親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
大悲の場所が、求道する者に「正定聚(しょうじょうじゅ)」を確保するという本願の教えの意味を、親鸞は願生する行者が名号を念ずる時、その即時に正定聚に住するのだと了解した。『大無量寿経』の「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう)」(『真宗聖典』44頁)という成就文の意味を、信心の生活に獲得する利益と了解したのである。
これは彼岸に荘厳(しょうごん)した報土が、個人の「願生」の結果、時間の彼方にあこがれる場所に止まるのでなく、大悲の必然として衆生にはたらきかけずにはおかないということ。つまり利他の回向が、一切の功徳を衆生にもたらすべくはたらき続けるのだから、その大悲のはたらきを信受するなら、その時に願心のはたらきの中にあるということ、つまり場所のはたらきがそれを受け入れる衆生を支えるのだということ。憧れではあっても、決して現実にははたらいてこなかった死後の浄土が、現生の信心の行者を支える大地となって来るのであるということ、これを「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」という。親鸞はそれを「心を弘誓の仏地に樹(た)て、念を難思の法海に流す」(『教行信証』、『真宗聖典』400頁)という。
報土はその「大悲回向」を生み出す未来からの場所でありつつ、回向としてはたらく行(名号)を生み出すなら、その行に乗って場所のはたらきが衆生に来たる。それを「至心回向(ししんえこう) 願生彼国 即得往生」という。この場所には、「本願酬報(ほんがんしゅうほう)」という意味が込められる。それは、この世の時間と異なり、未来から現在に一切の時間を包んで、はたらきかけが来るということ、未来の功徳が現在の信念を支えるはたらきをする、ということである。
報土への必然性が「必至無量光明土(ひっしむりょうこうみょうど)」(『教行信証』『真宗聖典』206頁)と表現されている。この「必」は「金剛心成就の貌(かおばせ)」(『真宗聖典』178頁)と「行巻」では言われている。未来に絶対必然を確証することを表すというのである。この未来は、我ら衆生がこの世で一般的にいう未来と異なり、不確定な要素が絡まない。我らの時間としての「未来」は必ず不確定の要素が絡む。動き行くことが時間なのであるから、未来は確定したといったとしても、不確定の要素が含まれることが当然なのである。「諸行無常」の時間たる未来は、動くものなのである。それなら、未来に「金剛」の形容詞を使うことは無理であろう。
だから、親鸞はこの不確定要素のない「未来」を獲得するとは、「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という無限の側からのはたらきがあるからであり、そこに「金剛」が成り立つのだという。摂して捨てない「大悲」のはたらきによって、動かない「未来」が来るのだ、という。その大悲を場所として荘厳・象徴するのが、「真実報土」なのである。その場所の功徳を「大悲回向」として我らは現生の大地として信受しよう、と呼びかけているのである。
(2010年5月1日)