親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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親鸞仏教センター所長

本多 弘之

(HONDA Hiroyuki)

 法蔵願心は、十方諸仏の世界に呼びかけて、自力の求道過程にもがいている衆生に必ずや縁を結ぼうとする。そのために「光明名号をもって十方を摂化したまう」(『教行信証』、『真宗聖典』174頁)と善導大師が言われるような願いを立てるのである。それが「触光柔軟の願」と名づけられている第三十三願と、「聞名得忍の願」と呼ばれている第三十四願であろう。これらの願は「十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類」(『真宗聖典』21頁)を相手にして呼びかけているからである。単に十方衆生と呼びかけるのではなく、丁寧に「十方諸仏世界の衆生」と呼びかけると言うことには、どういう意味があるのだろうか。

 宿業因縁による出遇いは、さまざまな教えによって限りなく自力の意欲を起こし続けさせられる。親鸞聖人は「三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり」(『正像末和讃』、『真宗聖典』502頁)と和讃でうたわれている。いろいろさまざまな思想が、それぞれの歴史や社会において衆生を取り巻いているのであるが、そのいずれであっても、「自力」の意欲を基準として衆生を育てはぐくむということなのではないか。「三恒河沙の諸仏」とは、つまり、無数の諸仏を経巡ってみてもということである。それは換言すれば、どのような宿業因縁であろうとも、「自力かなわで流転」してしまう必然性があるということなのである。

 それは実は、教えの縁に流転の原因があるというよりも、より根本的には衆生の宿業に曠劫已来(こうごういらい)の流転の歴史が埋め込まれているということからくる実態なのではなかろうか。それで親鸞も、源空和讃で、「曠劫多生のあいだにも 出離の強縁しらざりき 本師源空いまさずは このたびむなしくすぎなまし」(『高僧和讃』、『真宗聖典』498頁)と言われているのであろう。もし日本に法然上人がおられなかったなら、自分のこの人生は、また自力による求道とその成果が満たされない悲哀を生きるしかなかったのだ、と仰せられているのである。法蔵願心はそういう衆生に、どこまでも寄り添い、育て励まして、必ずや存在の真実に目覚めさせようとして、「兆載永劫(ちょうさいようごう)」の修行を誓っているのであると思う。

 曠劫の自力流転の背景があっても、その根元に十方衆生に呼びかける存在の本来性からのささやきがある。その本来性からのささやきを「欲生我国」という。「我国」とは真実一如の名告(なの)りであり、そこから「真実の本来性に還帰せよ」という存在のささやきが起こっているのである。「欲生」を「如来招喚の勅命」であると親鸞が言われるのは、したがって、存在論的な本来性からの招命という意味なのである。

(2017年3月1日)

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