親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
『無量寿経』の本願の主体である法蔵菩薩は、その本願において「設我得仏 十方衆生〈たとい我、仏を得んに、十方衆生〉」(『真宗聖典』18頁)と語りかけ、「若不生者 不取正覚〈もし生まれずは、正覚を取らじ〉」(同前)と誓っている。これによって、本願を誓願とも言う。そして、いわゆる機の三願(十八、十九、二十願)に通じて「至心信楽 欲生我国〈心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて〉」(同前)と呼びかけ、衆生がその願生心の事実を確認し、「往生」を成就しないなら、自分自身も満足して正覚を取ることはないのだと誓っている。
この本願が呼びかける「欲生心」を、親鸞は「如来招喚の勅命」(『教行信証』、『真宗聖典』177頁)であると言われる。この実存的な意味は、人間存在にとっての宗教的要求とは、存在の根底に潜む自己回復の希求であり、それを本来性の象徴たる浄土からの「招喚」として呼びかけ続けるのだということであろう。衆生の本来性たる一如法性から、法蔵菩薩が立ち上がったのだと親鸞は了解している。そして、一切衆生を救済する方法を求めて、五劫思惟(ごこうしゆい)し選択摂取(せんじゃくせっしゅ)した事柄が、本願による浄土建立(じょうどこんりゅう)の志願と、その浄土へ欲生せよとの衆生への呼びかけなのである。
この五劫思惟とは、五濁悪世(ごじょくあくせ)を環境とする衆生には仏道を求めても妨げが多いので、まずは環境を整備しなければなるまいと思惟し、そのために建立すべき浄土の内容を、本願を通して選び取り、さらにはそこへ「往生」するための方法を選択した努力と時間なのである。そこで衆生の往生のために選び取った仏名を称するという方法は、一切衆生を平等に救済しようとする大慈悲から起こっているから、「易」であって「勝」であると、源空は言われる。名号を称える行為は、他の方法に比べれば易しい。それは易しいことを条件にしなければ、落ちこぼれる衆生が多く出てしまうからであると言う。そして、仏名は一切の功徳を総合している名であり「万徳の帰する所」であるから、「勝」であると言われる。
これで環境としての浄土と、そこへの往生の方法は完成した。しかし、迷妄深き衆生はこの大悲の選びを了解することができない。それでさらに法蔵菩薩は「兆載永劫(ちょうさいようごう)」に修行を続行したと語られている。この兆載永劫の修行は、先の機の三願に通じて呼びかけていた「至心…欲生」を衆生に具現するための努力であると善導が気づき、親鸞はそれによって「兆載永劫」の修行とは、衆生に真実信心を「回向成就」するための清浄願心の無倦(むけん)のはたらきを語るものであると見られたのである。
そもそも『無量寿経』における浄土は、こういうわけで法蔵菩薩が大悲の願心によって選び取った場所であり、如来の側から一切衆生を摂取しようとする動的願心の表現なのである。
(2017年8月1日)