親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
「煩悩具足の凡夫、生死罪濁の群萌」(『教行信証』「証巻」、『真宗聖典』280頁)が、正定聚(しょうじょうじゅ)に住することにおいて、大涅槃を必ず得られると確定する。このことを衆生が自分自身に確信すること、それが本願による救済の具体的事実である。このことはこの世の時間的な未来ではなく、本願が衆生に誓うという意味の未来、それを純粋未来と曽我量深師は言った。この純粋未来の確信には、生死流転に死んで、証大涅槃によみがえると表現されるような、本願力による大転換が含まれている。それについて曽我師は、「信に死し願に生きよ」と言われた。それは親鸞聖人にあっては、回向との値遇(ちぐう)と表現される事実の内面的意味として教えられるのである。
信心には、「横截五悪趣(横〈よこさま〉に五悪趣〈ごあくしゅ〉を截〈き〉りて)」(『無量寿経』、『真宗聖典』57頁)という意味が具せられているとされる。それをまた「横超断四流(横に四流を超断せよ)」(『玄義分』、『真宗聖典』235頁)と合わせて、回向の信心がもつ菩提心としての意味とされる。純粋清浄なる一如真実が、不浄造悪の衆生に与えられるということである。衆生にこの事実が発起するからには、その現行の因には、無漏の本有種子(ほんぬしゅうじ)がなければならない。しかし、無始以来の流転生死の業を熏習(くんじゅう)として受けとめて、煩悩具足の生活をする衆生には、無漏種子の経験はありえない。不浄の身に清浄の種を蔵するとするのは、論理的には矛盾である。しかし、本願の信心の事実は、この論理的矛盾を超えて現行する。これは不可思議として捨て置くしかないのか。
ここを「浄法界等流」(『摂大乗論』)の如来の教言を聞くということで、「聞熏習」による新しい熏習によって、菩提の種子が成立すると説明することもある。しかし、『無量寿経』は、この難関を突破するいとぐちを、一如法界から発起する意欲に見いだした。そしてその意欲を担う主体に「法蔵菩薩」という名を与えた。この願心の主体は、有漏(うろ)の経験しか積み重なっていない凡夫に、浄法界の経験を発起させたいという願心を誓うとするのである。
『無量寿経』が物語で大悲願心を語るのは、この矛盾を突破する大菩提心の不思議さを言葉にするためである。論理的に矛盾することがらを、いわゆる論理で語れば行き詰まるほかない。物語を通して、「兆載永劫」という時をかけると表現するのは、矛盾を超える事実の背景を言い当てんがためである。本願力の事実は、具縛の凡夫に信心を発起するまではたらき続ける。われらの自覚においては、「微塵劫(みじんこう)を超過すれども仏願力に帰しがたし」(『教行信証』「化身土巻」、『真宗聖典』356頁)という悲歎とともに、「無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名(みな)なれば 功徳は十方にみちたまう」(「愚禿悲歎述懐」、『真宗聖典』509頁)という和讃のおこころが響いてくるのである。
(2014年3月1日)