親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
「念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき」 (『真宗聖典』626頁)、この『歎異抄』冒頭の言葉を手がかりにして、「時熟(じじゅく)」ということを考察されたのが、安田理深先生であった。今回は、その課題について小生も少し考察してみたいと思う。先に大阪大学の鷲田清一さんから「成熟の意味」という問題をいただいた。このことと合わせて現代の情況において、宗教的な「時」をもつことの意味について考察してみたい。
鷲田さんの問題提起は、現代には人間の「成熟」ということが欠如してきているのではないか、というところにあった。成人式ということは残ってはいるが、一昔前の「元服(げんぶく)」という言葉で表現されているような、「一人前」の人間の覚悟ということはなくなったのではないか、というのである。そして、このことは、自分のこととしても、また一般的な風潮としても、何か痛いところを突かれた、という感じがする。このことは、日ごろ私たちが生きて生活しているとはいっても、無方向に時間を浪費しているに過ぎないのではないか、という現代都市生活者の生きざまへの問題提起でもある。
この人間における成熟の欠如をもたらしている要因について述べるとき、日本における現代の一般市民の生活を成り立たせている条件を考慮せねばなるまい。その要因の一つを挙げてみると、第二次世界大戦の敗戦によって、日本人の精神の支えとなる生活規範が、取り払われたということがある。たとえば、家制度という言葉でまとめられるような、個人を越えた価値体系によって個人の意味が規定されるようなことが否定されたということである。これによって、個人の自由がさまざまな分野に与えられたと言える。しかしこのことによって、個人の人格の存在している意味は、社会的な規定を自由に選んだ後で与えられてくることになる。それを自分の選択で選び出すまでの浮き草のような状態を、不安感とともに耐えて後に、職業や結婚や住居の決断を取って、ようやく社会的な一人前の責任が背負わされるのである。それまでの宙ぶらりん状態を、自分で引き延ばす自由もあるというわけである。
職業選択や居住・結婚相手等、一応開かれていて、自由といえることで、自己をどういうかたちで成就するかを自分で決めていかなければならない。そこに、自分がどういう人生を生きていけばよいかの迷いも深まるし、なかなか成熟した自己を責任主体として感じ取ることができないということも生ずるのであろう。だから、精神科医の土居健郎さんが指摘するように、「甘えの構造」にいつまでも依存しておきたいということにもなるのである。
この自分の「成熟」を引き延ばそうとする精神構造は、生存の危機が切迫して感じられない安定した状態でこそ許される。戦乱や飢饉(ききん)・伝染病等が生活を破壊する状態であれば、この甘え状態はいわば吹き飛ばされるであろう。その意味では、今回の東日本大震災のショックは、人間の「成熟」への契機と成り、日本の文化的価値基準を変革する可能性があるかもしれない、と感ずるのである。
(2011年6月1日)