親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
「共発金剛志」によって「横超断四流」が成り立つ(『真宗聖典』235頁参照)と善導が言うのは、われら凡夫にいかなる事態が発起することなのであろうか。この「共発」とは、人間存在の根底から立ち上がる平等の願心であり、それを『無量寿経』が「法蔵菩薩」の名で語っていると親鸞は受けとめた。「共発」とは衆生の表層レベルの意識に起こる意欲より、深層的な意欲を表そうとしているのだ、ということである。その「共発」する金剛の志に触発されるとき、「横超断四流」という事柄が起こると言われるのである。このことを、「信巻」で親鸞は「菩提心」の問題として解明しているのではないか。
「横超」とは、個人の差異を越えた平等の地平を「横」で表して、願力によって迷いの生存を「超越」する意味を一切衆生に与えることを言おうとしている。個人の能力や意志力しか了解できない凡夫の意識からは、これはまったく了解しがたい。
その個人的発想を親鸞は「竪(しゅ)」という方向で示して、竪には決して平等が成り立たないことを示しているのである。それが宿業の差異によって成り立っているこの世の不条理なる情況の論理なのである。
しかし、この宿業差別の苦悩情況のただなかから、これをいかにしても乗り越え、突破したいというやむにやまれぬ深い要求が起こる。この深層からの要求が、苦悩の衆生に本願力を聞き当てさせることになるのである。
しかし「横」の方向から「超」と言いうる事実を開くとは、この現実の差異的事態にどういうことが起こることを言い当てようとするのであろうか。宿業差別に泣く衆生に、横超的に迷いの生存、すなわち「四流」を、「超断」できると呼びかけることが、いかなる事態を呼びかけようとするのであろうか。
この課題を成就する場所を語りかけようとして、法蔵願心は阿弥陀如来の場所を報土として「荘厳」するのであるから、これが如来が呼びかける本願の「欲生心」の意味の問題でもあることになる。
親鸞は欲生心の問題を、「如来回向」の「欲生心成就」(『真宗聖典』232〜233頁参照)として明らかにされた。如来の「至心回向」に値遇するということにおいて、「欲生心成就」が成り立つというのである。本願成就は衆生にとって、そもそも彼岸的である。有限なる身にとって、無限の願心の因果はいかにしても届かない距離だからである。この絶対届かない距離を、彼岸の側から一気に突破して無限が有限に突出するのが「横超」の出現だと見るのであろう。それが、経文に本願成就文として語られていることなのだ、と親鸞は読み取ったのである。
これに対して、法蔵願心が選択した報土は、「同一念仏無別道故」(『真宗聖典』282頁参照)と言われていて、大悲の願心の因果として、一切衆生が一如平等の境遇を受けとめることを願い続けていると言うのである。われわれの自覚できる意識より深層に、宿業を異にした衆生をも平等にすくい取りたいという大悲願心が、無始以来の迷妄の歴史と共に歩んでいると教えられるのである。この願が、『無量寿経』の教えとなって、無限なる「光明と寿命」を名の意味にもつ阿弥陀如来を信ぜよと呼びかけるのである。この願を信ずることは、この名を信ずることでもある。この名を思い起こす(念ずる)ときに、「平等の大道」として一切衆生の平等の存在の故郷を与えようと言うのである。
これを信ずることは、「大信海」に帰入することであって、「貴賤・緇素を簡ばず、男女・老少を謂わず、……」(『真宗聖典』236頁)と、親鸞は言う。この世のあらゆる差異的情況が、社会的差別を助長し、さらには異なる者を排除する論理になっていくのに対し、それを突破する精神的平等の精神を開くことを呼びかけているのである。これはこの世の状況的変革を無用だと言うのではない。しかし、この世はいかに平等を願っても、業報の差異を消すことはできない。生まれて生きる時代情況や男女の差を無くすことはできない。その業報の差異を差別や排除にしてしまう偏見を転換して、絶対平等の願心に帰入せよと呼びかけるのである。
(2015年8月1日)