親鸞仏教センター

親鸞仏教センター

The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

最新の記事

ikeda
Interview 第27回 池田行信氏(後編)
Interview 第27回 池田行信氏(後編) 浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職 池田 行信 (IKEDA Gyoshin) Introduction  2022年2月13日、zoomにて、昨年『正信念仏偈註解』を上梓された池田行信氏(浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職)にお話をお聞きした。そのインタビューの模様をお届けします。 (東  真行・青柳 英司)   【今回はインタビュー後編を掲載、前編・中編はコチラから】 ──今回のご著書では、注釈のみならず、「補遺」欄にとても重要な事柄が多く書かれていると感じました。たとえば、多田鼎の龍樹理解について近代における言説の伝播を探られ、あるいは、コロナウイルス感染拡大の状況下における生老病死の受けとめについても言及があります。また、私が特に重要と感じたのは村上速水の見解を取り上げて、「文献解釈の落とし穴」について書かれている点です。そこでは親鸞の思索過程を重んじることなく、整備された教義理解を他の者に強制するという問題が指摘されています。これは親鸞自身の問題というよりも、親鸞が明らかにした教法を大事に思う、あらゆる人々にとっての重要課題であると考えます。私たちはこの問題をいかに捉え、乗り越えていけるとお考えでしょうか。   ■親鸞の「プロセス」を課題とする 池田  村上速水先生は、「聖人の教義といわれるものは、聖人が到達した結論」であると述べています(『註解』459頁)。その「結論」を解釈しようとすれば、「精微をきわめた訓詁解釈学」が要請されましょう。その意味では、「完全無欠な教義として整備された論題」や「精微をきわめた訓詁解釈学」は「主客二元論」とならざるを得ません。しかし、「結論」に至る「プロセス」「厳しい道程」を私の課題として、主体的に問題にしようとすれば、「主客一元論」の視点が要請されるのではないでしょうか。  信楽峻麿先生は「真宗の信心」を「宗教的意識」として、「ひとつの宗教的態度」として捉えると共に、村上先生のいう「プロセス」「厳しい道程」を自己の課題として、主体的に問題にして「主客一元論」に立った信心理解を提起しています。(慈願寺blog「真宗余聞(6) 信楽峻麿はなぜ教団と宗学を批判したのか(その1)」...

最近の投稿を読む

ikeda
Interview 第26回 池田行信氏(中編)
Interview 第26回 池田行信氏(中編) 浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職 池田 行信 (IKEDA Gyoshin) Introduction  2022年2月13日、zoomにて、昨年『正信念仏偈註解』を上梓された池田行信氏(浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職)にお話をお聞きした。そのインタビューの模様をお届けします。 (東  真行・青柳 英司)   【今回はインタビュー中編を掲載、前編・後編はコチラから】 ──先ほど(※前篇参照)も申しましたように、『正信偈』について、これほどの大部の著作は近年において稀有です。この著作のなかで、現在の先生が思い返されてみて、特に印象的であった箇所、また『正信偈』の核心ではないかと思われる箇所について教えていただけますか。   池田  印象的な箇所といえば、個人的には「極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」(『註釈版』207頁、『聖典』207頁)の偈文が好きですね。  また、法霖師は「成等覚証大涅槃」の「大涅槃」を釈して、「往きて反らざるは小涅槃なり、往きて能く返るを大涅槃と名づく。故に知んぬ、入出二門涅槃界中の幻相〔※原文ママ〕なることを」(『註解』128頁)と述べていますが、「大涅槃」という言葉を「現当二益」「往還二回向」で解釈しているのは興味深いです。  「広由本願力回向 為度群生彰一心 帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数 得至蓮華藏世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死薗示応化」(『註釈版』205頁、『聖典』206頁)の8句については、信、証、二回向、天親の五果門にそれぞれ配当すると考えられます。親鸞聖人の論理的な性格がよく出ているように思います(『註解』329頁)。     ■『正信偈』の核心 池田  『正信偈』の核心はどこかということですが、これは『教行信証』の「要義」が『正信偈』であるなら、親鸞聖人ご自身が『尊号真像銘文』で解説している「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」(『註釈版』670頁以下、『聖典』531頁、『註解』110頁以下)になろうかと思います。まさにこの4句が『教行信証』の「行・信・証」を語っています。  また、深励師は『正信偈講義』で「この二句(本願名号正定業 至心信楽願為因)が今偈一部の肝要。又浄土真宗の骨目。安心の要義。この二句に究まる」(『仏教大系 教行信証四』171頁)と述べています。曽我量深先生も「浄土宗のお念仏というものは、いったい、能行か所行かということになると、だいたい能行でないかと思います。それに対して、われらのご開山聖人は、第十七願を開いて、そして、お念仏は所行の法であるということを、明らかにしてくだされたわけであります」(「正信念仏偈聴記」『曽我量深選集』第9巻229頁)と述べています。     ──今回のご著書では、東西の本願寺を問わず、近代に至るまで様々な学僧の見解が引用されています。先生はいわゆる「三家七部」(『註解』573頁)の解釈にご著書の軸を据えておられると述べられていますが、特に近代に至って大きく解釈に展開があると考えられる点について、『正信偈』の箇所をお示しいただき、それについてコメントをお願いできますか。     ■方法論の展開とそれに伴う現代の批判 池田  まずお断りしておかなければならないのは、『正信念仏偈註解』は、基本的に江戸時代の『正信偈』の訓詁注釈の紹介です。近代以降、従来の宗学の立場や方法論が問われてきました。真宗関係でいえば清沢満之先生の「因果之理法」(岩波書店版『清沢満之全集』第7巻所収)や「貫練会を論ず」(前掲清沢全集所収)があります。さらには村上専精先生の『仏教統一論』(「第一編大綱論」)や前田慧雲先生の「宗学研究に就て同窓会諸君に曰す」(『六条学報』第6号)を挙げることができると思います。  清沢・村上・前田の諸師は何を主張されたのかというと、要約していえば、従来の宗学は、①訓詁注釈一面に傾斜しており、②宗派的一面に偏向している。また、③道理・理屈は充分だが実験が欠如している。だから、西洋学術の実験観察に仏教の理論を加えて実益を得る必要がある。④そのためには、これまでの釈文訓詁的態度で、三経七祖もすべて一宗内の祖師論釈や宗祖腹で解釈するだけでなく、比較研究を試み、特に歴史的研究に着手し、仏教の真髄を発揚すべきである、ということになろうかと思います。  そうした近代の解釈の展開として、たとえば曽我先生の「伝承と己証」という歴史的視点、または「救済と自証」、金子大榮先生の「浄土の観念」という「自覚」「自証」や「観念」「内観」といった実存的視点に依拠した教学理解は、江戸時代の「祖述」と異なった、新たな方法のもとで語られているように思います。  また曽我先生は他力回向について、「この他力回向ということは、両祖(注:法然と親鸞)各自の心霊上の実験でありて論理上の結論でない」(「七祖教系論」『曽我量深選集』第1巻13頁)と述べて、宗教を「論理上」から把握するよりも、「心霊上の実験」として把握する大切さを指摘しています。たとえば「法蔵菩薩は阿頼耶識である」(「如来表現の範疇としての三心観」『曽我量深選集』第5巻所収)と捉えるような理解は、訓詁注釈よりも、内在的な「自覚」「自証」を重視した「内観」という解釈方法への展開があってのものと思います。  曽我先生は「往生は心にあり、成仏は身にあり」(『曽我量深選集』第9巻75頁取意)とも述べていますが、「往生」や「成仏」、そして「心」や「身」という二元論を一元的に「内観」という方法において「自証」しようとしたのではないでしょうか。こうした領解は伝統的な文献研究の立場、訓詁注釈の立場からは受け入れ難いとは思いますが、訓詁注釈自体にとどまることなく、注釈や解釈を「自証」するところに領解がある、という立場への曽我先生なりの展開があったように思います。  しかし、小谷信千代先生は『真宗の往生論』において、清沢満之の信念を継承するとされる真宗教学の流れ、いわゆる大谷派の近代教学は実証的考察を重視せず、文献研究を軽視し、自己の領解のみを重視する傾向を帯びた学びの姿勢から、その言論は大仰な言説、短絡的で未熟な思考、牽強付会の論理となり、結局、実証的考察を拒む神秘的直観の教説として理解される危険性が潜んでいると批判しています。  その意味からすれば、お尋ねの「近代に至って大きく解釈に展開があると考えられる点」については、訓詁注釈的な『正信偈』解釈から、「自己の領解のみを重視する」「実証的考察を拒む神秘的直感の教説」と批判される『正信偈』の解釈を取り上げるべきかもしれません。     ──ご著書では、たとえば大谷派でいえば了祥の『正信偈』の製作意図についての見解(濱田耕生『妙音院了祥述「正信念仏偈聞書」の研究』)、または曽我量深の『法蔵菩薩』(『曽我量深選集』第12巻所収)などの見解が参照されています。了祥の見解については現状容認を批判する教学として、現代における意義を探っておられるように見受けられます。曽我については、浄土真宗を広大な仏教史に位置づけるなかで、その思索を手がかりとされているように感じました。了祥、曽我、暁烏敏や安田理深といった教学者について、今回ご著書をまとめられるなかで、どのような点を重んじて文章をお選びになられたのでしょうか。     ■教団として現実に向き合うとき 池田  先にも述べましたが、私は現代にあって、さらにいえば「宗門」「教団」にあって、「私」と「歴史」をどう把握するかという問題に関心があります。「私」を単なる「注釈」で解釈するだけでは物足りない。また、「歴史」を単なる「内観」レベルで思想表現するだけでは、持続可能な宗門や教団として現実の課題を担うことはできないと思います。ですから、「社会改良」の思想表現の含みを持った「歴史」に関心があります。そして、近代教学において、この「私」と「歴史」への関心が、どのような教学的営為となって現れているのかに関心があります。その意味において、「個の自覚」や「機の深信」レベルの「私」には、「歴史的視点」が欠落しがちに思います。  とはいえ同時に、曽我先生が「法蔵菩薩」を論じるなかで述べられた、「大乗仏教は釈尊以前の仏教」、「歴史以前の仏教、釈迦以前の仏教」(『曽我量深選集』第12巻135頁、141頁)との押さえや、また『大無量寿経』の「特留此経 止住百歳」(『註釈版』82頁、『聖典』87頁)を「『特留此経、止住百歳』。百歳というのは、一人一人の人間の一生を百歳というたのでありましょう。(中略)それで、弥勒菩薩に付属された。弥勒の世まで、この止住百歳が続いておる」(「正信念仏偈聴記」『曽我量深選集』第9巻263頁)と指摘されたことは重要に思います。  さらに、安田理深先生は、親鸞聖人を七高僧に続く「八高僧」と捉えています。この「八高僧」という把握は、恵然師がすでに親鸞聖人を「伝灯第八相承の高僧」、つまり「八高僧」と捉えていることを想起させるものです(『註解』241頁)。こうした歴史的視点への関心は、「阿弥陀仏を初祖とする」(『註解』242頁)という仏教史観にまで至ると思います。しかし、私には「内観」レベルの「私」と「歴史」には、何か限界があるように思います。それは戦時教学や教団による差別事件などの問題から教えられるような、「社会改良」への視点の欠けた「私」と「歴史」の課題ではないかと思います。 (文責:親鸞仏教センター) (後編へ続く) 池田 行信(いけだ ぎょうしん)  1953年栃木県に生まれる。1981年、龍谷大学大学院文学研究科博士課程(真宗学)修了。現在、浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職。  著書に法藏館より『近代真宗教団史研究』(共著、信楽峻麿編、1987年)、『真宗教団の思想と行動[増補新版]』(2002年)、『現代社会と浄土真宗[増補新版]』(2010年)、『現代真宗教団論』(2012年)、『浄土真宗本願寺派宗法改定論ノート』(2018年)、『正信念仏偈註解』(2021年)等多数。 最近の投稿を読む...
ikeda
Interview 第25回 池田行信氏(前編)
Interview 第25回 池田行信氏(前編) 浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職 池田 行信 (IKEDA Gyoshin) Introduction  2022年2月13日、zoomにて、昨年『正信念仏偈註解』を上梓された池田行信氏(浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職)にお話をお聞きした。そのインタビューの模様をお届けします。 (東  真行・青柳 英司)   【今回はインタビュー前編を掲載、中編・後編はコチラから】 ──池田先生はこれまで長らく、ご自坊である慈願寺のホームページのblog上で連載されてきた『正信念仏偈』(以下『正信偈』)の註解を、2021年に『正信念仏偈註解』(法藏館)としてまとめ、上梓されました。『正信偈』については、ご著書で指摘されているとおり、これまでにも数多くの講義録、講話類が公刊されていますが、今回のご著書のように近代に至るまでの注釈を網羅して提示したものは少なかったと思います。 まず、親鸞聖人の教えを学ぼうとする時に池田先生が『正信偈』を選ばれた理由と、現代に生きる私たちがこの偈文を読むにあたって、先学の注釈に学びつつ、特に留意すべき点などについてお考えがあれば、教えていただけますか。     ■なぜ『正信偈』なのか 池田  まず、『正信偈』を選んだ理由ということですが、具体的には寺院の法話会や組の勉強会で『正信偈』の講義を依頼されたことによります。依頼の多くが『正信偈』であったということの意味を私なりに考えてみますと、それだけ『正信偈』が広く読まれているということでしょう。つまり蓮如上人がいうように『正信偈』に「一宗大綱の要義」(『浄土真宗聖典(註釈版)』〔以下『註釈版』〕1021頁、真宗大谷派『真宗聖典』〔以下『聖典』〕747頁)が述べられていると、多くの住職方は認識しているということであろうと思います。  さらにいえば、多くの住職方は「真宗再興」の「要義」が『正信偈』に述べられていると認識し、「真宗再興」を念じているともいえるのではないでしょうか。『考信禄』を書いた玄智師は蓮如上人による『正信偈』と『三帖和讃』の公開は、「末代興隆のため」、「仏法興隆のために、開板流布せしむるものなり」(『真宗全書』第64巻181頁)と認識しています。私は「末代興隆のため」とか「仏法興隆のため」とか、そんな大きなことはいえませんが、「真宗再興」の願いにおいては、人後に落ちないと思っています。  曽我量深先生は「蓮如上人の御再興」とはちがう、「真宗第二の再興」をなし遂げなければならないと述べています(『曽我量深講義集第10巻 真宗再興の指標』45頁)。この「真宗第二の再興」の願い、さらに現代でいえば「真宗第三の再興」の願いが、多くの住職方が『正信偈』を学びたいという依頼に込められていたのではないかと思います。   ■「私」と「歴史」の欠落した「信心」の見直し 池田  また、お尋ねの「特に留意すべき点」についてということですが、3点申しあげたいと思います。  1点目は、「私」と「歴史」の欠落した「信心」の見直しが必要ではないかということです。これまでの『正信偈』の解説書を読みますと、その多くが『正信偈』の偈文の注釈か、著者の味わいにとどまっているように思います。私は注釈も味わいもどちらも大切に思います。しかし、注釈だけで「真宗再興」が可能とは思いません。信念の吐露といいますか、信念を語ることがなければならない。注釈だけでは「真宗再興」は無理かと思います。信念の吐露、信念を語るという意味で、私は「私」と「歴史」の視点をもった信念、信心が必要ではないかと思っています。  浄土真宗本願寺派の三木照國先生は、本願寺派の伝統宗学には「私」が欠落し、真宗大谷派の曽我量深・金子大榮両先生等の、いわゆる近代教学には「歴史」が欠落していると指摘しています(三木照國『教行信証講義――教行』「はしがき」)。これは大変、重要な指摘と思います。もちろん近代教学にも、曽我先生の「親鸞の仏教史観」や「伝承と己証」という「歴史」の見方がありますが、三木先生のいう「歴史」とは、おそらく「自覚」や「内観」レベルの歴史ではなく、現実を批判的に見る社会性、または「社会改良」の視点を有する「歴史」というような意味と思います。  そもそも「私」というものと「歴史」は離れていないでしょう。たとえば『歎異抄』には「親鸞一人がため」(『註釈版』853頁、『聖典』640頁)という言葉がありますよね。これを無視するならば、もう真宗とは言えない、というような重要な言葉です。人間が社会の中で育んできた「歴史」と、このような「私」というところにまで到達した信仰の「歴史」があるわけです。この関係についてもどのように見直していくか、という問題があると思います。  いわゆる「戦時教学」の問題や教団による差別問題を見ていくと、「純粋培養された――教義だけの〝独り歩き〟」(大村英昭「ポスト・モダンと習俗・迷信」『ポスト・モダンの親鸞』80頁)という問題があるように感じています。たとえば、宗教と道徳、信仰と生活という、一旦は二面的に捉える必要がある問題について、そのすべてを「法徳」といったところから演繹する発想に陥りがちで、そこには課題があると思います。  大谷光真前門主は「危ない一元論」「悪しき二元論」(「宗教と現代社会との関わりについて」『宗報』2018年7月号)ということを指摘されていますが、この「危ない一元論」にも、「悪しき二元論」にも陥ることなく、真宗の教えに立つと同時に社会の問題をも客観的に見ていく視点、そういうものを信仰の課題としてもたなければならないと私は思います。そうでなければ、持続可能な宗門、教団としての理論にはならないだろうということです。個人の信仰のみならず、組織論の重要性を思います。  だから、出世間の方向性というものを担保しつつ、常に社会に関わっていく。その場合は、社会に関わる原理、原則というものを、必ずしも真宗の教法によってのみ、導き出すべきではないと思います。一個人の信仰としては、そのようなこともあり得るでしょう。けれども、教団という組織は社会の中にあるわけです。社会のルールを完全に否定できるなら別ですが、易々と否定できるものではありません。社会的な合意を取ることは、極めて重要です。そういった点もふまえつつ、同時に戦時教学をも批判しなくてはならないのです。  教団という組織が社会の中にある以上、私たちはあくまでも社会の問題に取り組んでいかざるを得ません。「日本社会が潰れても、真宗教団は残る」などと放言することは到底できない。だから、他領域の論理というものをふまえなくてはならない。社会的視点と言いましょうか、そういうものが私は必要だと思います。中島岳志氏の著書『親鸞と日本主義』における批判などを読みますと、個人の信仰主体の確立のみではなく、同時に信仰共同体の論理が求められているのが現状ではないかと思うのです。   ■「与奪」と「祖述」 池田  2点目は、「与奪」と「祖述」という学問方法の問題に関することです。江戸時代初期の『正信偈』の注釈は存覚上人の方法、すなわち、各宗派の立場を一応肯定し、翻って浄土門に帰依せしめる、いわゆる「与奪」という方法に依拠していました。それには聖道諸宗や浄土異流に対して、浄土真宗の仏教としての正統性を主張する意味がありました。ゆえに、そのような注釈では、引用文献も聖道諸宗や浄土異流を意識した、広範囲な文献が参照・引用されていました。  しかし、本願寺派においては三業惑乱以降、学びの方法が「与奪」から、宗意安心を「祖述」するという方法に代わりました。この「祖述」という方法は、ややもすると後世の宗学の型にはめて親鸞を解するという問題に陥りやすいように思います。同時に江戸時代には、浄土真宗の優越性を強調した、「別途不共」や「真宗別途義」が強調されました。こうした「真宗別途義」の強調について、村上速水先生は真宗教義の鮮明化であると共に、「他力の救済を強調することに没頭して、仏教としての真宗という立場を見失わせる」とも指摘されています(『続・親鸞教義の研究』115頁)。この「真宗別途義」を中心とした学びは、学派の分立をもたらし、緻密な学説を競いましたが、排他的な「廃立」が強調されやすく、真宗教義の優越性の強調が、宗派の閉鎖性やセクト主義的傾向に陥る危険性も有しています。私は他宗他門に対して、浄土真宗の優越性を強調することを否定しているのではありませんが、宗祖の「顕浄土真実」の意味を鮮明にしようとするならば、あくまでも「仏教としての浄土真宗」の意味を明らかにする姿勢を忘れてはいけないと思っています。  ご参考までに、私が20代後半であった、今から40年ほど前の出来事をお話しします。当時、あるところで曽我先生の「信に死し願に生きよ」という言葉を引用して、自分の解釈を語ったことがありました。すると、ある方から「あなたはどんなところで勉強されたのですか、その言葉はレトリックに過ぎないのではないか」という、厳しい指摘を投げかけられました。この指摘を受けて、私が考えるようになったのは、自分とは異なる解釈と対話が叶わない学問方法を採用する限り、公開された解釈とはならないのではないか、ということでした。狭小な安全地帯に身を置いたところで、井の中の蛙にしかならないのではないでしょうか。  異なった解釈が表現される場合に、それによって教団としての組織的まとまりが損なわれるのではないか、という意見を耳にすることもあります。しかし、異なる意見同士の対話の中から、必ず新しい解釈・組織が生まれてくる、ということを信ずる以外にないと思います。これはもうそれしかないと思う。それが信じられるかどうかということだと思います。仏法僧という三宝への信頼こそが教団を支えているのです。その信頼から、真に創造的な解釈が生まれてくると思います。  「祖述」というあり方は、ある意味では伝統に依拠した立場と方法ではありますが、宗派の閉鎖性やセクト主義を超えた、「真宗第二の再興」のための学問方法としては課題があるとも思います。方法論に万能はないのです。曽我先生は「真宗第二の再興」は「真宗統一ということより仏教統一の方向に眼目がある」(『曽我量深講義集第10巻 真宗再興の指標』45頁)と述べています。「祖述」は基本です。しかし、「真宗統一ということより仏教統一の方向に眼目がある」という立場の大切さを思うならば、「与奪」という方法の再評価も必要になるでしょう。浄土真宗は仏教である、という視点を見失うと、教団内で「純粋培養」された教義が独り歩きすることにもなってしまうのではないでしょうか。   ■「逆縁」による「興宗」 池田  3点目は「逆縁興宗」「逆縁興教」ということです。『顕浄土真実教行証文類』(以下『教行信証』)や『歎異抄』、『親鸞聖人血脈文集』には「流罪記録」が付されています。了祥師は『正信偈』を解釈するに際して、『教行信証』執筆の動機はどこにあるのかを見据えて『正信偈』を読むべきだと述べています(『正信念仏偈註解』〔以下『註解』〕、7頁)。言い換えれば、了祥師は『正信偈』を「破邪顕正し仏恩師恩を報ずる」偈と理解すると共に、「流罪記録」と合わせ鏡にして『教行信証』制作の「造意」を論ずる必要性を述べています。つまり、『教行信証』を「流罪者」としての親鸞が書いた書物として仰ぎ、いただくということです。ある意味では、教団の中枢ではなく、在野で学びを深めた了祥師ならではの解釈ということもあるでしょう。「立教開宗」の書というと、浄土真宗の宗祖としての親鸞の書いた書物ということになりましょうが、その親鸞聖人は宗祖とされる以前は、「流罪者」であったという「歴史」に立って、その御文に接する必要があるのではないでしょうか。  曽我先生は「浄土真宗は配所に生まれたり 逆縁に生まれたり」といい、「逆縁興宗」、「逆縁興教」、「逆縁立宗」という言葉を記しています(『両眼人』32頁)。「逆縁」に我が身と我が心を置いて読むことも大切に思います。「逆縁」を介した「興宗」「興教」があるのです。言い換えれば、「逆縁」を介して、『教行信証』の題号における「顕」の意味や「興宗」「興教」の意味を考えてみる必要があると思います。「疑謗を縁として」(『註釈版』473頁、『聖典』400頁)「真宗再興」の意味を明らかにすることが大切に思います。  逆境を縁として書かれた書物を、順境のみを縁として読むと、建前の仏恩報謝、「ありがたい・もったいない・おはずかしい」にとどまるということも起こり得ます。あるいは、観念的な「私」と、「内観」的な「歴史」にとどまってしまうこともあるでしょう。私は、「逆縁」を介した教学的営為が『正信偈』解釈において、どのように現れているかに興味があります。曽我先生も金子先生も各々が逆境の中で教えを解釈していった方々ですね。それゆえでしょうか、両先生は「ありがたい・もったいない・おはずかしい」にとどまらない思索を残されたと思います。   星野元豊先生は「後世の宗学の型にはめて親鸞を解する」のではなく、「わたくしたちは素直にその文章から直に親鸞の心を汲みとるべき」と提言されたことがありました(『註解』375頁)。しかし、実際には、多くの『正信偈』の解説書は後世の宗学の型にはめて『正信偈』を解釈する「祖述」で終わってしまっていないかと思うこともあります。『正信偈』の御文の中に「逆縁」を見出すことは難しいのですが、その背景に「流罪者」としての親鸞がいることは忘れてはならないと思います。 (文責:親鸞仏教センター) (中編へ続く) 池田 行信(いけだ ぎょうしん)  1953年栃木県に生まれる。1981年、龍谷大学大学院文学研究科博士課程(真宗学)修了。現在、浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職。  著書に法藏館より『近代真宗教団史研究』(共著、信楽峻麿編、1987年)、『真宗教団の思想と行動[増補新版]』(2002年)、『現代社会と浄土真宗[増補新版]』(2010年)、『現代真宗教団論』(2012年)、『浄土真宗本願寺派宗法改定論ノート』(2018年)、『正信念仏偈註解』(2021年)等多数。 最近の投稿を読む...
report12_12_01
Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④
Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④ 龍谷大学世界仏教センター客員研究員 吉永 進一 (YOSHINAGA Shin’ichi) Introduction  現在、近代仏教研究という分野に多くの研究者が携わり、歴史学・宗教哲学・社会学・政治学などさまざまな領域を巻き込みながら展開している。その展開は海外の研究者との積極的な交流も伴うものであり、非常に興味深い動きをみせてきている。そのさまざまな運動の淵源をたずねるとき、我々は吉永進一氏の大きな存在感に気づかされる。吉永氏の魅力と求心力の原点がいかなるものなのか、是非うかがってみたい――そうした素朴な関心を胸に、我々は吉永氏の御自宅をお訪ねした。  吉永氏には、戦後日本の高度経済成長を向こうに置いて「不思議なるもの」への志向を強めた学生時代に端を発し、ウィリアム・ジェイムズから受容した「生(life)」への問い、西田幾多郎の哲学を近代における仏教の変容として捉える可能性、鈴木大拙が今なお世界中の知識人に示しつづける主体的問題とその独自性など、数多くの問題について語って頂いた。 実に多岐にわたる内容となったため、このインタビューを前後編に分けてお届けする。 (飯島 孝良・長谷川琢哉)   【今回はインタビュー①を掲載、①・②・③の各回コチラから】 吉永  これまでの仏教史や宗教史では、身体やお金のようなマテリアルは軽視されてきたけれども、そういうマテリアルをもう一回見直したほうがよいという一般論は立てられると思うんですね。ではその一般論を越えてどういう見通しが立つかと言えば、僕にはよくわからない。ただ、今までつくられてきた「近代仏教」や「新宗教」というようなカテゴリーは、そろそろ一回外してみたほうがよいだろうなとは思います。今の「新宗教」だって、あと100年もすれば、立派な「宗派」になり得るわけです。そういう「宗門史」で留めてしまうと、100年後には後悔が残るんじゃないでしょうか。   長谷川  岡田先生も、その解釈をおっしゃっていましたね。   飯島  改めて大拙研究についてお聞きしたいのですが、大拙は旧来ずっと関心をもたれてきていながら、どちらかと言えば伝説化されてしまっていましたよね。それが昨今は、だんだんと客観的な研究対象として見られ出してきています。それこそジュディス・スノドグラス先生やリチャード・ジャフィ先生(デューク大学教授)のような欧米の研究者の関心は、米国の時代状況や人間関係のなかで一書生のような大拙がどう活動したのかという点ですね。D・T・スズキというブランドが米国にどう影響したのか、あるいはビアトリス夫人がどうして大拙の仏教観に影響を受けたのか、あるいは影響を与えたのか、ビアトリスの人となりも含めて史料的に研究されてきている。  一方で、大拙の和文著作がちゃんとあるわけです。それら――『禅思想史研究』や『浄土系思想論』や『日本的霊性』といったもの――にも大拙の思想的なところが、当然あるんですよね。ある意味で一番厄介な、大拙の読みにくい部分をどう考えていくのか。これについては、小川隆先生(駒澤大学教授)や石井修道先生(駒澤大学名誉教授)、最近では安藤礼二先生が、ようやく着手されている印象です。  そうした中で、吉永先生はこれからの大拙研究をどのように捉えていらっしゃるか、今後何が必要と感じていらっしゃるか、うかがえますか。   吉永  大拙研究は時間がかかるでしょうね。そもそも、大拙の研究がきちんとスタートしたと言えるのは、そんな古い話ではないのに、まだ信頼し得る伝記がないわけですから、歴史的に大拙の生涯がどういうものだったのか、はっきり言えないわけです。幸いなことに桐田清秀先生が残した詳細な年譜があります。あれは事実の羅列ですが、項目と項目に連関をつけて、外部の資料をつきあわせていけば、かなり充実した伝記ができるはずです。まず何よりも、今後の叩き台となる伝記をつくらなければいけないでしょうね(※参照;桐田清秀『鈴木大拙研究基礎資料』〔松ヶ岡文庫、2005〕。なお、同書の電子版は、松ヶ岡文庫のホームページから無料ダウンロードできる)。  そういう事実を踏まえたうえで、その思想がどうかを検討し得る。だから、西洋思想からの研究と禅の伝統からの研究の二つをどこで折り合いをつけるのかというような問題は、まだ先だろうと思うんです。  例えば19世紀のヨーロッパ社会での仏教のイメージと言えば、怪しげな邪教というような印象が強いわけですよね。「どこか遠くの国から入ってきた新宗教が、どういうわけか若い者の間で広まっている」ということになったら、みんなそこで偏見をもちます。そういう偏見をもたれていたところが、欧米圏での仏教のスタートラインだと思ってよいのではないでしょうか。そこに入ってみようとする当時の欧米人は、よほど物好きか変人なわけですよ。というのも、キリスト教にだいたい満足しているというなら、仏教へわざわざ入るわけがないじゃないですか。旧来のキリスト教では満足し得ない人たちが、どうしても仏教に問題解決を求めて入ってくる。しかも、その解決すべき問題が意外に普遍的だった。   長谷川  普遍的?   吉永  そうです。21世紀になると、マインドフルネス的な瞑想を実践しようとする人々がそこら中にいるという状況になってくる。もしかしたら、近代社会の変化の中で「仏教」(欧米圏で広まった形での)は非常に有効に働いたのであって、だからこそ広まったんじゃないか。しかも、その中で大拙の果たした働きは大きい――そこまではみなわかっているわけですね。  ですから、大拙の思想について考えると、問題が二つあります。ひとつ目の問題は、例えば伝統的な仏教――臨済禅や真宗――を、大拙がどこまで保持していたのかということ。これは大体、これまでみなが批判する点ですね。二つ目の問題としては、そうした大拙の思想が現代に対してどれだけ大きいものをもたらしたのかということ。これはどういうような観点で評価するのかという、評価軸の問題もありますからいろいろな解答は出ると思います。大きな影響を与えたのは確かであるし、しかもそれは決して悪いものではなかっただろうと思いますし、海外への影響ばかり喧伝されますが、僕のような一般人の仏教観、禅観へかなり大きな影響を与えたのではないかと思うんです。  大拙の思想的な研究と伝記的な研究とはどこかで融合するはずです。だとしても、もう少し時間はかかるのだと思います。というのは、大拙の批判的な研究を経て、改めて大拙への評価が始まったのは、末木文美士先生(国際日本文化研究センター名誉教授)以降、ほんの4~5年ですよね。  いずれにせよ、まだ10年はかかると思いますよ。特に歴史資料はかなり整理されているのにもかかわらず、歴史学的に信頼できる資料が基本的に整理されきっていないというのがすごく残念ですね。結局、少数のすごく熱心な大拙研究者が伝記的な研究を熱心にやっていただけで、その問題が共有されていない。そういう伝記的な研究を多くの人が共有して、どんどん疑問点を出し、それをもう一回、思想へとフィードバックしていかなければ、なかなか次の世代にバトンタッチできないのではないかと思いますね。年寄りの世代は仏教好きなので、今はまだ大拙に人気はありますけれども、次の世代にバトンタッチするとなると、今のままでは研究としても大拙の理解としてもまだ不充分じゃないでしょうかね。  大拙は達観した人生の達人のように語られます。確かに成功した人生だとは思いますが、まったくノンシャランで仏教研究に打ち込んだわけでもない。几帳面で事細かく人生に処した面もあり、誰の人生とも同じように、苦労と喜びが綾なしていたような――苦労と喜びは同じ事柄の両面ですから――そういう気がして仕方がないです。なにしろ、ものすごく遅咲きですよね。大谷大に就職して、仏教研究に専念できるようになったのが51歳です。しかも最終学歴は中等学校(現在の高校)卒業です。父親と母親を20歳までに亡くしているわけです。これだけで考えても、大学教員に至る前半生が平坦なものとは言えないでしょう。誰であれ、思想は、自分の人生の苦闘からしか得られないのですから、そこはよく考える必要があるかと思います。  あと、われわれは大拙の著述のどういうところを面白いと思うのか。仏教の解説書として優れているかと言うと、あれだけ仏教研究者からの批判もあるので、解説としては最良のものではないのかもしれません。紙ゴミで捨ててしまう人もいるかもしれません。しかし、僕のように、紙ゴミで捨てるということもなく、やはり何度も取り出して読んでしまいたくなる人も少なからずいると思います。その魅力は何なのか。大拙は他人事として仏教を読んでいない、という点は大事なことだと思うんですが、では大拙が自分事として語ったものが、なぜ自分に共感できるのかとか、いろいろ疑念が湧いてくると思うんです。そうした疑念を突き詰めて考えてみる。自分の中から出て来る、大拙の面白味の由来を考えてみる。これもまた面白くも大事なことではないでしょうか。   長谷川・飯島  今回はどうもありがとうございました。(了)     インタビューを終えて    吉永先生のインタビューで語られているのは、「宗教」、「哲学」、「文化」といった既存のカテゴリーを疑い、それらすべてを包摂する流動的な混沌――たとえばそれは「生(life)」という言葉でも名指される――を柔軟にとらえることの必要性であった。そして「近代仏教」という研究領域が注目を集めているのも、それが多様なアプローチを許容する(あるいはむしろ要求する)混沌とした対象だからでもあるだろう。「近代仏教」という領域そのものが、いわば「宗教」や「哲学」といった既存のカテゴリーの問い直しを突きつけてくるのである。  インタビューの後半で、飯島氏と私は、それぞれが研究している鈴木大拙や井上円了についてうかがった。大拙にしろ円了にしろ、「仏教者」や「哲学者」といった既存のカテゴリーでは捉えきれない(それゆえ特定のディシプリンだけでは捉えきれない)ある種の混沌でもあるからだ。われわれはそうした混沌を捉えるための柔軟な知性を吉永先生に認め、そのなにがしかを学ぼうとしたのである。また混沌とした対象を捉えるには個人の視点だけでは不十分であり、だからこそ国内外の研究者のネットワークが必要になる。吉永先生を中心に形成された国際的・学際的ネットワークは、それ自体が一種の方法論でもあるのかもしれない。しかしいずれにせよ、今回われわれが垣間見ることができたのは、吉永進一という混沌のごく一部にすぎない。近い将来、より本格的な吉永進一研究のネットワークが形成されることを願うばかりである。 (長谷川琢哉・飯島孝良)   (文責:親鸞仏教センター)   (①から読む) 吉永 進一(よしなが しんいち)  1957年生まれ。京都大学理学部生物学科卒業、同文学部宗教学専攻博士課程修了。舞鶴工業高等専門学校教授を経て、現在は龍谷大学世界仏教センター客員研究員、英文論文誌『Japanese...
report12_12_01
Interview 第23回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」③
Interview 第23回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」③ 龍谷大学世界仏教センター客員研究員 吉永 進一 (YOSHINAGA Shin’ichi) Introduction  現在、近代仏教研究という分野に多くの研究者が携わり、歴史学・宗教哲学・社会学・政治学などさまざまな領域を巻き込みながら展開している。その展開は海外の研究者との積極的な交流も伴うものであり、非常に興味深い動きをみせてきている。そのさまざまな運動の淵源をたずねるとき、我々は吉永進一氏の大きな存在感に気づかされる。吉永氏の魅力と求心力の原点がいかなるものなのか、是非うかがってみたい――そうした素朴な関心を胸に、我々は吉永氏の御自宅をお訪ねした。  吉永氏には、戦後日本の高度経済成長を向こうに置いて「不思議なるもの」への志向を強めた学生時代に端を発し、ウィリアム・ジェイムズから受容した「生(life)」への問い、西田幾多郎の哲学を近代における仏教の変容として捉える可能性、鈴木大拙が今なお世界中の知識人に示しつづける主体的問題とその独自性など、数多くの問題について語って頂いた。 実に多岐にわたる内容となったため、このインタビューを前後編に分けてお届けする。 (飯島 孝良・長谷川琢哉)   【今回はインタビュー①を掲載、①・②・④の各回コチラから】 飯島  今、吉永先生や岡田正彦先生(天理大学教授)、あるいは大谷栄一先生がされている近代仏教研究というものと、大正から昭和にかけて京大の宗教学でされている哲学的な仏教研究は、どちらもある種の近代性を帯びながら発展してきたわけですよね。両者は重なるようで違う方が強いようにも感じるんですが、如何でしょうか。 吉永  仏教史の中で京都学派を考えてみるって面白いと思うんです。  例えば、西田幾多郎(1870~1945)と仏教との関係を考えるとき、単純に禅で得た経験を言語化したとか、理論化したというのは単純すぎるとは思います。西田は哲学として確立しようとしてたのですから、まずは切り離して考えるべきだと思うんです。ただ、日本における「哲学」は、井上円了(1858~1919)によって仏教擁護論に用いられるなどしますし、思想的にも井上哲次郎らが提唱していた「現象即実在論」は『大乗起信論』の影響もあるといいますよね。ですから、西田が哲学を考える際の前提には仏教の影響があったのではないかというのが一点、そして大正時代以降、西田哲学は求道的な若者に受容されます。一種の代替宗教的な、今でいえばスピリチュアルな場なのでしょうが、そういう前後の文脈を考えてみたらどうかということです。  そう考えることは、決して西田の思想にある普遍性が損なわれることではないんですが、ただ、西田が言いたかったことを考えるとき、そうした近代仏教の思想史や社会史的なところにもう一回落としてみると、実は見え方が違うんじゃないか――そういうことです。  少し話が飛躍してしまいますが、突き詰めて考えてみると、厳密な意味で、哲学、道徳、宗教、あるいは政治というカテゴリー分けができるのかという疑問があります。ジェイムズは『宗教的経験の諸相』の冒頭で、「宗教」をかなり苦心して定義しているのです。その苦闘を読むと、そもそも定義は無理ではないかと思います。なにしろ、われわれの生(life)は切り分けられない連続だと彼は主張しているのですから。カテゴリーは後知恵にすぎない。さまざまな融合や結合が出てくるのは当たり前であると考えて、西田幾多郞や鈴木大拙を考えてみることもできると思うんですね。  簡単に言えば、「宗教」というカテゴリーを一回疑ってみたうえで、もっと流動的なものとして考えてみようという気持ちはあります。「宗教」ということばにもちろんこだわるんだけれども、ただそれを原理主義的に狭く使うのではなくて、もうちょっと弾力的に用いて、カテゴリー間の往来や思想の往還のようなものを見ていこうという気はするんですね。 飯島  そういう弾力性を前提にして、さまざまな側面から近代の仏教を捉えていくというのは、共通認識になりそうでまだなりきってないようにも感じますね。 吉永  共通認識になるのは難しいと思う。具体的にいえば、近代仏教だとしても、やはり宗門の近代史が中心になりますし、またそこから学ぶことは多いのですが、宗門だけで語っていると、近代史のダイナミックさが見えにくくなるのだとも思います。ただ、近代仏教史研究は、研究者の側も、僕のような外道も含めて、色々なディシプリンの人間が入り込んでいます。単に共通点は近代というだけですから。ですので、さまざまな議論ができるという強みがありますね。 飯島  逆に、近代仏教研究に足りないなとか、もっとやったらいいじゃないかと感じる部分はありますか。 吉永 ひとつは、近代仏教をやる人は、英語、フランス語、ドイツ語、何でもいいですけれども、よその国の近代仏教研究ともう少し対話していってほしいなというのはありますよね。これからは、やはり中国だろうなと思いますね。中国の近代仏教研究は、ようやく吉田久一前夜ぐらいまできていると思います。坂井田夕起子さん(愛知大学国際問題研究所客員研究員)が、このごろ太虚(1890~1947)の研究会が立ち上がったと書いておられて、ああいう東アジアのネットワークがもうちょっと広がったらいいと思います。  もうひとつは、新宗教と近代仏教の垣根をどうやって突破するか。真如苑や創価学会が、研究分野では宗教社会学になるわけですけれども、近代仏教史の方から見たらどうかと思うんですよね。 長谷川  なるほど。確かにそこにはちょっと線があるんですかね。 吉永  仏教思想の近代における展開といった視点で、伝統との連続性に留意しながら新宗教史を見直してみたらどうかという気もするんです。 飯島  宗派という観点でいうと、近代仏教史研究会の研究発表などで多いのは、やはり浄土真宗です。浄土宗や日蓮宗も多いですね。僕にとっては意外なんですけれども、禅は近代仏教研究で携わる方がいらっしゃらないんですよね。 吉永  日蓮宗については、日蓮主義の研究は盛んなのですが、近代日蓮宗はどうだったのか、となるとどうでしょうね。教学の近代化はどうなっていたのかとか、あるいは修法師のように祈祷の近代化はどうなっていたのかとか。ただ、禅宗となると、ほんとよく分からない。例えば、曹洞宗の近代化とは何だったのか、明らかになってほしい。忽滑谷快天(1867~1934)と原田祖岳(1871~1961)の「正信論争」のようなものは、すごく大きな運動だったはずなのに、すべて教団の中の話だということで結論づけられてしまっている。清沢満之(1863~1903)の場合ならば、宗門改革の運動が最終的にはかなりの広がりをもつ思想運動にまで展開するわけですね。そうした思想運動にまで広がらなかったのはどうしてなのかというのは、確かにありますね。  さらに言えば、臨済宗全体の展開に関しても、色々なところが判然としない。特に臨済宗は釈宗演(1860~1919)のようなスターが出て、そのスターの話だけで終わっちゃうんですよね。ただ、禅宗の近代は、曹洞、臨済を問わず、老師とその帰依者による宗門内の半ば独立的な組織が、宗門全体の生命力を支えていたとは言えるので、そうしたスター研究の裾野を広げるという必要もあると思います。 飯島  臨済宗の場合は、例えば、今北洪川(1816~1892)や釈宗演が居士林という形で、居士にどんどん開いていく動きが特徴的ですよね。それに関連しては、レベッカ・メンデルソンさん(デューク大学大学院)が研究されているような興禅護国会の流れが、現在の白山道場へつながっていく。そういう居士にどんどん開いていくというムーブメントが、円覚寺派という一宗派に限定したものだったのか、あるいは臨済宗全体が教団としてどう考えていたのか、そこを明らかにしていかねばならないですよね。 吉永  曹洞宗の方でもうひとつ気がついたことは、学林の伝統が強いのかなという印象です。もともと学問の自立性というのは、曹洞宗は高かったのかもしれない。逆にいうと、それが宗門の教学にどこまでフィードバックできたのかという問題もありますよね。だから、曹洞宗は宗教学や仏教学に非常に大きな足跡を残しているけれども、それが在家教化にとってどうだったのか。大内青巒(1845~1918)の編集した修証義は見事なものだと思うのですが、それ以外に何があったのかよく分からない。あれだけの組織が現代まで維持されてきたわけなので、今後研究されていくべきだろうと思います(このインタビュー後、武井謙吾くんという若手の研究者から近代曹洞宗における授戒会の研究発表を聞きましたが、やはり儀礼を含めて身体から見る近代仏教史の研究は進められるべきかなと思いました)。 飯島  先ほど吉永先生がご指摘くださった海外進出や海外交流という点で言えば、禅では、鈴木大拙などをキックボードにして、まったく個の体験に還元していく。それが多くの混交を重ねて、欧米圏でまったく独特のものになるわけですよね。その中で面白いのは、弟子丸泰仙(1914~1982)がどんどんヨーロッパへ進出して、澤木興道(1880~1965)から弟子丸泰仙という法系がヨーロッパを席巻して道場も多くできていく。今、そうしたヨーロッパで独特に展開した道場を曹洞宗の本流に紐づけていく動きも出てきて、曹洞宗はフランスに設けたヨーロッパ国際布教総監部が盛んに活動しているようです。  しかし、龍沢寺(静岡県三島市)の中川球童(死活庵/1927~2007)が米国やイスラエルで布教したことは、臨済宗ではむしろ例外的なような印象さえあります。だから、欧米の方々がイメージするZENは、長らく「D・T・スズキの教えに近いことを実践すること」というものだった印象が強い。ビートニク世代が受容したような仕方が、そのままどんどん拡散していって、宗派でもないような独特なZENが発展しているというのは、面白い現象だと思うんですよね。 吉永  そうですね、やはり臨済宗は釈宗演の系譜に接する人びとがみな面白いですよね。特に佐々木指月(1882~1945)が面白い。誰か本気で研究してほしい。あれはすごいです。 長谷川 2018年3月に開催した清沢満之研究交流会では、思想を歴史的にもう一回問い直すことが趣旨だったのですが、あまりかみ合わなかったんですよね。私がその企画をしたのは、「吉田久一に代表される戦後の近代仏教研究というものをもう一度相対化して、思想史的な研究をしたい」と言いました。それを吉永先生の表現をお借りして言えば、「大きな物語」や「イデオロギー」といったすごく明確な価値基準がかつてはあったわけですよね。例えば、国家と宗教とはそれぞれ個別の問題として分けるべきで、そのうえで「清沢の精神主義は○○という部分があったからいい」「▽▽以外は駄目だ」というような形で位置づけていた。けれども、その価値観だけではもう見られなくなってきている。井上円了も、それだともうまったく見られなくなりますよね。  その上でどうするのかを考えると、吉永先生がおっしゃるように、「もう一回史料に戻ってさまざまな関係性を見たりしていくことをやらざるを得ない」ということまでは言いました。その後に、星野靖二さん(國學院大學准教授)が「その上で改めて、歴史をもう一回描くとすると、どういうように書けるのか。例えば、近代仏教史というものを書くときにどう書けるのか」というご指摘をされたんですよね。こうした点を、吉永先生はどのようにお考えになりますか。 吉永  ひとつは、僕は学問に対する信頼があるので、はじめはすべてが少し混沌としていても、次の時代にはまた何かしら「物語」が必ず出てくるはずなので、気にはしてないんです。では自分が何を考えているのか。大きな物語を提案することはできないのですが、自分にとっての近代を見ていく上での、現在のこだわりというと、やはり、「身体からみる宗教史」というものですね。先ほど「術」のことを言いましたが、もう少し個別に言えば、その「術」というのは霊術や精神療法、あるいは修養ですよ。  近現代だと「身体」と「頭」というのは、完璧に分離されたものと捉えられていて、「身体」はブラックボックスだと言われてきた。そうではなくて、身体を使う作法とか、作法から出てくる何かしらの知恵とか、そういう視点から見ることはできないのかという気はしています。そのときの「身体」というのは、もちろん「心」も含んで考えているし、その前提となる仏教のイデオロギーやアイデアも踏まえているものです。そういう「身体」というものは、「頭」と常に相補的にあったと思いますね。そういうものの歴史を描くことで、例えば国家と宗教的なイデオロギーの混交というような、今まででは整理がつかなかったさまざまなことの整理がつくように思ってはいるんですけれどもね。 長谷川  ミシェル・フーコー(Michel...
report12_12_01
Interview 第22回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」②
Interview 第22回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」② 龍谷大学世界仏教センター客員研究員 吉永 進一 (YOSHINAGA Shin’ichi) Introduction  現在、近代仏教研究という分野に多くの研究者が携わり、歴史学・宗教哲学・社会学・政治学などさまざまな領域を巻き込みながら展開している。その展開は海外の研究者との積極的な交流も伴うものであり、非常に興味深い動きをみせてきている。そのさまざまな運動の淵源をたずねるとき、我々は吉永進一氏の大きな存在感に気づかされる。吉永氏の魅力と求心力の原点がいかなるものなのか、是非うかがってみたい――そうした素朴な関心を胸に、我々は吉永氏の御自宅をお訪ねした。  吉永氏には、戦後日本の高度経済成長を向こうに置いて「不思議なるもの」への志向を強めた学生時代に端を発し、ウィリアム・ジェイムズから受容した「生(life)」への問い、西田幾多郎の哲学を近代における仏教の変容として捉える可能性、鈴木大拙が今なお世界中の知識人に示しつづける主体的問題とその独自性など、数多くの問題について語って頂いた。 実に多岐にわたる内容となったため、このインタビューを前後編に分けてお届けする。 (飯島 孝良・長谷川琢哉)   【今回はインタビュー②を掲載、①・③・④の各回コチラから】 吉永  オカルト研究をしていてかなり昔から興味をもったのは、日本には西洋からのスピリチュアリズムとか神智学とかが入ってないのかということなんですよね。海外にはすでにいくつか研究があったので、では日本の研究をするのはどうだろうか、と。そこで、スピリチュアリズム、それから病気治しの精神療法というか霊術の研究をやりました。ジェイムズがそういう病気治しも好きだったこともあるし、井村宏次さん(鍼灸師・超心理研究家)が1980年頃に霊術の研究をはじめたこともあって、そのときに協力したこともありました。  そのうちわかってきたことは、霊術・精神療法が大正時代に非常に流行したことです。ただ、当時は国会図書館のデジタルコレクションも使えなかったので、明治から大正ぐらいの霊に関する変な本を古本即売会で買い込んだりしました。現在では近デジでかなりのことがわかるのですが、古本屋で本を買っていると、同じ霊という言葉を使うにしても、仏教系、キリスト教系、スピリチュアリズム系や霊術・精神療法系、これらはそれぞれ「霊」という言葉の意味する範囲が微妙に異なっていたこともわかりました。  もうひとつは、1970年代後半、編集者の武田崇元(洋一)さんが『地球ロマン』とか『迷宮』という雑誌を出していたことです。去年あたりになってようやく偽史の研究などが話題になっていましたけれども、武田さんはもう30年、40年前にそうした雑誌でやっていたんですね。日本の古いものであっても、ちゃんとこちらが書誌的にしっかり詰めていけば、何ら怪しげな話ではなく学問たり得ると考えていました。  それで、精神療法家の松本道別という人物がいるのですが、彼の本をざっと読んでいたら、オーラのことが書いてあったんです。その出典が『瑞派仏教学』というとても面白い題名の本からだった。そこでどこかに置いてないかと調べたら、龍谷大学の大宮図書館になったのです。現物を見てみたら、「瑞派」の瑞というのはエマヌエル・スウェーデンボルグ(Emanuel...

アーカイブ