親鸞仏教センター所長
本多 弘之
(HONDA Hiroyuki)
この世のあらゆる生命存在は、有限なる諸条件の下に、いのちの営みをするように規定されている。その根源的な規定は、時々刻々に変わり行く諸条件と対応しつつ、自己自身も刻々に変化していかなければならないということである。しかも、その変化の持続が時間的に有限である(寿命がある)ということ。その限定された生存の下に、固有の形態(いわゆる身体)として、それぞれの生命存在がこの世に生存を与えられているのである。
この生命存在を取り巻く環境としての無機物も、変化していく点では同じようだが、固有の身体を限定されながら、変化しつつ自己を相続し、自己と同等の身体的機能を持つ個体(子孫)を後に残していくという点が、生命存在の独自の不思議さなのである。
この生命存在のありようが移りゆく存在であるから、一切は諸行無常であると仏教は言う。さらには、一切の存在が諸行無常なのであるが、人間はその諸行無常であることを、「苦」であると感ずる、それで「一切皆苦」であると教えられる。仏教の標識は、「諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静」(四法印)であるという。この第三句までは、「有為(有限にして変わりゆくこと)」なる存在のあり方の現前する相を表しているが、第四句は、そのあり方を突破した仏陀の智慧を表現しようとするものであろう。
その智慧である「涅槃」は、有為法に対する無為法と定義されている。涅槃とは、本来は釈迦如来の入滅(生命の終焉)に際しての仏弟子達の悲しみが、その死を単なる生命存在の死滅や消滅ではなく、身体は現前からは消えたけれども、一般の死とは違ったことを言い当てようとするために案出された言葉ではないかと拝察する。生命現象を燃える火に喩えるなら、その火の消えたことを表す言葉が、涅槃(ニルヴァーナ)だという。その喩えに寄せて考察を進めるなら、火が消えても余熱が残るということがあろう。死滅という語に付帯する冷厳な事実よりは、この燃火(ねんか)の余熱に喩えられる釈尊への仏弟子達の情念、尊敬と愛情の混じった執念にも似た情念が、この言葉に託された意味かもしれない。
事実、釈尊の入涅槃を契機として、仏弟子達の集合体(僧伽)の中に、仏陀の説かれた「教え」をしっかりと再確認しながら、編集し記録していく経典編集(仏典結集)の作業が始められたと伝えられている。そして、四依法(しえほう)に示されるように、仏弟子達が真に依り処とすべきものとして、「依法不依人 依義不依語〈法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし〉」等の言葉が伝承されて来ているのである。
(2019年9月1日)