親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
法蔵菩薩の物語には、諸仏浄土のなかから、弥陀の浄土を選択摂取(せんじゃくせっしゅ)するということがある。この物語の発願の段にある「無上殊勝の願を超発す」(『真宗聖典』243頁参照)という言葉を、親鸞は「信巻」の「横超断四流釈」に取り上げている。法蔵菩薩の選択には、名号の選択と浄土の選択があるのだが、さらには衆生に信心を起こさせるための苦労が、ことさらに「兆載永劫」の時をかけて、「至心」(真実)を回向し、「信楽」を回向し、「欲生心」を回向成就するとされている。このことが語るのは、愚かな凡夫には真実は無いし、まして無限なる大悲から回向される名号には、まったくそれとは気づけないということがあるからである。難中の難の突破のために、兆載の時をかけることが、願の「超発」するいわれだというのである。
さらに、願生の意欲は「横超」という意味の菩提心であるという。この願生は、自力の意識からでは、まったく見えないのである。その横超の意味に、無上殊勝の願が超発するということが見いだされ、それが「信は願より生ず」るということを表すのだとされる。その横超という言葉は、「横超断四流」という善導の言葉と、「横截五悪趣〈横に五悪趣を截る〉」(同前参照)という『大経』の言葉に結びついて出されてくるのである。
生死流転の生存には、無明の闇が付帯している。その無明の闇を破らんとして、阿弥陀の光明が摂取の心光をもたらすのである。それを「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨〈光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず〉」(『観無量寿経』、『真宗聖典』105頁)と言われている。ただ念仏の衆生を摂取して捨てずとは、その大悲に触れて闇が晴れるということであろう。ここに善導は「摂取不捨 故名阿弥陀〈摂取して捨てたまわざるがゆえに、阿弥陀と名づく〉」(『真宗聖典』174頁)と注釈し、それによって親鸞は、名号には摂取不捨のはたらきがあり、それを心光常護というのだと納得したのである。
それが法蔵菩薩による回向の信楽の背景である。そこから、凡夫の回心(えしん)までには、兆載の時間と恒沙(ごうじゃ)の諸仏世界を超えゆく距離があるという。こういう形で、凡夫のこころに付帯する執念のような疑いを表すのである。しかもその底に、如来回向の欲生心が歩んでいると見られた。「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情を捨てずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(『正像末和讃』、『真宗聖典』503頁)とは、なかんずく如来の欲生心の深さに感動したことを表しているのであろう。
その欲生心は、「四流を断つ」ために起こされるのだから、これが横超の質に関わることになる。常没常流転とは、凡夫の実状である。この四流(生老病死)を断つために、横さまに本願力がはたらいてくるといわれるのである。
(2017年1月1日)