親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
往生浄土の教えは、この世の生から阿弥陀仏の国土に生まれ直すというかたちで、成仏道を凡夫に具現する。この教えのかたちを、「生まれ直し」の思想ととらえて、浄土教の教えの意味をひもといて見たいと思う。
言うまでもなく、「生まれ直し」をしたい意欲を「願生」と言うのであるから、先に述べた「欲生心」の問題と同じことなのではないか、ということがある。因の意欲が「願生」であるなら、その願によって起こる宗教的現象を「往生」と言うのであるといえよう。したがって、因の意欲の側から「欲生心の象徴化」というかたちで浄土教の信心の内面を考察したのであるが、その因なる意欲から起こる意識転換の事実を、「生まれる」という言葉で表現することの意味を少しく考えてみようと思うのである。
「生死(しょうじ)」という言葉がある。現代語では死生と言うことが多いのかもしれない。宗教学者の島薗進氏が東京大学におられたころ、「死生学」という名前で、「死」にかかわる生の問題を広く呼びかけられた。現代の文明社会は、人間の生存を進歩発展の無限の歩みであるかのように、生きることに力点を置いて営んできた。それが21世紀に入ってさまざまなかたちで文明生活の行き詰まりを強く感じさせる現象が起こってきた。「死生学」ということを提起されるということには、生存ということに「死」ということが必然であることを、あらためて学問的に思想の中心に捉え直して考察してみようということがあるのではないか、と感ずるのである。
仏教はその出発点から、死を問題にしている。「生老病死」という無常の生存を苦と見ることから、その本質的苦をいかにして突破するかを課題としてきた。そして、生死無常を超えて、涅槃常住の智慧を求めよと教えられてきた。しかし大乗仏教では、「不生不死」として、生死の執らわれを超え、さらには、涅槃の覚りに腰を下ろすことをも超えて、不住生死・不着涅槃の大涅槃を教えてきた。苦悩の実存を突破する要求に、ある意味で哲学的とも言える智慧の論理を、呼びかけてきた。
しかし、執着が強く迷いの深い自己に苦悩する求道者は、この論理が自己の身心を解決しない悩みの事実にぶつかって、自己の愚かさや下劣さに苦しんだのであろう。この自分の生のなかでは、とても仏道を成就できないという限界から、次の世での仏道成就を願うというかたちが求められてきたのではなかろうか。
そもそも、現実に与えられている実存状況の矛盾や不条理は、人間理性で手直しできるような性質のものではない。現実の不条理の前に絶望するしかないということには、死をもってあえて応答を求めようとする希求の切実さもあり得るのである。
(2014年10月1日)