親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 根源にある場を不可思議なる存在の背景と自覚する、ということ。この場は、静止的な地下水の滞留(たいりゅう)のごときものではなく、われらの表層の意識生活へとささやき続ける。いわば、地下のマグマが地層の裂け目を抜けて吹き出すごとく、われらの煩悩生活の隙間を潜(くぐ)って、宗教的要求となって現れ出る。有限なる人間に、無限が自覚されるということは、この不可思議なる噴出に気づくということなのである。

 われらにとっての真の場所とは、このマグマのような力をはらんで、意識生活の根底に静かに燃えている深層の意欲だ、と言えるのではないか。これを、『大無量寿経』を説き出そうとする釈尊は、「本願」として見いだしてきたのであるに相違ない。この根源の場は、一切衆生を平等に摂(せっ)する大地である。この大地が表層の生活に疲れた凡夫に積極的にはたらくことを、「如来の回向(えこう)」という言葉で自覚したのが、親鸞であるということなのだ。親鸞は、凡夫に自覚される一切の宗教的な目覚めの事実を、この根源からのはたらきである回向に由来するものであると見抜いた。修道(しゅうどう)の過程も、その結果である証(あかし)も、この本願の衆生への表現たる回向によって、愚かなわれらに現前することがあり得るのだ。

 大悲の回向によって凡夫に起こる宗教現象を、本願の因果による物語をとおして一切衆生に成り立つ本願成就の救済であるという。その宗教的自覚は、有限なるわれらの努力や意欲のレベルからは決して届くことのない、無限の深みと大いなる力を備えている。それを自覚することを「如来回向の信心」という。われらに起こる自覚ではあっても、われら凡夫の表層意識から涌(わ)いたものではない。存在の根源からの表出なのである。だから、マグマの作用の結果、この地上に現出したもっとも堅い物質〈ダイヤモンド〉に比肩(ひけん)し得るような意識だというのであろう。如来回向の信心は金剛心であると、繰り返して親鸞は確認する。それは、この大地のごとき願心を、動き行く日常の状況に在(あ)りながらしっかりと自覚できるからである、と思うのである。

(2007年1月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ