親鸞仏教センター研究員
長谷川 琢哉
(HASEGAWA Takuya)
昨年たまたま私が入居した部屋のオーナーが、ある舞台の制作に関わっておられる方で、公演のチラシをいただいた。「女人往生環」と題されたその舞台は、仏伝に登場するパターチャーラーと、大逆事件で獄死した真宗僧侶高木顕明の娘を題材とした二つの芝居を上演するものだった。不思議としか言いようのない縁に導かれ、私はその舞台を見に行った。
二人の苦悩する女性を題材とした二つの芝居は、伝統的に仏教的な解脱・救済からやや遠ざけられた存在として位置づけられてきた女性の救済を描いたものだ。どちらからも強烈な印象を受けたが、近代仏教を研究している私にとっては、とくに高木顕明の娘を題材とした『彼の僧の娘』に深く考えさせられた。
劇中で「高世」と呼ばれる芸者は、高木顕明の養女・加代子をモデルとしている。高世は天皇暗殺を企てた「逆賊」の娘として寺を追われ、芸者に売られた。公安警察に監視され、不当な差別の中で苦悩する高世は、自らの陥った境遇の中で、必死に救いを求める。彼女は父である「彼の僧」と心の中で対話する。
(娘)「私がいる意味……どこにあるんや?ここまで苦しんで…拾われ、捨てられ…足蹴にされて…うちは道の石ころなんや」
(父)「それでも必ず弥陀は救う。よきひと、あしきひと、尊き人、いやしき人を嫌わず選ばれず、先にこれを導きたまう。石、瓦、つぶてのごとくなる我らなり。……既に人の生を受けた。佛の教えもすでに聞いた。わしの姿をしった。」
(娘)「わからへん!わからへん!何一つ、私にはわからへん!」
(父)「もう知っている。さあ、そのまま行け。生まれた命は皆、等しく尊い。往き生まれ、無上に尊いいのちがお前にもわしにもある。」
(娘)「ほんまに?……お父ちゃん!……私が居る意味……私が居る…」
(父)「救うから安心せよ、護るから心配するな。わしの辿(たど)った道を、お前も訪(とぶ)らうのだ。さあ立て、さあ、一歩、一歩……わしは先を歩いておる。さあ、進め。」
作・演出を手がけた嶽本あゆ美の脚本は、鋭く迫ってくるものだった。真宗大谷派の寺の娘として育ちながら、国家や共同体から排除されつつあった高世は、阿弥陀如来の救済を説く父の言葉と自分自身の境遇の間で大きく揺れ動く。伝統的な仏教において女性が解脱や救済から一歩遠のいた存在であるとしても、親鸞の教えからすれば、それならなおのこと女性は救われるはずである。実際、作中の最後で高世は、敗戦後の廃墟の中で次のように言う。
「きっとこの世に極楽だって来ることがある。どんな爆弾でも吹き飛ぶことがないものが、きっと心の中なら持てるんやで。さあ、立って歩こう」
女性であることによって与えられる苦しみと、女性の救済。最終的に高世は、この世での救済、この世での往生という境地を見いだしていくのである。
もちろんここには、簡単に済ますことのできない仏教における女性性の問題というものが相変わらず存しているし、それは真宗学や仏教学の観点からも真摯に受け止めるべきものであるだろう。実際私が専門としている近代仏教というフィールドにおいても、女性に焦点が当てられることはそう多くはない(『近代仏教スタディーズ』に「女性仏教者」という項目があるのは重要なことである)。「女人往生」という問題は、一種特別な問いを、私たちに突きつけてくる。
ところで、最後に気になったことがあった。劇中でははっきりと描かれていないが、実際の高木加代子は晩年、天理教に帰依し教会主にまでなったという。高木顕明の娘は、なぜ浄土真宗ではなく、天理教に救いを求めたのだろうか。実際のところはわからない。ただ、一般に、戦中の国家家族観の中に組み込まれてしまった伝統的な仏教教団は、ひとたび「国家家族」の枠組みから排除された人々にしっかりと教えを伝えることがはたしてできたのだろうか。あるいはここに困難があったのかもしれない。このこともまた、現代を生きる私たちにとってひとつの問いとして残されるものであるだろう。
(2018年4月1日)