親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
法蔵菩薩の願心が、本願を成就しようとして兆載永劫に修行すると語るのは、仏智見からすれば存在の本来性である一如平等(法性・真如・法身・涅槃等は同義語である)に、無始已来、それを忘れそのあり方に背き続ける凡夫を気づかせ、翻心(ほんしん)させ本来のあり方に帰らせようとするからである。しかし、いかに語りかけようと、どれだけ教えようと、愚悪の凡夫の自力の執心は揺らぐことがない。それを翻さずにはおかないという大悲心を、超時間的努力で語りかけているのであろうと思う。
『無量寿経』「下巻」の「三毒段」に、「世人、薄俗にして共に不急の事を諍う。」(『真宗聖典』58頁)、「少長男女共に銭財を憂う」(同前)、「憂毒忪忪として解くる時あることなし。憤りを心中に結びて憂悩を離れず。」(同前)等とあるが、人生についての根本の智恵が無いから、この「憂毒」を解きほぐすことができず、「憂苦万端にして勤苦かくのごとし」(同前)であると言われている。この根の深い「憂苦」を背負っている凡愚の心中を解きほぐさずにはおかないという大悲が、「忍力成就」の修行を語りかけているのである。
親鸞は名号の功徳は大海のごとくであるというが、その大海のごとき功徳を衆生に実感として受け止めさせるためには、この凡夫の「憂毒」を解毒する必要がある。このご苦労を法蔵願心の勤苦として感受することが、真実信心なのだということなのであろう。「自身は現に罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して出離の縁あることなし」(『真宗聖典』215頁)という善導のいわゆる「機の深信」は、この「憂毒」の深さの自覚的表白ではなかろうか。個人的な罪悪感の心理的表白では決してない。人間存在に張り付いている除くことのできない「憂毒」の自覚である。これと共に歩み続ける大悲を『無量寿経』は「法蔵願心」の物語として群生海に語りかけるのであろう。
人類の怨念の歴史を翻すことは、永遠にできないと言わざるをえないほど、怨念の根が深いのである。しかし、いかに怨念が深く、憎しみの連鎖が激しくとも、これに苦しみこれに泣く人間を見捨てられないのが、大悲心なのではないか。兆載永劫と語るのは、無限の時間をかけてでも、衆生の憂毒を除かずには済ませないという大菩提心の呼びかけだと思う。この願心に同心することは、いよいよ深い人間存在の自力の執心を教えられると共に、これを翻すことが人生の最大の難事業でもあり、それを呼びかけ続ける大悲の勅命に招喚されるほかに道はないということではなかろうか。
(2014年9月1日)