小説家
乗代 雄介
(NORISHIRO Yusuke)
専業の小説家として暮らしている。中学1年の時から書くことを始めて、29の年にデビューして、今は36。だんだん書き方も変わってきて、小説のほとんどを外で考え、外で書くようになった。
10代の頃、小説家の生活とはどんなものかと考えることがあったけれど、当時の自分が今の自分を見たら、多少なりとも混乱するだろうと思う。彼の考える小説家とは、彼が毎日せっせと誰に見せるでもなく実践しているように、机に座ってじっと考えながら手を動かすものだからだ。
どんな小説も文字が増えていった結果として完成するもので、例外はない。どこから書くにせよ、後から減るにせよ、とにかく書き進めるわけだ。迷った時は、読んだ本とか見た映画とか友人の話とかにヒントを得て、新たな道が拓けることがある。つまり、書いている小説世界というのがあって、そこに現実から引っ張ってきた何かを投入することで活路を見出すのだ。しかし、その何かをそのまま使えることはほとんどない。既にできかけている小説世界に合わせて、形が変えられることになる。
例えば、現実の友人と喫茶店で話している時、友人がコーヒーをこぼしたとする。そのあわてぶりに興をそそられた作家は、小説の登場人物2人が喫茶店で話す場面で同じことを起こそうと思い立つ。コーラが好きな人物設定だったから、コーヒーではなくコーラをこぼすことにしよう。登場人物は黒っぽい服を着ていたけど、目立たないから変えて、白だとやりすぎだから水色ぐらいにして。それで、そのあわてぶりを見て、相手に幻滅することにしよう。
全ての小説は、意識するかしないかは問わず、大なり小なりそういうことのくり返しで書かれていると言ってもよい。ただ、それに気付いた時、つまりは自分が現実世界から得たものを色々な事情で都合よく変えて小説世界に配置していると自覚した時、私は自分の小賢しさがいやになってしまったのだった。
私の場合、もともと1人で外を歩き回るのが好きだから、風景がきっかけになって小説が書き進められることが多いが、そこでどう書くかというのは問題だった。というのも、風景の素晴らしさを再現するために、何があって何がいてと言葉を尽くすほどに、言葉の上での美しさは目減りしていくのである。間を取り持つ比喩を駆使してそれらしく書けば人は美しい風景と認識しないこともないだろうが、書いている私には生気を抜いて飾るようでくだらない。そう思っているくせに、クイナの仲間のオオバンがいる池の風景を思い出しながら書く際、ほとんどの人は知らないしいちいち説明すると興をそぐから「鴨」と書くことで趣ありげに流してしまったりするから、いやになった。
私は何のために小説を書いているのだろう? 人にそれらしく読んでもらって褒めてもらうためか? だとしたら、ひたすら自分のために書いていた10代の私に合わせる顔がないではないか。
そんな自問自答の中でいつも、妙好人と呼ばれる人々を思い浮かべた。ここで書くのも釈迦に説法だが、浄土教とくに真宗の他力思想に感化されて出た、多くは無学で社会的地位も高くないが、蓮華のように美しく篤い信仰をもった在家信者のことである。私はサリンジャーの影響で割に早く禅に興味があったところから仏教について気まぐれな独学を続け、もう10年も辞書を引き引き『五灯会元』をじりじり読んでほぼ忘れながらそれでいいと思っているぐらいの人間だが、それはともかく鈴木大拙は、島根県石見国の漁村で下駄職人をしていた浅原才市という妙好人に関心を寄せ、くり返し書いている。『妙好人』(法藏館)から、才市が乏しい文字で書き残した〈口あい〉と称するものを孫引きする。
このさいちわ、まことに、あくにんで、ありまして、
くちのはばが、二寸のはばで、をそをゆて、
ひとをだますと、をもをてをりましたが、
それでわのをおて、
わたしは、まことに、あくにんでありまして、
せかいのよをな、をけな、くちをもつてせかいのひとを、だましてをります。
わたしや、せかいに、あまうたあくにんであります。
あさまし、あさまし、あさまし、あさまし、
あさまし、あさまし、あさまし、あさまし。
現実世界を都合よく小説世界の鋳型に押し込んでいた私は、「二寸のはば」で「噓を言って」小賢しいと自分を嫌悪していたが、実際はもっと大きな悪なのかも知れない。「世界のような大きな口で世界の人をだましている」という才市の告白と反省に憧れたのかも知れない。かも知れない、かも知れないと書くのは、10年ほど前に『妙好人』を熱心に読んでいた時は、この箇所を敢えて意識した覚えがないからだ。今、この文章を書くために読み直して気付いたようなことである。
一方で、その時からはっきり意識していた箇所もある。私が小説に絡んで妙好人を思い浮かべる時はいつも、次の才市の言葉と、それに続く大拙の記述がついてきた。
ありがたいな、ごをん、をもゑば、みなごをん。
「これ、さいち、なにがごをんか。」
「へゑ、ごをんがありますよ。
このさいちも、ごをんで、できました。
きものも、ごをんで、できました。
たべものも、ごをんで、できました。
あしにはく、はきものも、ごをんで、できました。
そのほか、せかいにあるもの、みなごをんで、できました。
ちやわん、はしまでも、ごをんで、できました。
ひきばまでも、ごをんで、できました。
ことごとくみな、なむあみだぶつで、ござります。
ごをん、うれしや、なむあみだぶつ。」
「あさましや、あさましや」が、これほどまでに「ごおん」につつまれてしまうということは、人間の一生において容易ならぬ転換を意味するものである。
これが自分らのように、いくらかの学問もしたり思索をしたものなら、前掲のごときは、何としてでも、作り出されないこともない。自分らは、理性とか、知性とかいうもので、外から自分を見ることを学んだ、それで、自分を欺き、他を欺くの術を知っている。心の内に何もないことを、まことしやかに、さも実際に感じたかのように、饒舌(しゃべ)りもし、また書きもする。それが才市の場合になると、何事も体験そのものの中から涌いて出るのである。
小説を書き進めるためでなく、何のために小説を書くのか考えるために、今も励ましや戒めになっていることだ。また読んで、私も「世界のような大きな口で世界の人をだま」すのをやめて、「世界にあるもの、みな」を「噓」でなく、自分や他を欺く術を使わずに書きたいと改めて思う。無論、書き言葉と話し言葉のあわいに居られた才市とはちがうから、いくらかの学問や思索を根こそぎ振り払うことなど不可能なのは10年前から承知していた。でもいつからか、せめて「何事も体験そのものの中から湧いて出る」ように書く努力をしようと考えるようになっていた。
見当違いの努力なのかも知れないが、最近の私は、小説を外で考え、外で書いている。各地を歩き、風景や今昔の人間の営みに触れ、興味深い場所を見初めると、なるべく近くの宿に何泊かして、日夜そこに通う。危険がなければ未明にも行ってみる。手持ちのノートに文章で描写をして回り、動植物を把握し、図書館で土地の歴史を、縁のある人物を調べる。時を置いて、季節が変わるごとにまた同じことをする。季節が一回りし合わせて20泊ぐらいした頃には、小説が形をとっている。
場所、景色、天気、落ちている空き瓶まで、私がしかと見聞きしたものだけを小説世界に持ち込むと決めている。意識の届く範囲では、時や色や形さえ都合よく変えることもしない。唯一の例外は人間で、これは人間の出ない小説を書く術のない今の私にはどうすることもできないが、登場人物にも私のルールに従ってもらうことで事なきを得たつもりでいる。
そうと決めたら、小説が行き詰まるような時も間を埋めるようなことは書けないから、書き進めるきっかけに当たるまでひたすら待つしかない。ちょっと変えれば使えそうなことがあっても我慢しなければならない。1本のクヌギの枝にさえずるヤマガラを見たとして、それを登場人物がいるところのコナラの枝に移して視線を上にやりたくなるのだが、そのヤマガラは「ごおん」でできたものではない気がする。そんなことでは「へゑ、ごをんがありますよ」と答えられない気がする。私は、巷で言われる「自分で書くというよりも、小説に書かされている感覚」みたいな謙遜風のおためごかしでなく、才市のように平然と嘘偽りなく「この小説も、ごおんで、できました」の他力を口にしたいのだ。そのために、自分でなく世界に小説を書いてもらう方法を探している。しつこく待って、たまさか小説が書き進められるようなものに当たると、本当に「ごおん」に包まれる思いがする。
それでもふと、こんな手間をかけて何の意味があるのかと自問しないでもないし、苦労を望んでして何か得ようとするのはむしろ自力の考え方なのではないかと思うこともある。悩みは尽きないけれど、八万四千の煩悩をそのままに進む浅原才市の信仰のあり方が、いつも私を駆り立ててくれた。一生辿り着かないのではないかと思わされるこんな一首を、遠いどこかをさす道しるべとして。
さいちよい、へ、たりきをきかせんかい。へ、たりき、じりきはありません。ただいただくばかり。
(のりしろ ゆうすけ・小説家)
著書に、『旅する練習』(講談社、2021)など。