小さな冊子で世界へ漕ぎ出した大きな乗り物

伊藤 真 ITO Makoto

 筆者の前回の「今との出会い」(第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」)に引き続き、またネットオークションの話題で恐縮だが、またまた出会ってしまったのでおつき合いいただければと思う。ただし、今回は古切手ではなく古書である。

 今回¥1,000という値段で購入したのは、文庫本よりひと回りほど大きいが手頃なサイズで、前書きを入れてわずか35ページの薄っぺらな英文小冊子。画像のとおり、蓮(だろうか?)をあしらった(日焼けと経年劣化の見られる)薄青緑色の表紙に、『大乘佛教大意』と右から左へと横書きの旧字体の和文タイトルがある下に、いかにもエキゾチックさを狙ったような古風な英字フォントで “OUTLINES OF THE MAHÂYÂNA AS TAUGHT BY BUDDHA.” とある(Âは今ならĀ。以下、引用では修正する。最後にピリオドが打ってあるのは当時の流儀だろう)。行によって異なるフォントや文字の大きさはチグハグな印象を与え、しかもBUDDHAの語は行の中央からちょっと左へズレてしまっている。なんだかイマイチな感じで、「こんなもんに¥1,000出すか⁈」と思われるかもしれないが、私にとってはそのイマイチっぽい見てくれも含めてなんだか愛おしい(古書として価値があるのか、私は知らない)。なぜならこのちっぽけな小冊子こそ、明治維新以降に仏教界を襲った荒波を乗り越え、さらに文字どおり太平洋の海原をも越えて、日本の仏教を大乗仏教の精華として——この際その主張の正否は別にして——初めて大々的に世界に訴えようとした仏教者たちの思いがこもった小品だからなのだ。




 ご存知のかたもおられるだろうが、これは1893(明治26)年にシカゴ万博に合わせて開催された「第1回万国宗教会議」(World’s Parliament of Religions) に日本の仏教の代表団(鈴木大拙の師でもあった臨済宗の釈宗演——その演説原稿は大拙が英訳した——や、

 ご存知のかたもおられるだろうが、これは1893(明治26)年にシカゴ万博に合わせて開催された「第1回万国宗教会議」(World’s Parliament of Religions) に日本の仏教の代表団(鈴木大拙の師でもあった臨済宗の釈宗演——その演説原稿は大拙が英訳した——や、浄土真宗本願寺派の八淵蟠龍ら)が参加したのに合わせ、和文原稿が英訳されて、はるばる米国へ運ばれて配布されたものだ(ほかにも清沢満之の『宗教哲学骸骨』や赤松連城の『真宗大意略説』などいくつかの英訳も配布された)。だが実は正確には、私の手元にある1冊は米国で配布されたものが日本へ里帰りしたのではないようだ。表紙をめくると鮮やかな朱色のスタンプが押してあり、中央に出版元の「佛教學會」の名称、周囲に「謝海外施本賛助之好意為紀念贈呈之」と漢文で書かれている。米国で施本として配布するために寄付を募って出版し、その賛助者への御礼の記念品として贈呈されたものらしい。今風に言えば、クラウドファンディングのリターン(お礼の品)のようなものである。

 さて、この小冊子の著者は“S. KURODA, Superintendent of Education of the Jōdo-Sect”とあるとおり、浄土宗学本校(大正大学、佛教大学の前身)で校長・学監を務めた学僧の黒田真洞(くろだ・しんとう。1855–1916年。 1912 [明治45]年に正僧正、没後に大僧正追贈)。だが、「天台、真言、臨済、曹洞、真宗の各学者らの精査を受け」 (carefully examined)、浄土宗学本校の英語教員らが英訳したと記され、「万博に関連してシカゴで開催される万国宗教会議の参加者らへの配布のため」とある。黒田師による浄土宗の解説や宣伝の書ではない。日本の仏教界をあげて、万国宗教会議で日本の仏教、東アジア仏教、大乗仏教を新たな時代にふさわしい世界宗教として訴えることを目的としたものだ。

 ではその「大乗仏教」の「大意」とはどういうものなのか? 本書は6章から成る(なお、下記に記す日本語の章題は、同年にあとから出版された日本語版『大乗仏教大意』に従った)。

緒言(Introductory Remarks)/第1章 施教綱領 (Principles of Buddha’s Teaching) /第2章 解脱涅槃 (Mokṣa and Nirvāṇa)/第3章 業報因果 (Action and Results, Cause and Effect)/第4章 染浄因縁 (Pure and Impure Causes and Conditions)/第5章 万法唯心 (All Things are Nothing but Mind)/第6章 宗派異同 (Sects in Buddhism)

 まず緒言では仏陀の生涯をごく簡潔に述べたのち、その教法はすべて「大乗と小乗」に包括され、どちらも等しく「一仏の教化」であり、「転迷開悟の法」であるが、「観苦得道の法」の「小乗」に対し、「観空得道の法」の「大乗の教義は徧く小乗の教法を包蔵」するという。このあたりには、南伝仏教こそが正当な「仏教」だと見ていた当時の西洋のトレンドに対し、大乗はその堕落でも異端でもなく、「小乗」の教えをも含む、より包括的な教えであることを訴える意図が見て取れる。

 続いて第1章では「無我」を中核的な仏説とするが、あくまでも「我」や「有空」への誤った執着を滅することが目的であり、「自己も魂も存在しない」ということを説く教条主義的な教理 (fixed dogma) ではないと言う(ここにも西洋のネガティブな大乗観に対する目配りを感じる)。そして第2章では自他、主客、正邪などの分別的な執着を乗り越えた完全に自由な状態こそ「解脱」だとし、心の真の性質 (true nature of mind) を顕現させた完全な永遠の楽 (perfect and everlasting happiness) を得ることが「涅槃」だと言う。また、「小乗」が「断滅」 (eternal extinction。日本語版では「寂」) をめざすのに対し、「涅槃」は「単なる断滅」でもないし、あらゆる人に開かれている大乗の「解脱」は「遠くに求むべきものではない」としている。

 第3章では因果(縁起)の理法が説かれ、仏教が近代的な理性や哲学的な吟味に堪えるものであることを訴えるかのようである。このためすべてを「一者」 (the “One”) に帰して諸法の自性は常住 (the nature of all things is permanent) とするもの、天地と万物の造物主 (creator) を説くもの、万法を四大で説明するものなど、(バラモン教、キリスト教、唯物論などを想定したと思われる)「異教」(heretics。日本語版では「異道」) の教理をすべて、因果の理法を理解しない断常二見として排斥している。その上で、第4章では、そうした因果の理法に従う行為の善悪・染浄を問い、声聞・独覚・菩薩の三乗が行う「解脱」へ至る行法を「出世間の善」と規定する。本来的に清浄で善悪の差別の相なき心の本性 (the true essence of mind) と調和する行為を実践すれば、諸仏と平等の果実を得られるとして、「心」に焦点が移っていく。(なお、「出世間の善」は今なら一般にsupramundane goodなどと訳すが、ここではecclesiastical goodとされいて、どこか時代がかった感じがする。このあたりには仏教用語の訳語も定まらない時代に英文を練り上げていったパイオニアたちの苦闘が窺える気がする)。

 そして第5章が本書のクライマックスだろうが、なかなかの難関だ。まず、何ものも実体性 (reality) や恒常的な自性 (constant nature of their own) を持たず、諸法皆空だとした上で、「万法は心の(生み出す)現象にすぎない」という唯心説を紹介し、八識説と阿頼耶識を説明する。そしてその心の本性を「不変の原理」 (unchanging principle) 、「真如(永遠のリアリティ)」 (bhūtatathatā , permanent reality) だとするのだ。しかも本性は海で、現象は波のようであると言われると、俄然『大乗起信論』や真如(如来藏)縁起の色彩を帯びてくる。確かに、「心の本性」を「真如」とする唯心論 (idealism) こそは、日本代表団の仏僧らが最も訴えたかった教説だと、日本仏教史などがご専門のジュディス・スノッドグラス博士は指摘する (Judith Snodgrass, Presenting Japanese Buddhism to the West, 2003)。

 しかし同時に、黒田師は「われわれは万法が合して心という心理的な統一体を成すとか (all things combine into a mental unity called mind)、万法がそれ(心)から流出する (all things are emanations from it) と言いたいわけではない」とも述べて、いわば「心」の実体視を排し、「万法の生起」は「われわれの心に負っている」 (owe their existence to our mind ) と、私たち自身の心に引きつけて語る。多少は唯識の専門用語なども出てくるが、大乗を「観空得道の法」と明言し、すべてを「一者」 (the “One” ) に帰する異教を批判してきた本書である。分別・差別のない、本来の清らかな心——それは「無量のはたらきやすばらしい行為 (innumerable functions and miraculous actions) の元」とされる——によって衆生や万物と関わることができれば、執着による苦しみの世界から「解脱」し、遠くに求めずとも「涅槃」を得られるという、とても地に足のついた、親しみやすい大乗仏教論だと感じられないだろうか。

 「われわれは、正しい見方 (true view) を保ち、万物の縁起に対する真の理解(comprehension of the causality of all things) に達しようではないか」と黒田師は言う。透徹した空観と『華厳経』(ただし、必ずしも華厳教学ではない)を思わせるシンプルな唯心論……ネットオークションで出会ったイマイチな見てくれの古びた小冊子を、誰にでも開かれたそんな教えこそ「仏教の大きな乗り物」であると、海を越えて世界に訴えかける、そんな小品として私は読んでみたいのである(なお、最後の第6章は日本の諸宗の概説のあと、聖浄二門はいずれも菩薩の初発心と本願の行を究竟する菩薩道であり、「平等の因からは平等な果が生まれ、その点で差別はない」のだと、ここでも因果の理を説いて論を結んでいる。注文があるとすれば、清新で前向きだが、煩悩ゆえに正見に達することのできない私たちの困難が論じられていないことだろう)。

2025年5月1日

浄土真宗本願寺派の八淵蟠龍ら)が参加したのに合わせ、和文原稿が英訳されて、はるばる米国へ運ばれて配布されたものだ(ほかにも清沢満之の『宗教哲学骸骨』や赤松連城の『真宗大意略説』などいくつかの英訳も配布された)。だが実は正確には、私の手元にある1冊は米国で配布されたものが日本へ里帰りしたのではないようだ。表紙をめくると鮮やかな朱色のスタンプが押してあり、中央に出版元の「佛教學會」の名称、周囲に「謝海外施本賛助之好意為紀念贈呈之」と漢文で書かれている。米国で施本として配布するために寄付を募って出版し、その賛助者への御礼の記念品として贈呈されたものらしい。今風に言えば、クラウドファンディングのリターン(お礼の品)のようなものである。

 さて、この小冊子の著者は“S. KURODA, Superintendent of Education of the Jōdo-Sect”とあるとおり、浄土宗学本校(大正大学、佛教大学の前身)で校長・学監を務めた学僧の黒田真洞(くろだ・しんとう。1855–1916年。 1912 [明治45]年に正僧正、没後に大僧正追贈)。だが、「天台、真言、臨済、曹洞、真宗の各学者らの精査を受け」 (carefully examined)、浄土宗学本校の英語教員らが英訳したと記され、「万博に関連してシカゴで開催される万国宗教会議の参加者らへの配布のため」とある。黒田師による浄土宗の解説や宣伝の書ではない。日本の仏教界をあげて、万国宗教会議で日本の仏教、東アジア仏教、大乗仏教を新たな時代にふさわしい世界宗教として訴えることを目的としたものだ。

 ではその「大乗仏教」の「大意」とはどういうものなのか? 本書は6章から成る(なお、下記に記す日本語の章題は、同年にあとから出版された日本語版『大乗仏教大意』に従った)。

緒言(Introductory Remarks)/第1章 施教綱領 (Principles of Buddha’s Teaching) /第2章 解脱涅槃 (Mokṣa and Nirvāṇa)/第3章 業報因果 (Action and Results, Cause and Effect)/第4章 染浄因縁 (Pure and Impure Causes and Conditions)/第5章 万法唯心 (All Things are Nothing but Mind)/第6章 宗派異同 (Sects in Buddhism)

 まず緒言では仏陀の生涯をごく簡潔に述べたのち、その教法はすべて「大乗と小乗」に包括され、どちらも等しく「一仏の教化」であり、「転迷開悟の法」であるが、「観苦得道の法」の「小乗」に対し、「観空得道の法」の「大乗の教義は徧く小乗の教法を包蔵」するという。このあたりには、南伝仏教こそが正当な「仏教」だと見ていた当時の西洋のトレンドに対し、大乗はその堕落でも異端でもなく、「小乗」の教えをも含む、より包括的な教えであることを訴える意図が見て取れる。

 続いて第1章では「無我」を中核的な仏説とするが、あくまでも「我」や「有空」への誤った執着を滅することが目的であり、「自己も魂も存在しない」ということを説く教条主義的な教理 (fixed dogma) ではないと言う(ここにも西洋のネガティブな大乗観に対する目配りを感じる)。そして第2章では自他、主客、正邪などの分別的な執着を乗り越えた完全に自由な状態こそ「解脱」だとし、心の真の性質 (true nature of mind) を顕現させた完全な永遠の楽 (perfect and everlasting happiness) を得ることが「涅槃」だと言う。また、「小乗」が「断滅」 (eternal extinction。日本語版では「寂」) をめざすのに対し、「涅槃」は「単なる断滅」でもないし、あらゆる人に開かれている大乗の「解脱」は「遠くに求むべきものではない」としている。

 第3章では因果(縁起)の理法が説かれ、仏教が近代的な理性や哲学的な吟味に堪えるものであることを訴えるかのようである。このためすべてを「一者」 (the “One”) に帰して諸法の自性は常住 (the nature of all things is permanent) とするもの、天地と万物の造物主 (creator) を説くもの、万法を四大で説明するものなど、(バラモン教、キリスト教、唯物論などを想定したと思われる)「異教」(heretics。日本語版では「異道」) の教理をすべて、因果の理法を理解しない断常二見として排斥している。その上で、第4章では、そうした因果の理法に従う行為の善悪・染浄を問い、声聞・独覚・菩薩の三乗が行う「解脱」へ至る行法を「出世間の善」と規定する。本来的に清浄で善悪の差別の相なき心の本性 (the true essence of mind) と調和する行為を実践すれば、諸仏と平等の果実を得られるとして、「心」に焦点が移っていく。(なお、「出世間の善」は今なら一般にsupramundane goodなどと訳すが、ここではecclesiastical goodとされいて、どこか時代がかった感じがする。このあたりには仏教用語の訳語も定まらない時代に英文を練り上げていったパイオニアたちの苦闘が窺える気がする)。

 そして第5章が本書のクライマックスだろうが、なかなかの難関だ。まず、何ものも実体性 (reality) や恒常的な自性 (constant nature of their own) を持たず、諸法皆空だとした上で、「万法は心の(生み出す)現象にすぎない」という唯心説を紹介し、八識説と阿頼耶識を説明する。そしてその心の本性を「不変の原理」 (unchanging principle) 、「真如(永遠のリアリティ)」 (bhūtatathatā , permanent reality) だとするのだ。しかも本性は海で、現象は波のようであると言われると、俄然『大乗起信論』や真如(如来藏)縁起の色彩を帯びてくる。確かに、「心の本性」を「真如」とする唯心論 (idealism) こそは、日本代表団の仏僧らが最も訴えたかった教説だと、日本仏教史などがご専門のジュディス・スノッドグラス博士は指摘する (Judith Snodgrass, Presenting Japanese Buddhism to the West, 2003)。

 しかし同時に、黒田師は「われわれは万法が合して心という心理的な統一体を成すとか (all things combine into a mental unity called mind)、万法がそれ(心)から流出する (all things are emanations from it) と言いたいわけではない」とも述べて、いわば「心」の実体視を排し、「万法の生起」は「われわれの心に負っている」 (owe their existence to our mind ) と、私たち自身の心に引きつけて語る。多少は唯識の専門用語なども出てくるが、大乗を「観空得道の法」と明言し、すべてを「一者」 (the “One” ) に帰する異教を批判してきた本書である。分別・差別のない、本来の清らかな心——それは「無量のはたらきやすばらしい行為 (innumerable functions and miraculous actions) の元」とされる——によって衆生や万物と関わることができれば、執着による苦しみの世界から「解脱」し、遠くに求めずとも「涅槃」を得られるという、とても地に足のついた、親しみやすい大乗仏教論だと感じられないだろうか。

 「われわれは、正しい見方 (true view) を保ち、万物の縁起に対する真の理解(comprehension of the causality of all things) に達しようではないか」と黒田師は言う。透徹した空観と『華厳経』(ただし、必ずしも華厳教学ではない)を思わせるシンプルな唯心論……ネットオークションで出会ったイマイチな見てくれの古びた小冊子を、誰にでも開かれたそんな教えこそ「仏教の大きな乗り物」であると、海を越えて世界に訴えかける、そんな小品として私は読んでみたいのである(なお、最後の第6章は日本の諸宗の概説のあと、聖浄二門はいずれも菩薩の初発心と本願の行を究竟する菩薩道であり、「平等の因からは平等な果が生まれ、その点で差別はない」のだと、ここでも因果の理を説いて論を結んでいる。注文があるとすれば、清新で前向きだが、煩悩ゆえに正見に達することのできない私たちの困難が論じられていないことだろう)。

2025年5月1日

※Outlines of the Mahāyāna as Taught by Buddha(『大乗仏教大意』)は、英語版も日本語版も所蔵する図書館は少ないが、英語版はオンデマンドの復刻版をネット書店で購入できる。日本語版は雑誌『宗教界』12巻4号(1916年)に再録されたものを国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。

伊藤 真 ITO Makoto

現在、親鸞仏教センター嘱託研究員
東洋大学・大正大学・立教大学・東京農業大学、各非常勤講師
東洋大学東洋学研究所客員研究員。

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うかつな編者と乗代雄介さんとの出会い

長谷川 琢哉 HASEGAWA TAKUYA 

 親鸞仏教センターに関わっていると、しばしば不思議な縁にめぐまれることがある。
 たとえば以前「今との出会い」のエッセイに書いた話だが、劇作家の嶽本あゆ美さんとの出会いはなんとも不思議なものだった。偶然私が入居したマンションの大家さんが嶽本さんの舞台を手伝っておられる方で、私の職場が親鸞仏教センターであることを知り、その時ちょうど公演が行われていた『彼の僧の娘』(大逆事件で処刑された高木顕明の娘を扱った演劇)を教えてくださったのだ。私はすぐにその舞台を見に行き、それを機に嶽本さんには『アンジャリ』にエッセイをご寄稿いただくことにもなった。

 私が『アンジャリ』web版に執筆のご依頼をした乗代雄介さんの原稿を受け取った時も、不思議な気持ちになった。
 気鋭の小説家として知られる乗代さんのお名前を私が初にお聞きしたのはいつだっただろうか。たぶん数年前に聞いていたラジオ番組でおすすめの小説の作者として紹介されていたのがきっかけだったように思う。何となく気になって乗代さんのデビュー作『十七八より』に遡って 読んだのだった。その時の感想として は、ずいぶんと描写力のある作者だな、という印象をもった。登場人物たちの状況を(時に過剰とも感じられるほどに)丁寧に描き、鮮烈なイメージを浮かび上がらせる手法が際立っていた。

 その頃乗代さんは芥川賞候補にもなっていて注目されていたが、あらためて私が乗代さんに強い関心を向けるきっかけとなったのが、2020年に出版された『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』だった。
 この本は乗代さんがデビュー前の高校生の頃から15年以上にわたって書き続けていたブログの文章をまとめたものである。私が書店で見かけた時、この本の帯にはceroというバンドのボーカルである高城晶平氏が推薦のコメントを寄せていた。ceroが好きだった私は、両者の意外な繋がりを知ったのもあってすぐに購入した。
 「創作」と題された前半パートには短編小説が数多く掲載されていたのだが、これが全く予想外のものだった。その作品はほとんどがシュールなギャグだったのだ。異常なシチュエーションにいる登場人物たちが異常なことを(当事者たちは極めて真剣に)行っていくといった雰囲気の作品が並んでいる。これらの作品を読みながら、私は何度も声に出して笑った。最初に読み始めたのが電車の中でなくてよかったと本当に思った。暴走する作家の妄想力に感化されて、それを真似た短編のシチュエーションを思わず考えてみたりもした(ずいぶん貧弱なものしか思いつくことはできなかった)。
 乗代雄介ってギャクも書けるのかと思いながら読み進めていくと、後半は「ワインディングノート」と題された全くトーンの異なる一連の論考がまとめられていた。大きなテーマは「読む」ことと「書く」ことのようだ。乗代さんが内外の小説家や思想家の作品を独自の視点で縦横に読みつつ、ご自身にとっての「書く」 ということを真摯に追求している。

 ここで正直に告白しよう。私はこの「ワインディングノート」での乗代さんの思索の真剣さと密度について、その時は十分に気がついていなかった。ただ自分にとってのいくつかのキーワードや固有名詞(デカルト、サリンジャー、宮沢賢治、cero、キルケゴール等々)、それ らを通して、著者の「書く」ことへの真摯さを読み取っていたにすぎなかった。おそらくは前半の「創作」の面白さに引っ張られ、「ワインディングノート」への注意を欠いていたのだろう。今から振り返ると、著者に対して大変に申し訳なく、恥ずかしい限りである。ところが散漫な注意力をもってしながら、私は何かを感じ取り、乗代さんに『アンジャリ』にご執筆いただきたいと思った。その時私に強く印象づけられたのは、一連の思索の最後の方に示されている「死ぬまで考え続け、書き続けること」というフレーズである。その真剣さがどこか祈りのようなものに通じているような気がして、乗代さんと『アンジャリ』はマッチするのではないかと考えたのだった。

 後日開催された編集会議で私は乗代さんを執筆候補として推薦し、承認された。親鸞仏教センターの紹介と『アンジャリ』のバックナンバーをいくつか見ていただいた上で、ご自由にお書きいただいて構いません、と乗代さんに執筆のご依頼をした。完全にダメもとでのご依頼だったが、思いのほかあっさりと引き受けていただいた。お返事には仏教や真宗に関心があるという言葉も添えられていた。
 それから数ヶ月後。乗代さんから送られてきた原稿のタイトルは「浅原才一に学んだ小説」というものだった。原稿には、真宗の妙好人である浅原才一のように小説を書きたいとずっと願ってきた、と書かれていた。

 私も「世界のような大きな口で世界の人をだま」すのをやめて、「世界にあるもの、みな」を「噓」でなく、自分や他を欺く術を使わずに書きたいと改めて思う。無論、書き言葉と話し言葉のあわいに居られた才市とはちがうから、いくらかの学問や思索を根こそぎ振り払うことなど不可能なのは10年前から承知していた。でもいつからか、せめて「何事も体験そのものの中から湧いて出る」ように書く努力をしようと考えるようになっていた。

乗代雄介「浅原才一に学んだ小説」(『アンジャリ』web版)

 おそらく読者のほとんどは、このエッセイが『アンジャリ』に掲載されたのは、編者があらかじめ乗代さんの浅原才一(もしくは仏教や真宗)への関心を知っていたからだと考えたのではないだろうか。しかし断じて違うのだ。私は乗代さんの意外なギャグ作家ぶりと、書くことへの真摯さ(およびその二つのギャップ)に惹かれただけなのだ。ご依頼の際には、乗代さんの仏教への関心には気づいていなかった。いやむしろ、仏教や真宗に直接関わりがなさそうに見えたからこそ、『アンジャリ』に書いてもらいたかったのだ。にもかかわらず乗代さんは、浅原才一のように小説を書きたいとずっと考えていたという。原稿を見た時、私はむしろ混乱した。真宗に関わるエッセイを書いてもらうつもりなど毛頭なかった。なのになぜ、まるであらかじめ予定されていたかのような原稿が上がってきたのか?乗代さんに原稿のお礼を伝えるメールにも、素晴らしい原稿をいただき大変ありがたいのと同時に、「率直に言って混乱しています」と書いてしまったほどだ。

 冒頭で述べたように、私はこの時本当に不思議な気持ちになった。自分が意識していなかったところで何がどう繋がったのか。私は、なぜ乗代さんにご依頼しようと思ったのか。この問いは原稿を読んだ後に私に重くのしかかってきた(編者としてこれほど無責任な問いはないだろう…)。そうしてあらためて「ワインディングノート」を読み直したのだった(これも本当にひどい話である…)。
 精読しはじめてすぐに、これは大変な思索だと気づいた。まだ小説家になる前の乗代さんが十代の頃から書き溜めていた六冊のノートには様々な本からの引用があり、ブログにおいてその膨大な引用の一部を使いながら一連のテーマが展開されていた。「ワインディングノート」とあるように、曲がりくねった道を行きつ戻りつしながらも、一つのテーマが粘り強く追求されているのである。そのテーマは「読む」 ことと「書く」 ことについてであった。あるいはむしろこういった方がいいかもしれない。まだ何者でもなかった乗代青年が、たくさんの読書を通じて〈小説家として書く〉ことに真摯に向き合いながら、やがて『十七八より』で群像新人賞を受賞して小説家としてデビューし、「死ぬまで考え続け、書き続けること」といった境地へと至る、数年間の思索の過程が記されている、と。

 ブログで展開されていた高密度な思索が、一冊の本として出版されたのは非常に価値あることだと思う。とはいえ、私には乗代さんを対象とした作家論などあまりに恐れ多いので、本稿のささやかな、いや、編者として無責任な問いに戻ることにしよう。私はなぜ乗代さんにご依頼したのか?無意識のうちに、乗代さんの真宗への共感を読み取っていたのだろうか?
 「ワインディングノート」を再読すると、関連する主題は確かに示されていた。一連の思索は、柄谷行人の『言葉と悲劇』から引かれた「故郷を甘美に思うもの」と「全世界を異郷と思うもの」との対比を出発点としている。後者は「あらゆる共同体の自明性を認めない」態度とされ、乗代さんはさまざまな作家や思想家にその態度を見出している。しかし同時に、特定の言語を用いて書くという行為そのものが、「共同体に属することを証明して」もいるという。つまり、共同体の価値観や習慣を相対化しながらものを書く小説家であっても、共同体の価値観や習慣から離れて生きていくことは決してできないということだ。そうである以上、「故郷を甘美に思うもの」と「全世界を異郷と思うもの」の二極に引き裂かれた状態を徹底的に意識することが、小説家として唯一の誠実な姿勢であると乗代さんは考えている。言いかえれば、共同体への帰属性に対するアイロニカルな態度こそが、小説家にとって不可欠なものだということだろう。

 こうして乗代さんは上記の主題を、自身に浸透している文化的影響をどこまでも意識しながら新しいものを書くという課題として追求していくことになる。ここから先の思索は非常に興味深く、ぜひ一読していただきたいところである(とりわけ、いがらしみきお『IMONを創る』を論じた箇所は秀逸である)。
 ところで、私が読んだ限り「ワインディングノート」の思索は、『十七八より』によって乗代さんが小説家としてデビューしたあたりで、強調点に若干の変化が見られるように感じた。たとえば次のような一節がある。

 僕は、読書が歓びをもたらした場合、それは自分が揺さぶられるのではなく、例えば「文学」が揺さぶられているのだと思うようになり、それを歓びとして読むようになりました。自分の感動なんかより、何千年の歴史を持ち、数え切れない先人達が積み上げてきた「文学」の変動を感じる方が、ずっと大事なことだと思うようになったのでした。

乗代雄介『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』、528頁。

 これまで強調されていたのが〈共同体の価値観に浸透された自己意識を徹底的に反省しつつ書く〉ことだったとすれば、ここではむしろ、〈そうした自己意識を飛び越えて書く〉ことへの志向が表れている。そしてここまで読んでくれば、乗代さんが『アンジャリ』で書かれている「何事も体験そのものの中から湧いて出る」ように書くという浅原才一への共感も明白であるだろう。以上をふまえた上で乗代さんの「浅原才一に学んだ小説」を読んでいただけたら、その思索の一貫性と展開の筋道が理解できるに違いない。

 さて問題があるとすれば、私がそれらにはっきりと気づくことなく乗代さんに執筆のご依頼をしたことである。私はうかつな人間である。しかし乗代さんのエッセイをあらためて読むにつれ、うかつさが価値を生み出すこともあるのだな、とも思うのである。そしてそのことが、寺院出身でもない私が、研究員として親鸞仏教センターにご縁をいただいていることの本質であるような気もしてくるのである(とはいえどんなに素晴らしい結果を生み出したとしても、編者としての私の罪が免除されるわけではない)。

2025年4月1日

長谷川 琢哉

親鸞仏教センター嘱託研究員、東洋大学法学部法律学科教授
東洋大学井上円了哲学センター研究員

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表現の「自由」の哲学的意味

越部 良一 KOSHIBE Ryoichi

 「自由」は正反対の二つの意味をもつ。これをプラトンの言う魂の三部分で表現すれば、一つは魂の欲望部分の自由。もう一つは魂の理知の部分の自由、これは魂の知るはたらきが、感覚世界を超え、人間を超えた永遠の善美のイデアと結びつき、欲望部分(金銭欲で代表される)と気概の部分(勝利を求める)による囚われから解放されることである。これが自由の真実の意味である(前者は欲望への隷属)。
 私に思うに、この真実義中の、思想・文学・芸術およびそれらに類するものの表現(以下、単に表現と記す)の自由には、三つの面がある。

 一つ。法然が流罪にされる折、

「一人の弟子に対して一向専念の義をのべたまう。西阿弥陀仏という弟子推参していわく、かくのごときの御義ゆめゆめあるべからず候。[中略]上人のたまわく、汝、経釈の文をみずや。西阿がいわく、経釈の文はしかりといえども、世間の機嫌を存ずるばかりなり。上人のたまわく、我首をきらるとも、此事いわずはあるべからず」(「法然上人伝絵詞(琳阿本)」、井川定慶編『法然上人伝全集』。但し、漢字、かなは現行のものに直し、一部漢字はひらがなにしている。引用文中の[ ]内は越部注記、以下同様)。

表現の自由は、世間に囚われず、煩悩の命に縛られない。

 二つ。小林秀雄は本居宣長の「神」についてこう述べる。

「何度言ってもいい事だが、彼[本居宣長]は、神につき、要するに、「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり」と言い、やかましい定義めいた事など、一切言わなかった。[中略]神は、[上古の]人々めいめいの個性なり力量なりに応じて、素直に経験されていたまでだ。そこで勢い、いろいろな神々が姿を現すことになったわけだが、そのような事を、特に意識に上す人はなかったのである。誰の心にも、「私」はなく、ただ、「可畏き物」に向い、どういう態度を取り、これをどう迎えようかという想いで、一ぱいだったからだ。言い代えれば、測り知れぬ物に、どう仕様もなく、捕えられていたからだ」(『本居宣長(下)』新潮文庫)。「神々は、彼等[上古の人々]を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう」(同上)。

表現の自由は、いろいろな個性、いろいろな真実、いろいろな善に対し開かれている。

 三つ。ヤスパースは、プラトンの国家による検閲の考えを批判して言う。

「プラトンにより考えられた検閲[イデアを知り尽くした哲人王による文学、音楽等の検閲]を、人間は遂行する能力はない。こうした検閲は、繰り返し教会の、そして国家の権力者たちにより得ようと努められるが、退けられてしかるべきである。[中略]強制の圧迫のもとでは、精神は、反復したり変奏したりすることはできるが、創造的に産み出すことはできない。検閲は、ばかげたことと共に真理の可能性をも同時に窒息させ、雑草と共に穀物をも同時に根こそぎにするであろう。だから各々の人間が、自由な産出の権利をもたねばならない」(『原爆と、人間の将来』、原書から越部訳)。

表現の自由は、有限な人間にとって、悪しき表現を乗り越える動きの中にしかないのだから、悪しき表現をつねに目にとどめていなければならない。それは悪しき表現に批判的に対峙するが、しかし、強制なしにである。

 善美と真実の根源たるかの無限のもの、測り知れぬものは、個の人をとらえ、個の人を感動させる。自由とは、自己でないかのものに、自己が由るということである。そこで初めて本当の自己(真実の自己存在、実存)が明らかになる。だから自らの表現の自由を抑圧するのは他の者だけでない。根本的には、命濁(みょうじょく)の自分が抑圧し(上の第一面に反す)、自己の真理の根源がもつ多様な可能性を認められぬ自分が抑圧し(第二面に反す)、自己の悪しき面を見まいとする自分が抑圧するのである(第三面に反す)。

 かのものが語れという様子を見せるということは、人間関係の中で生きておれという様子を見せるということでもある。かのものは人間たちを結びつける。かの無限者が、特定のとき・ところで、有限な様々な姿形(すがたかたち)のうちに現象し、表現される際、そこで結びつけられる人間たちは限定された人たちである。その表現の根源たる、姿形なき、言葉で語り得ぬ、不可思議なるものとしては、かのものは、一切の存在を、それゆえあらゆる人間をも越え包む、一なるものと思考されうる。

 表現の自由のかたき役に、人間たちの客観的な結びつき、集合体を表す「社会」がなることがあるのは、自由な表現と沈黙の出どころである超越者と実存の関係、社会を超出するこの関係を、社会が見失うことがあるからである。キルケゴールは言う。

「社会性という、現代において偶像化されている積極的な原理こそ、人心を腐蝕するもの、退廃させるものであり、だから人々は反省[情熱なき分別]の奴隷となって美徳[例えば命がけの勇敢さ]をさえ輝かしい悪徳にしてしまう。こういう事態になるというのも、個人個人が宗教的な意味で永遠の責任を負って、ひとりひとり別々に神の前に立っているということが見のがされているからのことでなくてなんであろう」(『現代の批判』桝田啓三郎訳、岩波文庫)。

人間が社会なしに存在しないからといって、社会自体の位階と分限を曖昧にすべきでない。魚が水なしで生きられないからといって、魚は水ではないし、水だけで生きているのでもなく、水のために生きていると言えるわけでもない。社会は自由を根底とすべきものであり、又、自由の可能性に奉仕すべきものだ。社会のこの位置づけと社会的責務が見失われ、社会が玉座にすわれば、表現の自由は消失する。

 この文章の出だしですでに、私(越部)の内部に表現の自由などありはしないのだということがよく分かる。あるのは囚われである。しかし、それで済みはしないのは、かの剛毅な、独立自由の人たちが呼びかける、そう、社会の内で呼びかける、その表現が、私の心の内に入り込んで来るからである。だから私は、パティ・スミスにならって、こう言うのだ、

「社会の外側で、かの人たちが私を待ち受けている」。“Outside of society, they’re waiting for me.”(Rock’n’Roll Nigger, in Patti Smith Group, Easter, 1978)。

2025年3月1日

越部 良一 KOSHIBE Ryoichi

親鸞仏教センター嘱託研究員
法政大学・日本大学・立正大学、各非常勤講師

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ちゃんと学ぶ

田村 晃徳 TAMURA Akinori

 2025年が始まった。私は元日には『歎異抄』を通読することにしている。『歎異抄』を通読することにより、新しい 1年も充実するような気がするからだ。朗読するだけならば40分もあればできる。私にとっての、新年の皮切りである。

 『歎異抄』は広く関心を持たれている書物である。ご門徒からも「住職、『歎異抄』の参考書買ったよ」と声をかけていただくことも多い 。親鸞聖人の言葉が届くことほど嬉しいことはない。しかし、大概の場合、次のように言葉が続く。「でも、とても難しくて、読めないね」と。

 そのような感想 を抱くのは、ご門徒だけではない。私は昨年から地元の坊守会の要請により、『歎異抄』の講義をはじめることになった。初回の講義の際に、坊守の皆さんに『歎異抄』を学びたいと思った動機を聞いた。それぞれが思いを語る中で、多く聞かれた言葉があった。それは「ちゃんと学ぶ」であった。

 「お寺に住んではいるが、『歎異抄』をちゃんと読んだことはない」、「『歎異抄』をきちんと学んだことはないので参加した」、「前から興味があったが、難しくて読めなかった『歎異抄』をちゃんと学んでみたい」というような類いである。

 どれもよく分かる率直な願いであり、そこに応えてあげたいとも思う。しかし、その上でやはり気になるのは「ちゃんと学ぶ」の「ちゃんと」とは、何をイメージしているのだろう、という点だ。単語の意味だろうか。それとも、全文読むということだろうか。あるいは、『歎異抄』の思想を理解するということだろうか。答えは幾通りも思い浮かぶが、それでも参加者の声を聞いていて不安になるのは、「私自身はちゃんと『歎異抄』を学んでいるのか」という問いが生まれるからである。

 「ちゃんと学ぶ」という言葉 の意味についてはイメージがふくらむ割には、その意味するところを的確に指し示してくれる端的な表現 は見つからない。だが、「ちゃんと」への要求がうまれる理由を考えてみると、「『歎異抄』を体系的に、漏れなく学べる方法があるのではないか」、という思いが──あえていえば誤解も若干──あるように思われる。学校で教科書を読むように、順序だてて知識を得ることが学びであると、私たちの多くは思っているのではないか。

 しかし、そのような学びは『歎異抄』、あるいは仏教の生きた学びとなるだろうか。学びに完結はない。学びは常に過程である。『歎異抄』の著者とされる唯円に、親鸞聖人の教えを体系的に残したいという要求はあっただろうか。そうではなく、「耳の底にとどまる 」親鸞聖人の声をくり返し思い出していたのではないか。そこに聞こえてくるのは、固定されたような完結した答えではなく、時の経過と共に、唯円が親鸞聖人の言葉をより深く理解できるようになったこともあったろう。

 とはいえ、参加者の「ちゃんと学びたい」という要求にも応えたいとは思う。学びにつながる 指針、つまりキーワード が見つかれば、読解するのに役立つかも知れない。

 『歎異抄』を学ぶ指針は何だろう。私は「本願のむねをしる」(第12条)と「わが御身にひきかけて」(後序)だと思う。『歎異抄』は難しい。しかし、唯円は仏教の学びとは「本願のむねをしる」ことだと話している。それならば、『歎異抄』には「本願のむね」がどのように表現されているか という関心を手がかりに読むことはできるだろう。そして、何よりも大切なことは、他人事としてではなく「わが御身にひきかけて」、つまり自分の問題としてどこまで『歎異抄』を読めるかという点ではないだろうか。

 繰り返すが、学びは過程である。2025年も同朋とともに、学び続ける年にしたい。

(2025年1月1日)

田村 晃徳 TAMURA Akinori
親鸞仏教センター嘱託研究員

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今という『時』との出会い

菊池 弘宣 KIKUCHI Hironobu

  • 「明日ありと 思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは」

(今咲いている桜が、明日も咲いているはずだと思う心があだとなります。桜は散って見られなくなるかもしれません。夜中に嵐が吹かないとは言い切れないでしょう)

 それは、親鸞が9歳の頃、発心し、出家・得度(僧に成ること)を決意したその夕暮れ時、天台座主の慈円僧正から「今日は時間も遅いから、得度式は明日の朝にしよう」と告げられた折、その返答として、親鸞が詠んだと伝えられている和歌である。すなわち、「大事なことは、先送りにしてはいけない。今、ここぞという時にすべきである」という意であろう。実際、親鸞がこの和歌を作成して詠んだかどうかは定かではない。ただそこには、親鸞が向き合った課題と通じているものがあるように思われるのである。

 ある日の「スポーツニッポン」(新聞紙)の裏一面、2023WBC日本代表監督で、大谷翔平選手の二刀流の生みの親とも言われる栗山英樹氏が、「自然からのたより」という自身の連載コラムに、この親鸞が詠んだとされる和歌を取り上げておられるのを見て、いささか驚いた。栗山氏は、「自然が教えてくれる「時」」として、主にグラウンドの芝刈りをするタイミングの問題と関連して、この親鸞の和歌の言葉を思い出すのだという。芝が整わないと、野球そのものに影響を与えてしまうことになる、と。詳しいことは割愛するが、要は、自然の摂理とタイミング、チャンスの問題にちなんで、栗山氏は、自身の野球人生に根づいたユニークな視点で、親鸞の名に託された和歌の言葉を、教えとして受け取っておられるのだと感じた。

 2024年は、その、MLBドジャースの大谷翔平選手の活躍に沸いた年だったと言えるだろう。投手と打者の二刀流ではなく、打者専念だったが、シーズンを通して素晴らしい活躍をしてくださって、とてもうれしかった。左肩の負傷は心配だが、最後まで勇姿を見せてくださって、深い感銘を受けた。その存在が、私自身の今を生きる励み・モチベーションにもなっていると言える。しかし一方で、いわゆる祭りの後の寂しさのような一抹の喪失感を感じると共に、私自身、自己中心的な興味関心の虜となって、本来の自己が失われているように感じるという、周りが見えなくなっているという、また、そういった在り方をこれから先も繰り返していかざるを得ないことを予感するという、そして、そのことによって、今、本当に向き合わなければならない大事なことを見失ってしまうのではないかという、そのような苦痛も同時に、味わわせられているのである。この問題をどう受けとめるべきなのだろうか。

 親鸞が言う「本願力回向の信心」とは、『大無量寿経』第十八願成就文に基づくものであるが、その「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の「一念」について、親鸞は、自身の著作である『一念多念文意』で、

  • 「一念」というは、信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり。 

(東本願寺出版『真宗聖典』〔以下、『聖典』〕、初版535頁、第二版654頁)

と解釈している。その「信心をうるときのきわまり」という表現について、「信心を獲得する時、その中の究極を表す言葉である」と読めるし、また、「信心を獲得するということ、すなわち時の究極を表す言葉である」とも読めるように思われる。いずれにせよ、時に関わる自己・主体という問題・課題をあらわしていると言えるのではないか。そして親鸞は、その「とき」の本質を、ことさら「臨終」の時に先送りする必要はないとし、「尋常の時節」・日常の「今」に見定め、「信心」を獲得するということによって、「今」という時は満ち極まるのだと、了解したのではないだろうか。

 さらに、その内実を拝察すれば、いわゆる「機法二種深信」、すなわち「摂取不捨」という教えの言葉に照らされて、先に述べてきたような「迷いの自分自身の在り方」を失わない、そういう自分自身のすがたを明らかに知る。その上で、本来の一如・「一つである」という道理を憶念して、それを自身の直面する生活の現場で実現させることを課題にして生きる。と、私自身、そのように受けとめた。

 要するに、「今、ここの自己自身による決定」という問題に集約されてくる。そういうわけで、冒頭の親鸞の出家・得度に関するエピソードの趣意は、親鸞の向き合った「信心」における課題に通底し、結実すると言えるのではないだろうか。

 合わせて、このたび、オーストリアのユダヤ人精神科医・心理学者で、ナチスの強制収容所からの生還者であるヴィクトール・フランクルの以下の言葉が目に留まった。

  • 生きるとは、問われていること、答えること
    ──自分自身の人生に責任をもつことである。
  • ですから、生はいまや、与えられたものではなく、
    課せられたものであるように思われます。
    生きることはいつでも課せられた仕事なのです。

(V・E・フランクル『それでも人生にイエスと言う』
〔春秋社、1993年〕所収「生きる意味と価値」57頁)

 関連して、かつて大谷専修学院という場で、「問う者から問われる者へ」、「問われる者に成りなさい」というメッセージをいただいたことが、今、改めて憶い起こされてきている。

 取り巻く状況が激しく変化し、物事がドンドン加速し、思考が先鋭化していき、関係性がいたるところで行き詰まりを迎えつつあると感じる、そういう只中にあって、時が極まるような今との出会いを切に願っている。

(2024年12月1日)

菊池 弘宣 KIKUCHI Hironobu

親鸞仏教センター嘱託研究員

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罪と罰と私たち

繁田 真爾 SHIGETA Shinji

 2023年10月、秋も深まってきたある日。岩手県の盛岡市に出かけた。目当ては、もりおか歴史文化館で開催された企画展「罪と罰:犯罪記録に見る江戸時代の盛岡」。同館前の広場では、赤や黄の丸々としたリンゴが積まれ、物産展でにぎわっていた。マスコミでも紹介され話題を呼んだ企画展に、会期ぎりぎりで何とか滑り込んだ。

  実はこれまで、同館では盛岡藩の「罪と罰」をテーマとした展示会が三度ほど開催されてきた。小さな展示室での企画だったが、監獄の歴史を研究している関心から、私も足を運んできた。いずれの回も好評だったようで、今回は「テーマ展」から「企画展」へ格上げ(?)したらしい。今回は瀟洒な図録も販売されたが、会期末を待たずに完売。若い来訪者も多く、「罪と罰」に対する人びとの関心の高さに驚かされた。

  展示をじっくり観覧して、とくに印象的だったのは、現在の刑罰観との違いだ。火刑や磔や斬首など、江戸時代には苛酷な身体刑が存在したことはよく知られている。だがその他にも、(被害者やその親族、寺院などからの)「助命嘆願」が、現在よりもはるかに大きく判決を左右したこと。「酒狂」(酩酊状態)による犯罪は、そうでない場合の同じ犯罪よりも減刑される規定があったこと。などなど、今日の刑罰との違いはかなり大きい。

  現在の刑罰観との違いということでは、もちろん近世の盛岡藩に限らない。たとえば中世日本の一部村落や神社のなかには、夜間に農作業や稲刈りをしてはならないという法令があった。「昼」にはない「夜の法」なるものが存在したのだ(網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎭夫『中世の罪と罰』)。そして現代でもケニアのある農村では、共同体や人間関係のトラブルの解決に、即断・即決を求めない。とにかく「待つ」ことで、自己―他者関係の変化を期待するのだという。この慣習は、人が人を裁くことに由来するさまざまな困難を乗り越える一つの英知として、注目されている(石田慎一郎『人を知る法、待つことを知る正義:東アフリカ農村からの法人類学』)。

  「罪と罰」をめぐる観念は、このように時代や場所によって大きな違いがみられる。まさに“所変われば品変わる”で、今ある刑罰観が、確固とした揺るぎない真理に基づいているわけではないのだ。

  だとすれば私たちは、いったい人間の所行の何を「罪」とし、それを何のために、どのように「罰する」のだろうか。そして罰を与えることで、私たちはその人に何を求めるのだろうか(報復?それとも改善?)。そのことがあらためて問われるに違いない。そして「罪と罰」は、おそらく刑罰に限らず、社会規範・教育・団体規則・子育てなど、私たちの社会や日常生活のさまざまな場面にわたる問題でもあるだろう。

  それにしても江戸時代の盛岡では、なぜ酒狂の悪事に対して現代よりも寛容だったのだろうか。帰宅後に土産の地酒を舐めながら、そんなことに思いをはせた。

 (2024年3月1日)

繁田真爾 SHIGETA SHINJI

親鸞仏教センター嘱託研究員、東北大学大学院国際文化研究科, GSICSフェロー。
明治学院大学、中央大学、日本大学、東京医療保健大学、各非常勤講師。
早稲田大学台湾研究所招聘研究員。

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磁場に置かれた曲がった釘

加来 雄之 KAKU Takeshi

 西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。

  •  真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。

(『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)

  現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。

  キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。

  •  軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。

(八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)

  八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。

 ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。

  曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。

  強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。

 ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。

  S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。

 ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。

  衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。

 ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。

  私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。

  「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。

 ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。

  長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。

  私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。

  私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。

  「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。

(2024年元日)

加来雄之 KAKU TAKESHI

元大谷大学文学部真宗学科教授。
大谷大学名誉教授。
現在、親鸞仏教センター副所長。

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ネットオークションで出会う、アジアの古切手

伊藤 真 ITO Makoto

 最近、ネットオークションで古い切手を競り落とすことにはまっている。私はデンマークの思想家キルケゴール(1813–55年)に関する本を読むのが好きで(研究ではなく単なる趣味だ)、関連情報をインターネットで検索することもあるせいか、ある日、パソコンの画面上に、デンマークの雑多な切手を袋詰めした商品の広告が表示された(検索履歴などに基づく「プッシュ型」の広告だ)。普段ならば無視してしまうが、少年時代に切手収集を趣味にしていた私は、何とはなしに広告をクリックしてみた。

  • キルケゴールの記念切手:[左]没後100年(1955年)、[右]生誕200年(2013年)

 切手収集の初心者がコレクションを始めるのに最初に買うような、文字通り二束三文と思われる古い記念切手や普通切手20〜30枚が袋詰めにされている。ところが広告の画像を拡大して切手を順に見ていくと、なんとそこにキルケゴールの肖像切手が1枚入っているではないか。調べてみると没後100年を記念した1955年の切手だが、普通切手と同じ小さなサイズで、地味なエンジ色の背景に晩年の冴えない肖像が使われている。だがそのみすぼらしい感じのするキルケゴールの切手との出会いに私は心を捉われ、初めてネットオークションに入札。雑多な袋詰め切手を買う人はいないとみえて、無事に落札した(実はその後、苦悶した才気煥発(さいきかんぱつ)な青年思想家時代の肖像を使った、2013年のキルケゴール生誕200周年の記念切手も入手した)。

 それからというもの、長らく休眠していた切手収集という趣味の虫が半世紀ぶりに蠢(うごめ)きだした。だがネットオークションというのはどことなく危うい気もする。リアルな切手店とは異なり、売り手と買い手はネット上のオークション・サイトを通じてのみつながっていて顔も見えないし、オークションという性質上、競争心と購買意欲が——つまり我執や所有欲という煩悩が——煽られる。このため自分で入札は一件いくらまで、ひと月合計いくらまでと上限を設定して自制しつつ楽しんでいる。

  • 仏印(上・中段)と英領ビルマ(下段)の切手。上段はフランス風な意匠の切手(1899–1906年)と、[左]カンボジア女性と[右]ベトナム(安南)女性(1907年)。中段はジャンク船とアンコールワット(1931–41年)。下段はエキゾチックな英国王ジョージ6世の肖像切手(1938年以降)

 さて、最近集めるようになったのは、東アジアや東南アジアのかつて欧米列強や日本の植民地支配を受けた地域の戦前・戦中の切手だ。郵便切手は1840年にビクトリア女王の肖像をデザインして英国で発行されたペニー・ブラックに始まり、まずは欧米から普及したが、アジアでも比較的早くから植民地政府により発行された。英領マレー(現在のマレーシアとシンガポールなど)、オランダ領東インド(蘭印、ほぼ現在のインドネシア)、スペイン領フィリピンなどでは1850–60年代にすでに本国の君主の肖像などをデザインしたものが発行され、フランス領インドシナ(仏印、現ベトナム、ラオス、カンボジア)などでも19世紀のうちに切手が登場している(日本は1871年)。19世紀や20世紀初頭の切手は実にクラシックな意匠や色調が美しく、惚れ惚れとして眺めているだけであっという間に時が過ぎてしまう(私は特に仏印や英領マレー、英領ビルマ[現ミャンマー(ビルマ)]などのエキゾチックな意匠のものが好きだ)。しかし同時に、植民地支配を受けたアジア諸国の歴史に思いを馳せる時、その美しさには悲しみが混じる。切手収集では一般的に未使用(ミントと言う)のものが価値が高いが、私は消印の押された使用済みのものをなるべく集めるようにしている。それは、実際に往時の人々が使った切手であり、人々の生活や時代の一端に触れることができる気がするからだ。だが戦前・戦中のアジア諸国の使用済み切手は、使った人が現地の人か支配者側かを問わず、列強の植民地支配下で営まれた生活の証であるだけに、いっそう複雑な思いを掻き立てるのだ。

 アジア諸国の古切手の中でも、特に人々の運命の変転を感じるのは、「加刷(かさつ)」ものの切手に出会った時だ。「加刷」とは、急激なインフレ時や、特定の単価の切手が不足した時に、額面変更のために既存のデザインの切手に新たな単価などを上から重ねて印刷することだ。だがアジアの植民地時代の切手の場合、新たな支配者が自前の切手を発行できるようになるまでに、既存の切手にバッテン、消し線、その他の印や新たな国名や切手発行の意味合いなどを加刷し、暫定的に流通させたものがある。

  • フィリピン(上・中段)と英領マレー(下段)の切手。上段は[左]スペイン統治時代(国王アルフォンソ12世肖像、1880年代)、[中]米国統治時代の自治政府(コモンウェルス)による加刷切手(1936年)、[右]日本が勝利の文言を加刷した切手(1942年)、中段は日本統治時代、下段は英領マレー占領後の日本による加刷切手

  • 蘭印の切手。[左上]ウィルヘルミナ女王の肖像切手の日本による加刷例(1942年)、[右]日本統治時代(1942–45年)、[左下]日本統治時代の切手を使ったインドネシア共和国による加刷切手

 例えば1942年に日本が占領した米領フィリピンでは、米国当局発行の切手に「祝バターン、コレヒドール陥落、1942」という何とも散文的な英文文字が加刷された(翌年には勇ましげな意匠に「フィリッピン郵便」「バターン、コレヒドール陥落一周年記念」という文言がヘンテコなカタカナの活字で記された切手が新たに発行され、以降「比島郵便」と刷られた各種切手が発行されていく)。英領マレーのイスラム文化の薫るモスクの切手や、支配者である英国王ジョージ6世の肖像に椰子の木をあしらった南国風な切手は、日本がマレー半島を占領した直後、国王の顔やモスクの上に「大日本郵便」という文字が「加刷」されて使用された。蘭印の切手でも、オランダのウィルヘルミナ女王の顔の上に刷られた日本の郵便マークや「大日本帝国郵便」の文字、日本語による地名表記などがまるで焼印のようだ。しかし、世の無常と言うべきか、(欧米列強も日本も)驕れる者は久しからずと言うべきか、蘭印では1945年、戦時中に日本当局が発行した切手の日本語部分を消し線で潰し、独立を宣言したインドネシア共和国がRepoeblik Indonesiaという赤い文字を加刷した切手が現れた。加刷切手は私たちに過去を見つめることを迫るのである。

  • 上段は満州国の切手(1932–34年)で、左端が「通郵」切手。下段は満州帝国の切手(1934–45年)

 一方、アジアの切手といえば、漫画『満州アヘンスクワッド』や昨年の直木賞・山田風太郎賞ダブル受賞作の小説『地図と拳』などで話題の「満州国」(正しくは「満洲国」)も興味深い。1932年、執政の地位に就いた愛新覚羅溥儀の肖像をあしらって「満洲国郵政」と刻した切手が発行された。その溥儀は、かつての清朝皇帝という仰々しいイメージではなく、洋装で現代風ではあるが、なぜかどこか心ここにあらずといった弱々しい風貌である。1934年に溥儀が満州国皇帝に即位すると、同じ意匠の切手に新たに「満洲国郵政」と記されるが、溥儀の肖像はそのままである。満州国の切手には別に「通郵」切手というものがある。国章の花がデザインされているが、満州国の「ま」の字も刷られていない。これは実は、満州国を承認しなかった中華民国宛の郵便専用に発行された切手だ。実務上、両国間の郵便を維持するための、苦肉の策だったのだろう。「五族協和」の「王道楽土」建設を標榜した満州国の通郵切手を見る時、私たちは何をどう思う(べき)だろうか。

 アジアの珍しく、多くは美しい古切手との出会いには、歴史に触れる楽しみがあるが、それだけでなく、今を考えさせられることもある。例えば先述した蘭印のウィルヘルミナ女王の肖像切手。オランダ王国女王として1890–1948年と半世紀以上も王座にあったウィルヘルミナは(植民地主義国の君主ということの当否はともかくとして)、実はユリアナ、ベアトリクスと、2013年まで3代・125年近く続いたオランダの女王の時代の幕開けを飾った女性なのだ。この女王の肖像の頰に郵便マークを加刷した当時の大日本帝国は、言うまでもなく男性である裕仁(昭和)天皇の御世である。それから80年になろうとする今日の日本は、世界の男女平等度ランキングでひどく低迷したままで(国の順位の問題というより、実際は私たちが属する各種集団・組織のあり方や価値観が問われるのだが)、女性天皇をめぐる議論もいつの間にやら立ち消えになってしまったようである。アジアの美しくも悲しい古切手は、「今はどうなのか?」と、時には私たちに疑問も投げかけてくるのである。

(2023年10月1日)

伊藤 真 ITO Makoto

現在、親鸞仏教センター嘱託研究員
東洋大学・大正大学・立教大学・東京農業大学、各非常勤講師
東洋大学東洋学研究所客員研究員。

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「菩薩皇帝」と「宇宙大将軍」

青柳 英司 AOYAGI Eishi

  • 本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
  • (本師、曇鸞は、梁の天子 常に鸞のところに向こうて菩薩と礼したてまつる)

(「正信偈」『聖典』206頁)

 「正信偈」の曇鸞章に登場する「梁天子」は、中国の南朝梁の初代皇帝、武帝・蕭衍(しょうえん、在位502~549)のことを指している。武帝は、その半世紀近くにも及ぶ治世の中で律令や礼制を整備し、学問を奨励し、何より仏教を篤く敬った。臣下は彼のことを「皇帝菩薩」と褒めそやしている。南朝文化の最盛期は間違いなく、この武帝の時代であった。

 その治世の末期に登場したのが、侯景(こうけい、503~552)という人物である。武帝は彼を助けるのだが、すぐ彼に背かれ、最後は彼に餓死させられる。梁が滅亡するのは、武帝の死から、わずか8年後のことだった。

 では、どうして侯景は、梁と武帝を破局に導くことになったのだろうか。このあたりの顛末を、少しく紹介してみたい。

 梁の武帝が生きた時代は、「南北朝時代」と呼ばれている。中華の地が、華北を支配する王朝(北朝)と華南を支配する王朝(南朝)によって、二分された時代である。当時、華北の人口は華南よりも多く、梁は成立当初、華北の王朝である北魏に対して、軍事的に劣勢であった。しかし、六鎮(りくちん)の乱を端緒に、北魏が東魏と西魏に分裂すると、パワー・バランスは徐々に変化し、梁が北朝に対して優位に立つようになっていった。

 そして、問題の人物である侯景は、この六鎮の乱で頭角を現した人物である。彼は、東魏の事実上の指導者である高歓(こうかん、496〜547)に重用され、黄河の南岸に大きな勢力を築いた。しかし、高歓の死後、その子・高澄(こうちょう、521〜549)が権臣の排除に動くと、侯景は身の危険を感じて反乱を起こし、西魏や梁の支援を求めた。

 これを好機と見たのが、梁の武帝である。彼は、侯景を河南王に封じると、甥の蕭淵明(しょうえんめい、?〜556)に十万の大軍を与えて華北に派遣した。ただ、結論から言うと、この選択は完全な失敗だった。梁軍は東魏軍に大敗。蕭淵明も捕虜となってしまう。侯景も東魏軍に敗れ、梁への亡命を余儀なくされた。

 さて、侯景に勝利した高澄だったが、東魏には梁との戦争を続ける余力は無かった。そこで高澄は、蕭淵明の返還を条件に梁との講和を提案。武帝は、これを受け入れることになる。

 すると、微妙な立場になったのが侯景だった。彼は、蕭淵明と引き換えに東魏へ送還されることを恐れ、武帝に反感を持つ皇族や豪族を味方に付けて、挙兵に踏み切ったのである。

 彼の軍は瞬く間に数万に膨れ上がり、凄惨な戦いの末に、梁の都・建康(現在の南京)を攻略。武帝を幽閉して、ろくに食事も与えず、ついに死に致らしめた。

 その後、侯景は武帝の子を皇帝(簡文帝、在位549〜551)に擁立し、自身は「宇宙大将軍」を称する。この時代の「宇宙」は、時間と空間の全てを意味する言葉である。前例の無い、極めて尊大な将軍号であった。

 しかし、実際に侯景が掌握していたのは、建康周辺のごく限られた地域に過ぎなかった。その他の地域では梁の勢力が健在であり、侯景はそれらを制することが出来ないばかりか、敗退を重ねてゆく結果となる。そして552年、侯景は建康を失って逃走する最中、部下の裏切りに遭って殺される。梁を混乱の底に突き落とした梟雄(きょうゆう)は、こうして滅んだのであった。

 侯景に対する後世の評価は、概して非常に悪い。

 ただ、彼の行動を見ていると、最初は「保身」が目的だったことに気付く。東魏の高澄は、侯景の忠誠を疑い、彼を排除しようとしたが、それに対する侯景の動きからは、彼が反乱の準備を進めていたようには見えない。侯景自身は高澄に仕え続けるつもりでいたのだが、高澄の側は侯景の握る軍事力を恐れ、一方的に彼を粛清しようとしたのだろう。そこで侯景は止む無く、挙兵に踏み切ったものと思われる。

 また、梁の武帝に対する反乱も、侯景が最初から考えていたものではないだろう。侯景は華北の出身であり、南朝には何の地盤も持たない。そんな彼が、最初から王朝の乗っ取りを企んで、梁に亡命してきたとは思われない。先に述べたように、梁の武帝が彼を高澄に引き渡すことを恐れて、一か八かの反乱に踏み切ったのだろう。

 この反乱は予想以上の成功を収め、侯景は「宇宙大将軍」を号するまでに増長する。彼は望んでもいなかった権力を手にしたのであり、それに舞い上がってしまったのだろうか。

 では、どうして侯景の挙兵は、こうも呆気なく成功してしまったのだろうか。

 梁の武帝は、仏教を重んじた皇帝として名高い。彼は高名な僧侶を招いて仏典を学び、自ら菩薩戒を受け、それに従った生活を送っている。彼の仏教信仰が、単なるファッションでなかったことは事実である。

 武帝は、菩薩として自己を規定し、慈悲を重視して、国政にも関わっていった皇帝だった。彼は殺生を嫌って恩赦を連発し、皇族が罪を犯しても寛大な処置に留めている。

 ただ、彼は、慈悲を極めるができなかった。それが、彼の悲劇であったと思う。恩赦の連発は国の風紀を乱す結果となり、問題のある皇族を処分しなかったことも、他の皇族や民衆の反発を買うことになった。

 その結果、侯景の反乱に与(くみ)する皇族も現われ、最後は梁と武帝に破滅を齎(もたら)すこととなる。

 悪を望んでいたのではないにも関わらず、結果として梁に反旗を翻した侯景と、菩薩としてあろうとしたにも関わらず、結果として梁を衰退させた武帝。彼らの生涯を、同時代人である曇鸞は、どのように見ていたのだろうか。残念ながら、史料は何も語っていない。

青柳 英司 AOYAGI Eishi

親鸞仏教センター嘱託研究員

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真宗の学びの原風景

加来 雄之 KAKU Takeshi 

  今、私は、親鸞が浄土真宗と名づけた伝統の中に身を置いて、その伝統を学んでいる。そして、その伝統の中で命を終えるだろう。

 この伝統を生きる者として私は、ときおり、みずからの浄土真宗の学びの原風景は何だったのかと考えることがある。

 幼い頃の死への戦きであろうか。それは自我への問いの始まりであっても、真宗の学びの始まりではない。転校先の小学校でいじめにあったことや、高校時代、好きだった人の死を経験したことなどをきっかけとして、宗教書や哲学書などに目を通すようになったことが、真宗の学びの原風景であろうか。それは、確かにそれなりの切実さを伴う経験あったが、やはり学びという質のものではなかった。

 では、大学での仏教の研究が私の学びの原風景なのだろうか。もちろん研究を通していささか知識も得たし、感動もなかったわけではない。しかしそれらの経験も真宗の学びの本質ではないように感じる。

 あらためて考えると、私の学びの出発点は、十九歳の時から通うことになった安田理深(1900〜1982)という仏者の私塾・相応学舎での講義の場に立ち会ったことであった。その小さな道場には、さまざまな背景をもつ人たちが集まっていた。学生が、教員が、門徒が、僧侶が、他宗の人が、真剣な人もそうでない人も、講義に耳を傾けていた。そのときは意識していなかったが、今思えば各人それぞれの属性や関心を包みこんで、ともに真実に向き合っているのだという質感をもった場所が、確かに、この世に、存在していた。

 親鸞の妻・恵信尼の手紙のよく知られた一節に、親鸞が法然に出遇ったときの情景が次のように伝えられている。

  • 後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わりさだめて候いしば……

(『真宗聖典』616〜617頁)

 親鸞にとっての「真宗」の学びの原風景は、法然上人のもとに実現していた集いであった。親鸞の目撃した集いは、麗しい仲良しサークルでも、教義や理念で均一化された集団でもなかったはずである。そこに集まった貴賤・老若・男女は、さまざまな不安、困難、悲しみを抱える人びとであったろう。また興味本位で訪れてきた人や疑念をもっている人びともいただろう。その集まりを仏法の集いたらしめていたのはなにか。それは、その場が、「ただ……善き人にも悪しきにも、同じように」語るという平等性と、「同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に」語るという根源性とに立った場所であったという事実である。そうなのだ、平等性と根源性に根差した語りが実現している場所においてこそ、「真宗」の学びが成り立つ。

 このささやかな集いが仏教の歴史の中でもつ意義深さは、やがて『教行信証』の「後序」に記される出来事によって裏づけられることになる。そして、この集いのもつ普遍的な意味が『教行信証』という著作によって如来の往相・還相の二種の回向として証明されていくことになるのである。親鸞の広大な教学の体系の原風景は、このささやかな集いにある。

 安田理深は、この集いに、釈尊のもとに実現した共同体をあらわす僧伽(サンガ)の名を与えた。そのことによって、真宗の学びの目的を個人の心境の変化以上のものとして受けとめる視座を提供した。

  • 本当の現実とはどういうものをいうのかというと、漠然たる社会一般でなく、仏法の現実である。仏法の現実は僧伽である。三宝のあるところ、仏法が僧伽を以てはじめて、そこに歴史的社会的現実がある。その僧伽のないところに教学はない。『選択集』『教行信証』は、僧伽の実践である。

(安田理深師述『僧伽の実践——『教行信証』御撰述の機縁——』遍崇寺、2003年、66頁)

 「教学は僧伽の実践である」、このことがはっきりすると、私たちの学びの課題は、この平等性と根源性の語りを担保する集いを実現することであることが分かる。また、この集いを権力や権威で否定し(偽)、人間の関心にすり替える(仮)濁世のシステムが、向き合うべき現代の問題の根底にあることが分かる。そしてこのシステムがどれほど絶望的に巨大で強固であっても、このささやかな集いの実現こそが、それに立ち向かう基点であることが分かる。

 私は、今、自分に与えられている学びの場所を、そのような集いを実現する場とすることができているだろうか。

(2023年7月1日)

加来雄之 KAKU TAKESHI

元大谷大学文学部真宗学科教授。
大谷大学名誉教授。
現在、親鸞仏教センター副所長。

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