親鸞仏教センター

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The Center for Shin Buddhist Studies

― 「現代に生きる人々」と対話するために ―

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「として」の覚悟――大乗仏教を信仰すること

浄土宗総合研究所研究員

石田 一裕

(ISHIDA Kazuhiro)

 経典は読誦の対象であり、読解の対象でもある点で、読み物である。

 読誦のときの経典は譜面だ。手に取った経本に記される経文を目で追いながら、声を出して一文字一文字を読み上げていく。その声は仏への祈りであり、儀礼を成り立たせる大切な要素となる。読誦は仏への真心によって成立する一つの行である。

 一方、読解はそうではない。それは疑念や迷いをともなう答え探しだ。一人の仏教徒として仏の説いた教えの海に飛び込むと、底の見えない深さに不安を覚え、果ての見えない広さに自分がどこにいるのかさえ分からなくなる。しかし、そこに真実があると確信して飛び込んだ以上、自身の疑いをはらすべく、もがきながら、迷いながら教えの海を進んでいくしかない。

 私が最もよく読む『無量寿経』には、小さな升であっても極めて長い年月をかければ、大海を汲み尽くし、底にある財宝を手に入れることができると説かれている。仏の真の智慧を求めて、日々この水を汲み上げるのが仏道実践であり、経典の読解もその一つである。

 たいそうなことをいっておきながら、インド仏教、その中でもアビダルマという分野を専門とする私が、このような経典読解を仏道実践として認識したのは、近年のことである。日々の研究はインド仏教史の一端を明らかにすることを目的とした営みであり、その視座においては大乗経典もまた一つの資料にすぎない。現在の仏教研究の最前線である大乗仏教の起源の解明は、個々の経典の成立を課題として研究が進められている。経典の成立が課題になるのは、当然、それが歴史的ブッダの金口の直説ではないことが前提になっているからである。

 仏教研究者は聖典を一つの文献として扱い、その成立過程を議論し、経典そのものをそこに説かれるブッダと切り離して、大乗経典が仏説であるという信仰を排した態度で自身の研究に臨む。このような研究によって、インドにおける仏教の歴史が明らかにされ、個々の経典が成立した思想背景が浮かび上がりつつある。しかし、仏教研究において研究者が完全に信仰を排しているかといえば、それは否である。研究の手法においては主観的要素が入らないよう注意深くなるが、そもそもの研究対象の選定には自身の信仰が大きく影響を与えている。

 インド仏教研究を概観すると『無量寿経』や『阿弥陀経』といった浄土経典や『法華経』の研究が盛んであり、近年ではインド後期密教の研究が進んでいることがわかる。これは偶然ではない。というのは、日本の仏教では浄土宗や浄土真宗の浄土教系の寺院が多数あり、天台宗をはじめとした『法華経』への信仰は今でも力強く続いている。密教は真言宗という形で継承され、様々な儀礼や真言は文献上の記述としてだけではなく、生きた宗教として実践されている。研究者はこのような自身の信仰から逃れることはできない。それが自身の研究テーマの選択に影響を与え、客観的研究を推し進める原動力になっていくのであろう。その意味で、仏教研究に信仰が果たす役割は大きい。

 それでは、純粋に信仰の対象として経典を読誦する現場では、仏教研究の成果がどのような影響を与えているだろうか。

 私は、昨年、大乗非仏説をテーマとした講習会の講師を依頼された。その打ち合わせの席で、大乗仏教が仏説でないにも関わらず、私たちがそれを信じることの意味について話して欲しいという要望を聞いた。このような、大乗非仏説に対する困惑は、僧侶の養成に携わる中でも見ることができる。小さい頃から読んできたお経が、学問的には仏様が説いていないと知って、ショックを受ける者がいるのである。

 ここには「ブッダが説いたからこそ経典には信じる価値がある」という理解がある。テーラワーダの出家者であれば、この主張を全面的に受け入れ、パーリ語で伝承された経典こそが、あるいはそれのみが、ブッダの直説であると断言するであろう。

 ところが、日本の僧侶の中にはそのような断言をできない者がいる。これは、大乗非仏説という一つの研究成果が信仰に与えた影響といえよう。それゆえ大乗非仏説に対する僧侶としての見解が求められるのだ。この状況は『アンジャリ』本誌第41号(「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」)で大谷由香が指摘した事実、すなわち仏典を当事者として受け止め、覚悟をもって仏典の世界を生きることが、現代の僧侶にとって困難な可能性があることを示している。

 仏典の世界を生きるために必要なこと、言い換えれば大乗非仏説という学説を乗り越えるためには、大乗を仏説として受け止め、その世界を生きる覚悟が必要である。その覚悟はあらゆる経典をブッダの直説として受け止めることであり、またそのようにして仏道を歩んだ先達の学説を指針にするとき、二千年以上の間、仏教徒が生きてきた広大な地平が開けてくる。私はこの「として」を選び取ったときにこそ、現代の仏教者が信仰の世界に生きることが可能になると思っている。そこを生きると決めるのは自分自身だ。そして、その選択をしながら生きている中で、その決定そのものが仏の導きであったとわかるのであろう。

 仏説だから経典を信じるのではなく、私が信じたとき、そこに仏説としての価値が生まれるという私の解釈を、逆説的に感じる人もいるだろう。しかし、それこそが、大乗仏教が間違いなく仏説であるという確信を生むと私は考えている。

 いつでも、誰にでも、ブッダが説いた経典の世界は開かれている。信仰の世界を生きるかどうかを決めるボールは私たちに預けられている。

(いしだ かずひろ浄土宗総合研究所研究員)

 著者に『お坊さんはなぜお経を読む?』(浄土宗出版)。他論文多数。

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