親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
法蔵菩薩の願心は、「本願海」として展開された大菩提心である。この大菩提心の立ち上がる根底には、「一如宝海」があるとされる。そのことを親鸞は「この一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて」(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)と語るのである。一如とは菩提の内容であり、大乗仏教では大涅槃とも言う。それ自体は「いろもなし、かたちもましまさず」(『唯信鈔文意』、『真宗聖典』554頁)とされ、凡夫の認識の対象や感覚の内容としてはまったく見当もつかず、無内容な事柄のごとくに見えてしまう。つまり、われら凡夫には捉えようがないということなのである。もっと積極的に言うなら、仏陀の覚(さと)りの内容は、凡夫の妄念ではまったく了解し得ないということである。
この落差というか断絶というか、手がかりさえつかめない状態を捉えて、仏陀の側から慈悲の心によって敢(あ)えて「かたち」や「いろ」のごとくに象徴的にあらわすことにより、この断絶を突破させる方法(方便)を案じ出した。その「かたち」が『無量寿経』の本願の主体たる法蔵菩薩であり、大菩提心の行相だということである。それを曇鸞は、「法性法身に由って方便法身を生ず。方便法身に由って法性法身を出だす」(『浄土論註』『教行信証』「証巻」引文、『真宗聖典』290頁)と了解し表現した。法性法身とは一如宝海であり、方便法身はそこから姿をあらわした法蔵菩薩だということである。そして、『大無量寿経』の語る因願・成就は、まさに「方便法身」の展開する内容だということになる。
したがって、法蔵菩薩の果である阿弥陀仏が方便法身の相であるからには、仏土として表現される「報土」も方便法身の相であるに相違ない、ということである。「願心の荘厳」(同前289頁)という『浄土論』の言葉とその内容を、『大無量寿経』の本願の因果に返して解釈した曇鸞のこの視座は、親鸞にしっかりと受け継がれているのである。
このように本願の成り立ちを、一如宝海から「かたち」をあらわし御名を示した法蔵菩薩に返してみると、浄土の荘厳功徳を『無量寿経』の本願の言葉に照らして了解する曇鸞の意図は、確かに龍樹の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の方向と重なってくるのである。龍樹は、難行易行の相対を通しながら、菩薩の中には「軟心(なんしん)」のものもあり、その要求に応えるかたちで、方便して易行を開示したのである。その易行を説き出す場は、菩薩十地の初地において「阿惟越致(あゆいおっち:不退転)」の確信を開くためのものであった。
その初地は「歓喜地(かんぎじ)」と名付けられているのだが、不退転の確信を得た喜びである「歓喜」を、法蔵願心は「諸有の衆生」に「聞其名号、信心歓喜」(『無量寿経』、『真宗聖典』44頁)として広く開示しようとしたのだ、と親鸞は見られたのである。
(2023年8月1日)