法政大学社会学部准教授
白田 秀彰
(SHIRATA Hideaki)
2012年10月に著作権法が改正されたことにより、インターネット上に違法にアップロードされた映像や音楽などをダウンロードする行為に対して、2年以下の懲役または200万円以下の罰金、もしくはその併科という刑事罰が科せられるようになった。
しかし、この改正には違法コピー排除の実効性に乏しいこと、警察の捜査権の濫用につながることなどから日本弁護士連合会(日弁連)やインターネットユーザー協会(MIAU)などが反対を表明していた。
この問題には、実は私たちが法というものに向き合うことについて、現代社会が抱える問題があらわれている。それが何であるのか、知的財産を専門とする法学者の白田秀彰氏にお話をうかがった。
(春近 敬)
【今回はインタビューの前編を掲載、後編はコチラから】
■著作権とは
――著作権とはどのようなものであるかというところから、今回の問題について教えてください。
白田 そもそもの前提として、知識や情報や表現というものは、本来誰かに伝わっていくことを止めることのできないものです。そして、これらが伝わっていく場合には、何らかの媒体を必要とします。例えば、仏教の教えも、たくさんの人々がそれを暗誦したり文字に記すことで伝えてきたから現在に残っているといえます。
著作権の発生のきっかけとなったのは、印刷術の誕生です。印刷術によって、文書をたくさん複製して世の中に広め、これを確実に残すことができるようになりました。これによって出版業という産業が生まれました。しかし、出版業は無許諾のコピーがあると商売として成立しません。そのために、初めは業界のルールとして、後に法律で、無許諾コピーをさせない仕組みをつくりました。
著作権とは、はじめから自然に存在するかのようにわれわれは思ってしまいがちですが、そうではありません。歴史の過程で生まれてきたひとつの制度です。そのような制度がなぜ必要かといえば、出版業という特定の産業を保全するための仕組みなのです。現在言われているような、著作者の人格であるとか利益であるとかは、18世紀から19世紀に現れた後付けの説明なのです。
――著作者本人ではなく、出版業を守るためですか?
白田 はい。そのおかげで現代のわれわれの文化や文明がありますから、著作権制度はわれわれに十分な恩恵を与えてきた仕組みです。だからこそ、それが正当化されてきたわけです。
■1970年以降の変化
白田 1970年までの著作権法では、機械的や科学的な方法でなければコピーをしても問題ありませんでした。これは、一般の人がコピーをするという行為自体が技術や設備の面から非常に難しかったためで、出版社と一般の人との利害がぶつかる状況にはならなかったからです。そして、1970年の改正で、著作権法第30条に「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用する」目的であれば、「その使用する者」がコピーしてもよいという規定が入りました。
ところが、1980年代に入ると、テープレコーダーやビデオデッキ、コピー機が普及するようになります。それで書籍やレコードや映像作品をコピーできる技術が一般の人の手にも届くようになりました。
もともと著作権法は業者を保護して情報流通の環境を整備するためにつくられてきたものですから、家庭内でコピーをされると実際に損害のおそれがあります。このころから、著作権法を一般の人も守りなさいといわれるようになりました。ここから現在までの歴史は、技術の進歩とともに著作権法第30条の認める「コピーしても構わない範囲」を狭めてきた歴史であるといえます。
■「しても良い」ことが一転して犯罪に
白田 1980年代の半ばには、コンピュータプログラムが著作権法のなかに組み込まれました。1990年代に入ると、コンピュータによって音楽や映像のデジタル化が進められるようになり、さらにインターネットが普及します。デジタル化された音楽や映像はコピーが比較的容易で、それらのデータはインターネットを媒介とすることによって多くの人の手に渡りやすくなります。そこで、著作権をもつ人たちは、何とかこれを取り締まらなければならないと考えます。インターネット上でデータのかたちでやりとりされる音楽や映像も、著作権法の保護範囲として扱われるようになりました。
冒頭で言ったように、もともと情報や知識は自由に流通するものです。インターネットは、そういう人間の営みを支えることを目指して発展してきたものです。インターネットが稼働し始めてしばらくの間、インターネットを介してデータをアップロードしたりダウンロードしたりすることは、法律で禁止されていないわけですから、自由にやっても良いことだったのです。
しかし、インターネット経由で流通するコピーが、販売されている商品と競合するようになり、事業者の利益を損なうようになりますと、著作権をもつ業者たちは、それでは困るということで制限を求めるようになりました。当然のことです。まず2007年に、公衆送信可能化権が創設され、著作権のあるデータのアップロードが禁止となりました。このとき、文化庁と経済産業省の公式見解として、ダウンロードは「個人的に又は家庭内その他これに準ずる限られた範囲内において使用する」目的で「その使用する者」がコピーしているのだから、著作権法第30条の私的使用にあたる、つまり合法だと明確に言われていました。
しかし、アップロードを禁止しても違法コピーは減りませんでした。そこで、音楽・映像産業がはたらきかけて、2010年にダウンロードが違法化されました。もちろん、このように法律をつくること自体が悪いことではありません。この問題のポイントは、国が公式に「しても良い」と表明していたことが、わずか3年で一転して違法となったことです。
著作権法には罰則規定がありますので、違反行為には刑罰をつけることができます。しかし、そのようなあまりに急な変化は望ましくないということで、このときは刑事罰をつけないことを条件に違法化がなされました。
ところが、その2年後の2012年に、著作権法の改正の際に議員立法のかたちで、ダウンロード行為に刑事罰規定が組み込まれてしまいました。実際には罰則のない規定はたくさんあるのですが、一般の人の感覚としては、違法なことには罰がついてしかるべきだと思いがちです。このときも音楽・映像産業のはたらきかけがありましたが、おそらくは、議員立法に関わる国会議員に向けて「違法な行為に対して罰則がないのは問題だ」というような説得が行われたことが想像できます。
かくして、かつてはしても良かった行為が、利害をもった人のはたらきかけによって違法となり、そして違法であることを足がかりとして懲役刑を含む刑事罰が入りました。このプロセス自体が、問題をはらんでいると私は考えます。
ダウンロードという行為が民事の問題として扱われるのであれば、その被害の救済は基本的に著作権者自身が行わなければなりません。しかし、刑事罰化されれば、証拠の確保や犯罪性の立証を警察が行うことになります。繰り返しますが、ここで問題となる音楽や映像とは、つくり出した本人ではなく、もっぱら業界の利益に関する話なのです。刑事罰が入ると、その被害の救済のために国家権力が発動することになり、業界にしてみれば、ただで働いてもらえることになるわけです。特定産業の利益のために警察をも動かすという構図には、釈然としない感じがあります。
■知識の不均衡
白田 民主主義とは、建前とはいえ、それに参与するすべての人が一定水準の知識や判断力をもっているということを前提とした社会制度です。すべての人に知識が平等に配分されているということを前提として、財産が不平等に配分されていることを容認する仕組みであるといえます。財産の配分の不均衡がかろうじて正当化されるのは、それをコントロールしている秩序が民主的に担保されているからです。みんなが同じ情報を得て、義務教育によってみんながある程度の判断ができるような知的水準を得て、選挙を通じて発言できるからこそ、財産上の不平等を是正できるのだという前提によって成り立っています。
ところが、知的な領域でも、もてる者が国家権力を用いてコントロールしても構わないという仕組みは、財産上の不平等を是正するはずの機能を損ねてしまいます。現在起きている傾向は、知識が不平等に配分されることを国が推し進めることにならないだろうかと危惧しています。物だけでなく、知識に対しても、もてる者ともたざる者を作る状況を生み出すということは、少なくとも現在の社会体制が正当であるという考え方を壊してしまうのではないでしょうか。
まとめますと、1980年代までは合法であり、誰もが普通にしていた行為が、短い期間で一転して犯罪行為とされました。そして、犯罪抑止という名のもとに、民主主義の社会で生きているわれわれが譲ってはならない何物かが奪われるような状況が進んできているように見えます。これが、私のこの問題に関する見取り図です。
(文責:親鸞仏教センター)
(後編へ続く)