親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
善導が「共発金剛志」という含みのある言葉に「横超断四流」という言葉を加えていることの意味を、親鸞はしっかり見届けようとした(『真宗聖典』235頁参照)。「共発」とは一切衆生の根源に呼びかける願心、すなわち法蔵願心以外にはないのではないか。平等なる願心のみが「共発」と言いうる願を衆生に呼びかけているのだ、と。
衆生の側の自覚からすると、私のこころに何かを意識することで、その意識が起こったとか起こらなかったとか言うのであるから、「志が発る」とするなら、個人の意志が動くのであって、「共発」的に動くと言っても、個人的な意志が、たまたま共通の関心とか興味で動く場合もあるとしか考えられない。だから、「業因千差」(『真宗聖典』324頁)で皆それぞれ違う世界を受け止めているのが、この迷妄の世界だと言うのが仏教の世界観だ、と親鸞は押さえたのである。しかしまた一面で、同じような業(共業)によって、同じような環境世界を感受しているのが衆生でもある。この共感は、同じような業を共通原理とするのであるから、そうではない業のものを差別し排除することにもなるのである。
これに対して、法蔵願心が選択した報土は、「同一念仏無別道故」(『真宗聖典』190頁、282頁参照)と言われていて、大悲の願心の因果として、一切衆生が一如平等の境遇を受け止めることを願い続けていると言うのである。われわれの自覚できる意識より深層に、宿業を異にした衆生をも平等に救い取りたいという大悲願心が、無始以来の迷妄の歴史と共に歩んでいると教えられるのである。この願が、『無量寿経』の教えとなって、無限なる「光明と寿命」を名の意味にもつ阿弥陀如来を信ぜよと呼びかけるのである。この願を信ずることは、この名を信ずることでもある。この名を思い起こす(念ずる)ときに、「平等の大道」として一切衆生に平等の存在の故郷を与えようと言うのである。
これを信ずることは、「大信海」に帰入することであって、「貴賤・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、……」(『真宗聖典』236頁)と、親鸞は言う。この世のあらゆる差異的情況が、社会的差別を助長し、さらには異なる者を排除する論理になっていくのに対し、それを突破する精神的平等の精神を開くことを呼びかけているのである。これはこの世の状況的変革を無用だと言うのではない。しかし、この世はいかに平等を願っても、業報の差異を消すことはできない。生まれて生きる時代情況や男女の差をなくすことはできない。その業報の差異を差別や排除にしてしまう偏見を転換して、絶対平等の願心に帰入せよと呼びかけるのである。
(2015年7月1日)