親鸞仏教センター嘱託研究員
長谷川 琢哉
(HASEGAWA Takuya)
仏教と西洋哲学との類似性を提示し、妖怪現象を科学的に解明した井上円了には、合理主義者のイメージがつきまとっている。もちろん円了は、近代日本における「宗教」のあり方を探求した知識人の一人ではあったが、彼自身は(たとえば清沢満之のような)「信仰」の人ではなかったとしばしば言われる。しかしながら、円了の人生を注意深く見渡すと、その節目節目に、ある種のインスピレーション(霊感)を幾度か経験していたらしきことが確認される。そしてそのインスピレーションには一定の類型があり、それが以後の人生を決定的に方向づけてもいたようだ。
インスピレーションの内実が最も詳細に記述されているのは、『星界想遊記』という作品内である。この書は近代日本におけるユートピア小説・SF小説のはしりとも言われるもので、「想像子」=円了が理想世界を求めて空想上の9つの「星界」を旅するという物語となっている。冒頭に付された「提言」によれば、この物語は円了が「豆洲修善寺温泉入浴中、青州楼客舎にありて、一夕夢中に現出したる空想を叙述せる」ものであるとされる。そして物語の始まりには、その際、円了が経験したであろう「精神恍惚」状態が描かれている。その一節を引用してみよう。
想像子、一日瞭然として京華を去り、遠く山間の僻邑に遊ぶ。たまたま客舎にありて余夕を送らんとす。その翌朝はすなわち、我人の数年来渇望したる明治二十三年なり。想像子、ここにおいて往を思い来をトするに、無量の思想心頭に集まり、感慨おのずから禁ずるあたわず。独座沈吟、時ようやく移り、夜ようやく深く、まさに十一時に達せんとす。四隣寂寥として、ただ係留の潺湲たるを聴くのみ。ときに想像子寝に就かんと欲し、立ちて衣を換え、座して炉に対し暫時黙思するに、たちまち精神恍惚として夢中に彷徨するを覚ゆ。すでにして心思高く飛び軽く揚がり、瞬時にして遠く蒼々茫々たる展開の中に遊ぶ…
(井上円了「星界想遊記」『井上円了選集』第23巻)
これは一種の文学作品であり、そこには当然文学上の脚色が含まれているだろう。しかし明治22年の年末の深夜、円了は山間の寂しい温泉旅館で「往を思い来をトするに、無量の思想心頭に集まり」、「精神恍惚」とした夢想状態に入ったというのは事実であったと思われる(少なくとも、円了のメモ帳である「実地見聞集」第三篇〔『井上円了センター年報』第3号所収〕には、実際に修善寺温泉を訪れたという記録があって、それに続いて「夢中の妄想」として『星界想遊記』のアイデアがびっしりと書き込まれている)。なお、明治23年というのは国会が開設され、近代日本が一定のかたちをもって進み始めた年である。円了は日本という国の行く末を思い、まさにその理想的な国家像が哲学的な精神世界に仮託して夢想され、その結果『星界想遊記』という作品が描かれたのである。
さて以上はあくまでも創作物に関するインスピレーションの話であるが、円了自身の人生の節目にも同様の経験があった。その一つは、円了が自ら創設した哲学館の経営を引退することを決めた、明治38年12月13日の深夜のことである(以下の記述は、井上円了「退隠の理由」『東洋大学百年史』資料編I・上に依拠する)。その前年の明治37年、ある学生の答案がきっかけとなり、文部省に認められていた無試験教員検定の資格が哲学館からはく奪されるという事件が起こる。いわゆる「哲学館事件」である。この事件の事後策をめぐって円了は学校関係者と対立した。円了はこの事件を機に、政府に頼らない「独立自活」の経営を目指したのだが、学生を集めるためには無試験検定資格の再申請が不可欠であるとの声も多かった。そうした経営上の苦労がたたり、円了は明治38年の夏頃から身心に問題を生じるようになる。医師からは「神経衰弱症」との診断を受け、円了には極めてめずらしいことであるが、「兎角悲観に沈む傾向」が見られ、12月に入ると自宅で2度ほど卒倒したという。
そんな中むかえた12月13日、上野精養軒において、哲学館が正式に大学となったことを記念した会合が開催された。多くの人が参加したこの会合では、幼少の頃の先生であった石黒忠悳や、学生時代から付き合いのある大内青巒が演説を行い、円了は深く感動したという。おそらく両者の演説では、哲学館が創設された当時のことなどが回想されたことだろう。その夜のことだった。円了は「帰宅後百感一時に湧き出し、終夜眠ること出来ず、或は往時を追懐し、或は将来を予想し、人生の何たる、死後の如何までを、想し去り、想し来り、感慨極まりなき有様」になったという。この記述は、『星界想遊記』の「往を思い来をトするに、無量の思想心頭に集まり、感慨おのずから禁ずるあたわず」という一節を明らかに彷彿とさせるものであり、この時円了は常ならざる精神状態に陥ったものと考えられる。そして学校経営という事業に捧げてきた自らの半生を振り返り、その志はある程度は実現されたとして、今後はあらためて学問に取り組み、「精神上の紀念」となるものを形成したいとの思いを強くした。そしてそれこそが、「余が先天的の約束」、つまり自分に定められた先天的な使命であると直観したのである。
ただし、この時のアイデアは後に修正され、円了は哲学館引退後に「修身教会」運動と呼ばれる社会教育活動に邁進することになる。円了にとってこの活動は、哲学を「実行する」営みとして位置づけられ、それこそが自分の「哲学上の使命」であるとも言われることになる。そして実際、哲学館引退後の円了の行動には凄まじいものがあった。修身教会運動は雑誌の発行と全国の市町村で行われた講演活動が軸となったが、明治39年から大正8年までの14年間で、円了はおよそ5400回の講演を行い、聴衆はのべ140万人にものぼった。多い時には136日間休まず講演することもあり、当時の移動手段などを考えると、円了は14年間ほぼ休みなく動き回っていたことになる。この活動に集中し始める前年には「兎角悲観に沈む傾向」にあったにもかからず、翌年からは超人的な活動力を示すようになった背景には、明治38年12月13日の深夜に経験した一種のインスピレーションが関わっていたのではないだろうか。
さてここまで述べてくると、やはり気になるのは、哲学館創立の時にも円了は同様の経験をしていなかったか、ということである。これについては残念ながら、円了自身が何かを書き残していることはなさそうである。ただし、それを推察させる伝聞がのこされているので紹介しておきたい。『思想と文学』第2巻第3冊で、「井上円了博士を語る」という座談会が開催された。その席上において、哲学館出身で卒業後は哲学館・東洋大学にも関わった三島定之介が次のように語っている。
〔円了先生が〕「仏教活論序論」を書かれた時に、僕はちょっと聞いて居た。それは先生の言はれるのには、自分が肺を病んで熱海へ静養に行つて居つた時に、インスピレーションといふか、非常に感じた事があつて、この儘にして置いては日本の現在の仏教社会、僧侶社会などは全然駄目になつてしまふ。といふことを感じたので、それで自分は病気中にも拘らず、本当の必死の努力をして書いたものがあれだ、さういふ風なことを先生が茶話か何かの時に仰しやつたことを記憶して居ります。
「肺を病んで熱海へ静養に行つて居つた時」と言われているが、これは明治19年のことを指さしている。円了はこの年の4月に大学院に入学したが、ちょうどその頃病気にかかり、入学を辞退することになった。そして1年ほど休養にあて、その間熱海には3度ほど滞在している。おそらくそのいずれかの時にインスピレーションを得たのであろう。円了はその時、日本の仏教界のこれまでを思い、これからを予想し(往を思い来をトした?)、今後自分がなすべき明確なヴィジョンを獲得したのではないだろうか。いずれにせよ、その時のインスピレーションに基づいて、明治の仏教書としては最大のベストセラーとなった『仏教活論序論』が執筆されたのである。
この書において円了は、従来の仏教界の「習弊」を一掃して「改良」し、近代社会に相応しい「宗教」にする必要を世間に強く訴えた。彼は自分が「病を得たるは仏教改良に苦心したるによる」(井上円了『仏教活論序論』『井上円了選集』第3巻)として、「この病は果たして仏教改良のために得るところの結果なることを知らしめば、たとえ余が身、今死するも、余が真理に尽くすの精神は日月と共に万世に存すべし」(同上)とまで述べている。以後、円了にとって「仏教改良」は根本的な志願となり、晩年に至るまでその思いが弱まることはなかった。
そして以下は想像だが、三島が聞いた『仏教活論序論』のインスピレーションが今後の日本の仏教社会、僧侶社会のあり方に関わるものであったとすれば、私立学校哲学館の創立もそこから派生したのではないか。上に引いた座談会で円了の親友であった棚橋一郎が語ったところによれば、哲学館の創立にあたって円了から次のような相談を受けたという。
僧侶が余りにどうも地獄極楽に固り込んでしまつて居つて、本当の僧侶学をやつて居らんから如何にも残念だ、だから少し哲学思想を彼等に与へたらば、余程世の中の利益になるだらうと思ふから、斯ういふものを起さうと思ふ。
つまり哲学館は、僧侶に哲学思想を教え、新しい時代に適した人材を育成することを目指して作られたものだったのだ。そして哲学館の構想も、やはり同じ時期の熱海で練られたものだった。円了の追悼文集には、「一九年春偶々病を以て(略)此時豆洲熱海にあり。此の療養中に於いて、『哲学雑誌』の発行、『仏教活論』の整理。哲学館設立の計画は遂行せられたるなり」(三輪政一編『井上円了先生』、東洋大学校友会、1919年)という記述がある。
円了が療養のために熱海に滞在した明治19年。その頃円了の頭の中は、新たな事業のアイデアで溢れていた。そして実際、円了は翌明治20年1月には出版社哲学書院を作り、2月には『仏教活論序論』、『哲学会雑誌』を発行する。5月には政教社の立ち上げに加わり、9月には哲学館を創立。矢継ぎ早に数々の事業を実現し、そして哲学館創立の半年後には駆け抜けるように1年間の海外視察旅行に出かけ、帰国後は休む間もなく哲学館の改良を訴えるため、全国巡講に旅立った。円了にとって哲学館創立前後の時期は、彼の人生の中でも極端なまでにバイタリティーに満ちており、常軌を逸して見える程である。そうしたすべての活動の根底には、明治19年の熱海で感じたインスピレーションがあったのではないだろうか。そのように考えると、いやむしろそのように考えた時にはじめて、井上円了という人物の人生が理解できるように思える。
最後に関連する余談を一つ付け加えよう。哲学館を創立した明治20年の年末に円了は再び熱海を訪れた。そしてその時に見た夢をまとめたものが「熱海百夢」という文章として『哲学会雑誌』に発表されている。これは実際に円了が見た夢を客観的に分類・整理したものにすぎないが、熱海と夢という組み合わせは、円了の人生にとって大きな意味をもっていたのかもしれない。それを裏づけるように、円了は晩年、巡講の合間に毎年のように熱海に滞在し、そこで著作や事業のアイデアを得ていたようである(たとえば晩年に構想していた「哲学宗」の唱念法「南無絶対無限尊」や、「哲学和讃」などは熱海で思いついたものだった)。――熱海で夢見る哲学者。この文章を書き終えた私の脳裏に浮かんだのは、私にとっても意外な井上円了の新たなイメージであった。
(2021年4月1日)