親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 古代人の「神通力(じんずうりき)」への要求とは、人間が有限であることを、いやというほど日常の万事百般で知らされて、自分に無限なる力を貸して欲しいという要求なのではなかろうか。それでは、なぜ科学技術の応用によって人間の要求が満たされてきた現代になって、神通力などということが欲しくなるのか。

 昔から神通力を六つの範疇(はんちゅう)でかぞえている。六神通というのは、天眼(てんげん)・天耳(てんに)・他心(たしん)・宿命(しゅくみょう)・神足(じんそく)・漏尽(ろじん)の通力とされる。このなかで、自分の外部のことに対して、見通す能力を増幅したいというのが、天眼・天耳・他心・神足の四通力であろう。

 「天眼通」は、どのような遠方のこともはっきりと見抜きたいという要求であるが、これは望遠鏡や顕微鏡などで人間の眼を補って、いろいろな事実を見抜く器具が開発された。遠い彼方ということに、距離だけでなく時間的な未来を含んで、預知能力などもこの神通力に加えることもある。これも物理的な計算可能な因果であるなら、ほとんどコンピューターで予測されるであろう。「天耳通」とは、どんなことをも聞き届ける力である。これも今は、電話やテープレコーダーやCDを始めとして音を増幅したり、保存したり、あるいは電波で飛ばしたり、昔なら超能力者でもできなかったようなことが可能となっている。「神足通」とは、一挙に遠いところへ飛んでいくような速い足への要求である。これも自動車・列車・飛行機、さらにはロケットなど、工学的技術で可能にしてきた。

 「他心通」とは、他人の心を読み抜く能力である。どうも現代の技術や検査器具が苦手なのは、この方面であろう。人間の内面に起こっている「心理作用」をデーターにしたり、図表にしたり、記号化したりすることはまだできていない。例えば、「痛み」ということでも、器具で計って数量化したり、その性質を特定したりすることは、全然できないそうである。神経の痛みであっても、外からは計量できないのである。まして「こころ」の痛みをやである。

 「宿命通」とは、自他の生命の背景である過去についての認知能力である。これも現代の科学的な対象化する認識になじまない分野である。「漏尽通」とは、煩悩を蕩尽(とうじん)しつくすというか、有漏(うろ)の濁りを浄化する力である。これももちろん物質的な方法で成就するものではない。これを薬品・麻薬などで起こす疑似体験でごまかすことは、真の智慧による人間解放ではない。六神通が、六神智通ととかれていることにあらためて注目される。

 こうしてみると、科学技術で手中にできた能力からまったくこぼれ落ちているのが、人間の内面の精神的な「こころ」についてのことだったと言えるのではなかろうか。これに対して、現代の若者が素朴な疑問と神秘的な能力への要求に動かされているということなのではないか。

(2003年10月1日)

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