親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

公開講座画像

親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 「自利利他(じりりた)」とは、大乗菩薩道における重要課題の端的な表現であると言えるのだが、現実には人間関係は「自害害彼(じがいがいひ)」として現象することが多く、真に自他ともに平穏で満ち足りた命を感じつつ生きることは至難である。だから、この課題は、言うは易く実行は困難至極となるのである。それにもかかわらず「自利利他して速やかに無上菩提を成就しよう」(趣意、『真宗聖典』194頁参照)とすることはいかにして可能なのであろうか。この難問の前で、龍樹も世親も一般の自力の仏教の教え方をはみ出して、「本願力」の場たる阿弥陀の浄土を要求せざるをえなかったのだ、というのが曇鸞(どんらん)の見方である。

 そのとき曇鸞は「自利利他」というが、「利他」というのは衆生には当てはまらず、如来においてこそ言うことができるのだ、という注釈を加えている。衆生からすれば「他利」とは言える、と。つまり衆生にも他の衆生が利益を得るように願うことはできるが、本当に他を救済することができるのは無限なる大悲のはたらきのみなのだ、というのである。「他利」とは「他が利益される」ということであり、利益するのは「大悲」のはたらきなのだ、というのである。ソクラテスの言うところの教育と同じような関わりである。教育するのは、真理それ自身であって、師匠はそれの縁になる。水の縁(ふち)まで連れて行くことはできるが、水を飲むのは本人に、水を飲む能力やその意欲がもよおすしかない。「真実」に気づくのは真実それ自体のはたらきかけを感ずるしかないということである。

 この真実からのはたらきかけを、自力を超えた「他力」からの増上縁(ぞうじょうえん)であると教えているのである。そして、この増上縁の開示される場を「阿弥陀の浄土」として語るものが、『無量寿経』の物語であり、法蔵菩薩の本願の開示なのである。この物語の意味を親鸞は、「一如宝海(いちにょほうかい)よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて」と仮名聖教(『一念多念文意』、『真宗聖典』543頁)で語っている。色もましまさずかたちもましまさぬ法性(ほっしょう)を、「願心荘厳(がんしんしょうごん)」の浄土というかたちで説き表して、一如から衆生への「利他」の願心を、「方便法身(ほうべんほっしん)」のかたちで知らしめるのである。これによって、意識の事実としてはいかにしても人間に体感できない「自利利他」具現の状態を、本願他力が開く場への参入というかたちで、一挙に万人共通の存在の故郷とするというのである。

 ここへ来たれ、と呼びかけ続ける意欲を「如来招喚(しょうかん)の勅命」(『真宗聖典177頁』)と表現して、これを存在の根底からの持続力として、衆生が利他の願心を受けとめるまで歩むことができるのであることを示すのであろう。

(2011年1月1日)

最近の投稿を読む

FvrHcwzaMAIvoM-
第257回「存在の故郷」⑫
第257回「存在の故郷」⑫  人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。  現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第256回「存在の故郷」⑪
第256回「存在の故郷」⑪  曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。...
FvrHcwzaMAIvoM-
第255回「存在の故郷」⑩
第255回「存在の故郷」⑩  阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』〔以下『聖典』〕初版280頁、第二版319頁。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られている。曇鸞はこの願が、浄土の利益を表す願であると気づいた。それは、曇鸞が仏道の究極目的を見定めながら、自身の挫折体験を通して無量寿経の本願を見直したとき、当然出会うべき事柄であったと言えよう。実は曇鸞がこのことを表現したのは、天親菩薩の『浄土論』解義分の結びにある「速やかに阿耨多羅三藐三菩提(無上菩提)を成就することを得る」(『大正新修大蔵経』第36巻、233頁a。原漢文)という言葉を解釈するためであった。...

テーマ別アーカイブ