親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
善導の「横超断四流」(『真宗聖典』243頁)の文に触れつつ考察しようとしている。従来は、この問題を親鸞が「信巻」で扱う意味を、「信の一念」から切り離して、信心の一般的な意味として扱ってきていたようである。それだと、横超は如来の側のはたらきであり、われら凡夫はこの濁世から足を抜けずに、やはり死ぬときにあの世の「お浄土」に生まれ直すのであると、考えられることになる。この理解は、親鸞が引いている『般舟讃』や『往生礼讃』の文の意味を、「信の一念」の内実として如来の回向によって衆生の「金剛心」に施与するのだという、「横超」による「断四流」の功徳をまったく見ようとしないことになりはしないか。
そもそも、われら凡夫に真実信心が成り立つことが、「如来の回向なかりせば」絶対にありえないというのが、親鸞の自覚である。凡夫は自己の内なる努力などでは、絶対に如来の純粋なる心に対応できない。宿業煩悩の繋縛(けばく)ある身には、無漏(むろ)の心などに関係をもてる可能性などはない。それが「浄土に、信心の人のこころ、つねにい(居)たり」(『御消息集(善性本)』、『真宗聖典』591頁)と言い得るのは、如来回向の大きなはたらきを信ずるからではないのか。
われらにいかにして、「金剛」の心などというものが起こり得るか。「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光照護して ながく生死をへだてける」(『高僧和讃』「善導和讃」、『真宗聖典』496頁)という和讃の意味には、金剛堅固の信心がもしも獲得(ぎゃくとく)されるならば、という厳粛な限定がついている。しかし、信心獲得が起こるなら、「ながく生死をへだて」ているのだと言うのである。これをしっかりと確認せずに、「往生は現生か、臨終か」というような議論をしているのは、まったくナンセンスとしか言えないのではないか。
「金剛心」は言うまでもなく、善導の『観経疏』の「共発金剛志」と「正受金剛心」(『真宗聖典』235頁参照)の課題である。愚かな凡夫にいかにして「金剛志」などが起こると善導は言うのであろうか。この言葉は一見すると、どう見てもいわゆる竪型の菩提心にしか見えない。それならわれらには起こるはずがない。「自力聖道の菩提心 こころもことばもおよばれず 常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき」(『正像末和讃』、『真宗聖典』501頁)と言われるとおりであろう。
しかし、この前に善導は「各発無上心」(『真宗聖典』235頁参照)と言っている。それと異なる言葉「共発金剛志」で何かを表そうとしているのだ、と親鸞は気づいた。それを「各発」とは自力の意志、すなわち宿業因縁で各人に起こる異なった意欲、それを「菩提心」と言うなら、これは「自力聖道の菩提心」であろう。それに対する「共発」とは何か。一切衆生を担う法蔵願心を暗示しているに相違ない、と親鸞はにらんだのではないか。
共発の菩提心を法蔵願力であると信ずるなら、その信心こそが、「浄土の菩提心」であると言えよう。この願力に信順することは、超世無上の意味をこの生死の生活に見いだすからである。そのことを「弥陀の心光照護して ながく生死をへだてける」と讃嘆するのではないか。
(2015年2月1日)