親鸞仏教センター嘱託研究員
菊池 弘宣
(KIKUCHI Hironobu)
新型コロナウイルスの問題に直面して、二年という年月を経てきた。私自身、コロナ以前のことを振り返るのがつらくなっている。もはや、以前のようには戻れないと感じるようになったからである。失われてきたものの大きさに、ようやく気づかされることになってきたからである。
自粛下、様々なものがストップし、いわゆる「欲望の体系」、および自身の欲求が遮断されていく状況の中、日夜あてどなく歩き回ることを繰り返した。その折にふと、「この問題は結局、自分自身が本当にどのように生きていきたいのか、本当にどう成りたいのかがわからない、何も浮かばない、そういう根源的な虚無感・ニヒリズムを突き付けてくる問題なのではないか。それが、政治・経済・医療等、対策の問題にすり替わったまま、顕在化することがない。そのことが、現代における根深い問題なのではないか。宗教に関わるものにとって危機的な問題なのではないか」と、そのような思いが心をよぎった。
大学生の頃、1990年代の半ば、梶井基次郎の小説『蒼穹』にある一節、「なんという虚無!」という言葉に惹かれていたことを思い出す。今の世の中は、それを口に出せないほど閉塞感で覆われている。むなしさを感覚し、それをキャッチするスペースすらないように思われる。それほどに、合理性で埋め尽くし、抑圧しきって生活しているのではないかと、心苦しく思っている。
昨今は、人の抱える苦悩が見えにくくなっている。苦悩それ自体がわからなくなっている時代であるような気がしている。極端な事例になるが、無差別殺傷事件が起こり、その動機に自殺願望がある場合、当人は、自暴自棄になって苦しんでいるという根本的な問題を抱えているのだと思う。今の時代、自分が苦しんでいても、一体何に苦しんでいるのかわからないまま、それを放置するよりすべがないように感じる。あるいは、自分が苦しんでいるということすらわからずに、抱えているものを誰にも打ち明けることもないまま、取り返しのつかないことを起こしてしまうという出来事が、起こり続けているように思う。
しかし、そうかといって、それぞれの存在が抱えているやっかいな重さを、吐き出せばそれでよいものなのだろうか。直接的であれ間接的であれ、相手にぶつけるというだけでは、解けずに残ってしまう問題もあるように思われる。
清沢満之に象徴される、明治期の煩悶する青年の問題を捉えた言葉に、「近代的自我」というものがある。それは、西洋の合理主義と日本における伝統的なもの、前時代的な封建的なものとの間に挟まれ、自己について考え、苦悩する姿を指すという。この問題は決して、明治期に限った一時的な問題ではないように思う。令和の時代にあっても、それを単に「古くさい」、「時代錯誤」という言葉で切り捨て、片付けられるものではない。それぐらい今でも、種姓観念、家系・血統という問題は、やっかいな重さ、深さを宿しているものだと感じている。寺の後を継ぐという問題などは典型的である。現代社会における課題とのギャップが、より深い苦悩になるということもあると言えるのである。
「反出生主義」という問題がある。それについて、「生まれてくること、及び産むことを否定する思想」という定義理解があり、私自身、「生まれる苦痛と生み出す害悪」というように簡易的に了解している。私は、「こんなことならば生まれてこなければよかった」と呻いたことのある人間だが、「反出生主義」という思想には、違和感を抱いている。というのも、理屈ではない。かつて聞いた、「私は生まれようと願って生まれてきたのだ」という言葉に深く共鳴しているからである。
後から思いを致せば、それは、中国の浄土教の祖師、善導大師の「両重因縁」の教え、すなわち仏教の生命理解に淵源がある。
すでに身を受けんと欲するに、自の業識を以って内因と為し、父母の精血を以って外縁と為す。因縁和合するがゆえにこの身あり。
(『観経四帖疏』:『真宗聖教全書』巻一、490頁)
その「業識」とは、「結生識」と言われ、「生まれようとする時のこころ」であると、昔、教えていただいた。つまり、現にこの身があるという事実を押さえて、生まれてくる縁は父母であるが、生まれてくる根本的な原因は自らの内にあるのだ、と。私はその一点を疎外せずに、尊重したいのである。
注目すべきは、「業」という思想である。「業」とは、「意思に基づく行為」であると理解している。またそれは、私自身の背景にある歴史性、社会性、すべてを担って現れてくるものだと受けとめている。実感しているのは、人が業を積み重ねれば積み重ねるほど、私が生きれば生きるほどに、縁あるものたちと隔たっていくということである。どうしてもすれ違っていってしまう。いつしか、自分自身とも不調和になっている。そういう本質的に孤独とむなしさを抱えざるを得ない悲しい生きもの、それを仏教は「凡夫」、すなわち「異生」という言葉で言い当ててきているのだろう。と同時に、「業」とは、意思をもって自己形成する。私が私自身に成っていく。そういう厳粛な確固たる事実を教え示してきているものだと、受け取っている。
聖人のつねのおおせには、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」
(『歎異抄』後序:東本願寺出版『真宗聖典』、640頁)
自己中心的に善と悪とを分別思量する心をたのみ、孤独とむなしさを免れることのできないものに、阿弥陀如来は、真実の居場所と因・「願い」を与えてたすけ遂げると、親鸞聖人は、ご自分の身に引き当てながら語りかけてきてくださる。そういう慈悲ある言葉に、抱える苦悩を射抜かれて、私は浄土真宗という仏道の教えを求めずにはいられないのである。
さればよきことも、あしきことも、業報にさしまかせて、ひとえに本願をたのみまいらすればこそ、他力にてはそうらえ。
(『歎異抄』十三章:東本願寺出版『真宗聖典』、634頁)
私にとってよいことも悪いことも、丸ごとすべてひっくるめて、私の存在全体を、「摂め取って捨てない」と誓う如来の心にまっすぐ順う。自身の内には、如来の心に背くもの、事実を引き受けられない心があることを深く自覚して、本願の核心をたずね、私自身と現実の世界とに本当に責任を取っていくものに成ることが、私自身に与えていただいた「願い」であると思うのである。
(きくち ひろのぶ・親鸞仏教センター嘱託研究員)