親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「人事(じんじ)を尽くして天命(てんめい)を待つ」ということが、普通の処世の常識的な態度というものであろう。この一般的な人生態度に対して、明治の近代化に急ぐ日本の状況のなかで、「天命に安んじて、人事を尽くす」という表現をしたのが、清沢満之(1863~1903)であった。常識の人生訓を逆転して、人生を動かしてくる「他律的」な要素を引き受けて、それに安んずるというのである。このことは単に自己に都合の良い場合のみではなく、いわゆる逆縁であろうとも、天命として引き受けて人事を尽くそうという信念なのである。

 近代日本の大きな流れにおいて、一般的な人生態度がいつの間にか、弱肉強食の競争主義を追いかける近代主義に、すっかり巻き込まれていってしまったのに対すると、「天命に安んずる」と言いつつも、「他」なるものに自己を失うのではなく、自己を外物他人の領域から引きはがして、自己を全面的に成り立たせている「絶対無限の妙用」に安住するところまで確認するのである。これはエピクテタス(55頃~135頃のギリシャの哲人:エピクテタス氏教訓書)に出会ったことを縁として、「自己とは何か」という問いを明白にしていくこととも重なっている。

 「現世を『濁世(じょくせ)』と見よ」と仏教は語りかけるのだが、この世界を濁(にご)らせるものは、私たち人間の欲望(煩悩の一つである「貪欲(とんよく)」で、仮に代表する)だと自覚させるのである。この濁りは単に個人が創り出すものではなく、人類の歴史と共に積み重ねてきた「劫濁(こうじょく)」といわれる面もある。しかし差し当たって、自分がこれにどう関わるのかというとき、これを増殖する方向で関わるのでなく、これを少しでも清める方向で生きようとして見よ、という呼びかけが仏陀の「八正道(はっしょうどう)」であろう。しかし、濁りの重さはとても一人で背負えるような質のものではない。それを背負おうとするなら、腰が抜けるか、肩が砕けるかということになろう。

 本願他力という教えは、一切の人類に濁世を超えて、濁世を清める方向へ生きていく力を与えようとする、人間への深い信頼なのではないか。個人でできるかできないかということではなく、こういう方向への無限なる悲願を信ぜよということではないか。これに乗託(じょうたく)して、全力を尽くしてこの世を「人事を尽くす」場として生きていくことができるのではないか。こういう意味が「天命に安んじて、人事を尽くす」という表現の裡(うち)にはあるのではなかろうか、と感ずることである。

(2005年9月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同...
FvrHcwzaMAIvoM-
第254回「存在の故郷」⑨
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第254回「存在の故郷」⑨  衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあり方を求める衆生は、その意...
FvrHcwzaMAIvoM-
第253回「存在の故郷」⑧
親鸞仏教センター所長 本多 弘之 (HONDA Hiroyuki) 第253回「存在の故郷」⑧  この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからではないか。釈尊が入滅せんとす...

テーマ別アーカイブ