大阪大谷大学文学部教授
梯 信暁
(KAKEHASHI Nobuaki)
最近『お迎えの信仰―往生伝を読む』という本を書きました。法藏館から発売中です。浄土真宗のご信心にはそぐわないタイトルだと思われるでしょう。私どもはお迎えを必要としません。それは親鸞聖人が教えてくださったことです。
お迎えは、平安時代に定着した阿弥陀仏信仰の最大の特徴です。親鸞聖人はその信仰に潜む闇の部分を直視し、それを排除して御同行の苦悩を救われたのです。その経緯について少し述べたいと思います。
日本の阿弥陀仏信仰は飛鳥時代以来の伝統がありますが、貴族社会に浸透するのは10世紀半ばのことです。比叡山のお念仏が貴族の間で評判になったことが直接のきっかけです。美しい旋律で歌うように唱えられた「南無阿弥陀仏」の声に魅せられた貴族たちが、山のお堂に出向いてお念仏を聴聞し、また自邸に僧を招いて念仏法会を催したのです。やがて貴族たちは極楽への往生を願うようになります。その信仰を教理面から支えたのは、当然比叡山の僧たちでした。彼らが貴族に説いたのは、『観無量寿経』下品下生段に示された称名念仏の教えで、「どんな悪人でも、臨終の時に善師の導きによって十遍、南無阿弥陀仏と称えたならば、極楽からお迎えが来て、必ず往生できる」ということでした。
その教えが受け容れられ、貴族社会に阿弥陀仏信仰が浸透してゆきます。貴族たちは比叡山の僧の指導を仰ぎ、臨終のお迎えを願ってお念仏にいそしむようになるのです。
10世紀末、源信僧都が『往生要集』を著されました。貴族向けの本ではなく、比叡山の修行僧を対象として、念仏の教理と実践とを示した書です。その念仏は、「極楽への往生・悟りの完成・衆生の救済」を目標とし、大乗仏教の修行を網羅して組織されたものでした。特に、発菩提心と観想念仏とに重点が置かれています。さらにそのすべての成果を傾けて、臨終にお迎えを感得するための作法が提示されています。『往生要集』が目指したのも、やはりお迎えだったのです。
源信僧都は、平生の念仏修行の成果として臨終の念仏作法が成就すれば、臨終正念に達することができ、その正念に対して極楽からお迎えがやって来ると説かれました。臨終正念が得られないとお迎えは現れず、往生できないばかりか、地獄に堕ちるかもしれないと述べられています。
それは比叡山の念仏行者を叱咤激励する教えでした。貴族を導く意図はなかったはずです。ところが藤原道長が愛読したことによって『往生要集』は貴族社会に流布し、貴族たちが臨終正念を目指すようになったのです。もちろん容易なことではありませんでした。
『往生要集』の流布によるお迎えの信仰の広がりは、貴族社会に不安感をもたらすことになりました。信仰が深まり、教理の理解が進むにつれて、多くの人が自身の救われ難さを痛感するようになったのです。院政期の阿弥陀仏信仰は、絢爛豪華な美術作品を特徴とします。それは希有のお迎えを渇望する、貴族たちの不安感・焦燥感のあらわれだと言えましょう。また12世紀に続々と成立する「往生伝」からは、異常な切迫感を読み取ることができます。
そのような感情は、13世紀には庶民層にまで広がっていたようです。法然聖人や親鸞聖人は、それを克服するための教えを説かれています。中でも私どもに親しみ深いのは、次に掲げる親鸞聖人のお手紙の文でしょう。
お迎えは、諸行往生の法門の中で説かれることです。自力の諸行によって往生を目指す修行者にはお迎えが必要だからです。臨終の重視なども、諸行往生の行者に説かれることです。臨終に至るまで、真実の信心を得られなかったのですから仕方ありません。また十悪・五逆の罪人が、臨終の時に初めて善師に出遇ったならば、臨終念仏が勧められます。それに対し、我ら真実信心の行人は、阿弥陀仏から信心を頂戴したその時に、仏の救いの手の中に抱きとめられ、その後も決して見捨てられることがありませんから、すでに平生の時に必ず仏となることが約束されているのです。よって臨終を待つ必要もなく、お迎えをたのむこともありません。信心が定まった時に、往生も定まりますので、お迎えをいただくための臨終の作法も不要です。正念とは、阿弥陀仏の本願を受け容れる信心が定まることを言うのです。
聖人79歳のお手紙です。臨終正念によるお迎えの感得が往生極楽の条件であるという、未知の見解に触れて不安に苛まれた関東の御同行の疑問に答えられたものです。聖人は、我ら真実信心の行人は、平生の時に往生が確定すると言い切られました。阿弥陀仏は、臨終に初めて現れるのではなく、平生から常にそばにいてくださるということです。長々と訳しましたが、その部分の原文は、「摂取不捨のゆゑに正定聚のくらゐに住す」という極めて簡潔な記述で、しかも御同行には聞き慣れた教えでした。加えて聖人は、正念とは、信心決定の意であるとおっしゃいます。摂取不捨の利益として仏より与えられるものだということです。
親鸞聖人は、阿弥陀仏のすくいの第一の特徴は、「お迎え」ではなく「摂取不捨」であると示されたのです。浄土教教理の一大転換を成し遂げた宗教家であると言えましょう。
(かけはし のぶあき・大阪大谷大学文学部教授)
著書に『宇治大納言源隆国編 安養集 本文と研究』(西村冏紹監修、百華苑)、『奈良・平安期浄土教展開論』(法藏館)、『インド・中国・朝鮮・日本 浄土教思想史』(法藏館)、『新訳 往生要集』上・下(法藏館)、『お迎えの信仰-往生伝を読む』(法藏館)