハラスメントの事例が「菩薩戒に違犯したことにはならないし、かえって多くの功徳を生む」と述べられている。その中には、権力者による仏教の強制の例もある。これなどは、昨年、アフガニスタンにおいてタリバン政権が復活したことを想起させる。この件について、日本の報道にはほぼネガティブなものしかないように思う。もちろん、それらの報道にはそれなりに根拠があるのだろうし、人権侵害があるのであれば早急に改善されるべきであると思う。その一方で、我々はこの問題について、「多様な声」に耳を傾けているのだろうか、偏った価値観だけで一方的な断罪をしてはいないだろうか、とも思う。『瑜伽師地論』やその注釈をめぐる議論も、この点から読まれ直してもよいかもしれない。

 現代の倫理的問題を考える際、マイケル・サンデルが紹介したことで有名になった所謂「トロッコ問題」――大谷も言及しているが――などを参照するのもよいが、我々の有する伝統の中で豊かな倫理的議論がなされていたことに、もっと目を向けてもよいように思う。言うまでもなく、現代の(特に欧米の)価値観を否定しろと言いたいわけではないし、仏教だけを特権化すべきだとも言いたいわけではない。ただ、我々はもっと古典を含めた「多様な声」を取り込み、自分の中で葛藤させ、そして何らかの判断をする訓練をすべきだし、仏教者であるならばその中に仏典を含めるべきではないか、と思うのである。そして、大谷のこのエッセイには、そのためのヒントが多く含まれているように思われる。

(もろ しげき・花園大学文学部教授)
近著に『最澄と徳一――仏教史上最大の対決』(岩波新書)。他論文等多数。

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健全な心の持ち主は、人生を善きものと感じ、世界の暗い面や自己自身の不完全さに思い悩むことは少ない。この心の持ち主は、さしあたり無意識のうちに世界の善性を信頼し、自然に幸福を感じる人といえる。しかし、むしろこの類型の本領は、意志的・組織的に悪を自身の視野の外に締め出す方法を用いることにある。ものごとを全体として善と考え、意識的に楽観的な人生観にもとづき、人間の生を肯定するのである。ジェイムズは当時のアメリカで起こっていた「マインド・キュア(精神治療)」運動を具体的な例としてとりあげ、積極的に人生を肯定する方法の特色を紹介している。  マインド・キュアは、ニューソートとも呼ばれるが、このような方法論にもとづいて、自己を肯定しようとする動きは、当時の合衆国にだけ存在したのではない。現代の日本の新宗教や精神運動においてもこのような形態はひろく認められる。新宗教のひとつである生長の家の創始者、谷口雅春は実際にニューソート(生長の家ではこれを「光明思想」と呼ぶ)に大きな影響を受けて、活動を展開していった。光明思想のような生命観は、戦後、教勢を著しく拡大した新宗教の大きな特徴である。その生命観は、ひとりひとりの心の状態や思いは、宇宙の本源的実在やエネルギーと密接につながっていると想定する。そして、宇宙の諸存在はすべて一つの生命体であり、悪は根源的な実在性をもたないとされる。新宗教におけるこのような理論構成は、宗教学者によって「生命主義」として研究されてきた(対馬路人他「新宗教における生命主義的救済観」『思想』665号、1979年)。来世ではなく現世に重きを置くのも、生命主義の特徴のひとつである。  しかし、生命主義的な思想は新宗教だけにみられるものではない。新宗教の教理ほど体系的ではなく、また徹底したものではないにしろ、現代の学校教育やマスコミなどでも、生命主義に親近した考え方が暗黙のうちに浸透している。しばしば、「すべてのものはつながっている」「すべてのいのちは輝いている」「あなたには無限の可能性がある」などという表現がなされる。ひとりひとりの生をかけがえのないものとして見据え、できるだけ善いことや長所を見いだすことで、生が肯定されるという発想である。このような思考形態は現代における「いのち教」と呼ぶことができよう。  それでは、ジェイムズがいう「病める魂」はどのような性格類型であろうか。病める魂の持ち主は、悪の存在に悩まされる人である。世界や自己の悪い面が切実に感じられ、悪と向き合うことが本当のあり方だと考える。そのように悪や苦しみに向きあうことで、古い自己が死に、新たな自己が蘇ることがある。再生された自己においては、悪や苦は必然的なものと認められ、それらは内に含まれた仕方で統合される。このような死と再生の経験は、伝統的な宗教、とくにキリスト教や仏教において顕著にみられてきたことだとジェイムズは指摘する。事実、キリスト教では人間を原罪があるものとし、仏教では生老病死などの四苦や八苦を説く。ジェイムズはキリスト教と仏教は本質的に「救済(deliverance)」の宗教であり、その教えの核心をこう述べる。「真実なるいのち(life)に生まれうるには、人はまず真実でないいのちを忘れさらねばならない」。 ◆上田閑照の宗教哲学生命/生/いのち  キリスト教や仏教など救済宗教の「いのち」理解を考察するためのよい手がかりを上田閑照は提示している(上田閑照『宗教』岩波現代文庫、2007年)。近年の宗教哲学者の代表的存在である、上田の論をもとに肯定と否定との問題をさらに考えてみよう。  本来的に「人間として生きる」という観点から、上田は宗教の問題を考察する。上田によれば、「生きる」ことには「生命」と「生」と「いのち」の三つの次元があり、それらがダイナミックに連関してこそ「生きる」ことになる。「生命」は、生物学や生命科学の対象となるものである。「生」には「生活」という面や「人生」という面もある。そのため、さまざまな人文科学の対象となる。「生」はさまざまな意味連関の中におかれるが、それを包括する場所が「世界」である。宗教との関係で重要なのは「いのち」である。「いのち」は学問の対象とはならずに、対象化することでは触れることができないところで生きられる。生命や生とは質を異にし、詩・文学や芸術や宗教などで直接に「いのち」の言葉に触れて、「いのち」の目覚めが生起する。「いのち」の目覚めは宗教にかぎらず、詩や芸術でも自覚されることがある。ただし、「生命」から人間的な「生」へは量的な飛躍であるのに対し、「生」から「いのち」への飛躍はそうした飛躍の線を断ち切ったところから出てくる質的な飛躍である。「死」や「貧」といった否定的な契機を通して自覚されてくるのが「いのち」なのである。そして、こうしたすべての連関を含めて、その全体が生きられることが「人間として生きること」になるのだという。  上田は、悪や苦などの否定的なものを真正面から見すえることが本当の意味で「生きる」ことだとするのであり、この点、ジェイムズのいう「病める魂」と論が重なる。  ここで大切なのは、上田が捉える救済宗教の本質である。意味の総枠である「世界」と、それを越えるものは異質で断絶している。伝統的に「宗教」とされるのは、「世界」を越え包む限りない「開け」が、「世界」の内から主題化されたものだと上田は捉える。具体的にいえば、神域・神殿・教会などは地図の上に位置づけ可能な、目に見える局所であるが、本来的には「世界」とは断絶した場所なのである。しかし、それを目に見える世界内のものとして捉えると問題が起こる。  人間にはそもそも「歪み」と「転倒」の危険性がある。「歪み」とは、人間的生に関わる世界がすべてだとし、それを越えるものを見ないことである。これは宗教的なものを意図的に見ない歪みである。「転倒」とは、本来、人間的生においては見えないものを見てわかったものとして、人間的生の次元に引きずりおろすという転倒である。歪みや転倒は宗教の歴史の中でしばしば生じており、宗教思想家はそれぞれの仕方でその危険性を乗り越えようとしてきた。 ◆浄土教における否定と肯定法然・證空・親鸞  さて、上田やジェイムズの提示した宗教モデルをもとに、浄土教について考えてみよう。浄土教の祖師たちは、いずれも病める魂の持ち主であり、自己の罪悪をみすえている。なるほど、法然は通仏教の側からも「智恵第一の法然房」と讃えられ、また持戒堅固の清僧と知られていた。しかしながら自身を「戒定慧の三学の器にあらず」と認識し、また「十悪の法然」「愚痴の法然」と自覚していたと伝えられている。その法然が称名念仏の教えを説いた。ただし、念仏一行を「選択」したのは法然ではなく、阿弥陀仏であることを見失ってはならない。阿弥陀仏が余行ではなく、念仏を選択し、それを往生の本願としたということが『選択本願念仏集』の主旨であり、そのことが決定的な意味を有している。この著作には、人間的生に関わる意味世界ではない、絶対の側からの働きが表現されている。上田の言葉に従えば、「いのち」の言葉が念仏なのである。その念仏の働きには自力無功という否定の契機が内包されている。  しかし、このような法然の立場は、念仏以外の行を修する仏教者から非難されることになる。また人間の意味世界を越えた絶対の働きと、人間の生の意味世界との関係が問われることになった。法然自身は、当時の社会の仏教や道徳の規範に則った清僧として一生を過ごした。すなわち、このようにして法然は「人間として生きた」のだ。とはいえ、教団が大きくなり、信者が増えていく中で、この課題に理論的に答える必要もでてきた。  法然の高弟、證空は法然が残した課題に取り組んだ一人である。のちに浄土宗西山派の派祖とされた證空の教義は独特な名目や高尚な哲理を含んでおり理解は容易ではない。天台本覚思想に基づいた現実肯定の思想として誤解されることもある。しかし、證空も病める魂の持ち主であった。證空は人間を総じて「濁世の凡夫」「垢障の凡夫」「垢障覆の衆生」と理解し、悪や罪を正面から捉えている。そして、仏性が遍満するとしているが、遍満する仏性は「弥陀の理性」であり、そのことの「領解」がなければ、衆生は三界流転するという。さらに、念仏においても「自力の念仏」と「本願に相応した他力の念仏」とを区別している(『女院御書』下巻第七章)。阿弥陀仏の絶対性が見据えられているといえる。しかし、領解の信心において、あらゆることの意味が復活する。通仏教の修行や世俗の道徳が生き返り、人間的生の意味が肯定されるのである。古来より法然は「諸行の頸を切り」、證空は「諸行を生け捕りに」したと評される所以である。  證空は現生往生である「即便往生」を表だって説いている。「生きて身を蓮の上に宿さずば念仏申す甲斐やなからん」。この和歌は、臨終時の往生(證空はこれを当得往生という)のみでなく、生きながら往生することの重要性を端的に表現したとされている。證空はこのような独自の教学をもとに、人間として生きた。證空の場合、肯定の契機を強調することが多い。そのため、「生」から「いのち」への否定の契機がともすれば見落とされがちになる。後世において證空は、健全な心の持ち主のようにみなされ、生命主義的に解釈されることもでてきた。  親鸞の自己の罪悪性への自覚は痛切である。病める魂の典型的人物といってよい。親鸞の教えの核心は、阿弥陀仏の本願への疑いが滅して、正定聚に入って生きることにある。このことは、まさに虚仮のいのちを捨て真実なるいのちに生まれかわることを表現していることにほかならない。法然への論難に対して答えることは親鸞にとっても課題であり、『教行信証』執筆の大きな動機であった。残された課題の一つに菩提心の問題がある。親鸞はこれに対して、信心も自己がおこすものではなく、弥陀よりたまわるものだと示した。後世、絶対他力と称されるほど、弥陀の絶対性を強調したのである。他力信心に関する論理を徹底させながら、親鸞も人間として生きた。しかし、親鸞も理論的課題をすべて解決したわけではない。人間的生の意味連関の中で道徳・倫理をどう捉えるのかという課題は、そのひとつであろう。信心を獲て、現生正定聚の中に入ることは、むしろ人間的生の意味連関の再構築の始まりとなる。  ジェイムズや上田の理論が必ずしも全面的に妥当するとは限らず、また浄土教をかれらの理論で考察する必要もない。しかし、浄土教の思想をその文字の表面的な意味理解に限らず、より普遍的な次元で捉え返すことは大切なことであろう。浄土教は、現代に流布している「いのち教」と違うのか否か。あるいは、俗世から断絶した浄土を人間的生の次元に引きずりおろす転倒は生じていないか。いのちの肯定と否定の問題は、そのような問いを投げかけているように思われる。 (いわたふみあき・大阪教育大学教育学部教授)著書に、『近代仏教と青年――近角常観とその時代』(岩波書店、2014)、編著『知っておきたい日本の宗教』(ミネルヴァ書房、2020)など。 他の著者の論考を読む...
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