親鸞仏教センター嘱託研究員
越部 良一
(KOSHIBE Ryoichi)
「弥陀の大悲ふかければ 仏智の不思議をあらわして 変成男子(へんじょうなんし)の願をたて 女人成仏ちかいたり」(親鸞『浄土和讃』「大経の意」)。法然は「女人往生の願」(『無量寿経釈』)と言う。善導は「女身(にょしん)を転じて男子と成るを得」(『観念法門』)と言う。親鸞のこの「変成」は、『教行信証』、『唯信鈔文意』に引文される「能令瓦礫(がりゃく)変成金(こん)」(法照『五会法事讃』に出る文)の「変成金」、変じて金と成る、と重ねて解釈せねばならない。「変成男子」=「変成金」=「成仏」である。阿弥陀仏の「御身(おんみ)のいろは夜摩天の閻浮檀金(えんぶだんごん)のいろのごとしといえり。これ弥陀一仏にかぎらず、一切諸仏はみな黄金のいろなり」「みな常住不変の相をあらわさんがために黄金のいろを現じたまえるなり」(『西方指南抄』「法然上人御説法事」)。仏(=金色=「常住」)は大信心である。「大信心は即ち是(これ)仏性なり。仏性は即ち是如来なり」(『教行信証』。『涅槃経』からの引文)。凡夫の往生=成仏とは、異質な他者(他力本願)と重なること、このことを顕すのが「変成男子」の第一の意義である。
「尼入道の無ちのともがらに同(おなじく)して」「只一向に念仏すべし」(法然『一枚起請文』)。仏智の不思議を心に得た在り様を「無智」と言う。『観無量寿経』で、王の后である韋提希(いだいけ)は、王と息子の阿闍世(あじゃせ)に先立って「大悟」する。親鸞は『教行信証』化身土巻で、「魔王」が娘と王宮の女たちに勧められて仏に帰依する様を『日蔵経』から引文する。覚如の『御伝鈔』によれば、観音の「我成玉(ぎょく)女身被犯(ぴぼん)」「臨終引導生極楽」、「是我が誓願なり」「一切群生(ぐんじょう)にきかしむべし」という夢告を親鸞は受けたという。観音菩薩が女人と成ることと女人が観音菩薩と成ることは同じ事である。これらは、『無量寿経』(大経)での法蔵菩薩(因位の阿弥陀仏)の次の第三十五の誓願、つまり「女人成仏」の願に基づく。「たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、我が名字を聞きて、歓喜信楽(しんぎょう)し菩提心を発して女身を厭悪(えんお)せん。寿(いのち)終りての後また女像とならば、正覚を取らじ」。これは第十八の本願、つまり至心・信楽の願を、四苦の一たる生(しょう)に着眼して、女人を表(先)とし男を裏(後)に置いて言い換えた。裏には自らの性欲の業火で焼き殺される男像が置かれている。十八願成就文に返せば、「発菩提心」は「一念」、「厭悪女身」は「願生彼国」、「寿終」は「往生」である。女像も男像も変じて「虚無(こむ)の身、無極の体」(『無量寿経』)、つまり大信心(大菩提心)と成ること、それが往生である。無論、現生の事である。女と男のこの往生の、濁世の上での先後の次第を表すこと、これが「変成男子」の第二の意義である。
「国を棄て王を捐(す)てて、行じて沙門と作(な)り、号して法蔵と曰いき」(『無量寿経』)。国王の位を捨てたということ、このことが三経一論で唯一、法蔵菩薩が男子であることを示す事柄である。『教行信証』で国王と言えば、父王を死に追いやって苦しむ阿闍世王である。その邪臣の一人が、父を害して王位に就いた諸王の名前を列挙してみせて、何のことはないと慰める。その王名列挙の言葉(『涅槃経』からの引文)を、親鸞は信巻の本文だけでなく、信巻の序文の前にも書きつける。父親殺しは五逆の一である。一切の人間を五逆の罪業の自覚の中へ置き入れること、これが「変成男子」の第三の意義である。
(2019年10月1日)