ネットオークションで出会う、アジアの古切手

伊藤 真 ITO Makoto

 最近、ネットオークションで古い切手を競り落とすことにはまっている。私はデンマークの思想家キルケゴール(1813–55年)に関する本を読むのが好きで(研究ではなく単なる趣味だ)、関連情報をインターネットで検索することもあるせいか、ある日、パソコンの画面上に、デンマークの雑多な切手を袋詰めした商品の広告が表示された(検索履歴などに基づく「プッシュ型」の広告だ)。普段ならば無視してしまうが、少年時代に切手収集を趣味にしていた私は、何とはなしに広告をクリックしてみた。

  • キルケゴールの記念切手:[左]没後100年(1955年)、[右]生誕200年(2013年)

 切手収集の初心者がコレクションを始めるのに最初に買うような、文字通り二束三文と思われる古い記念切手や普通切手20〜30枚が袋詰めにされている。ところが広告の画像を拡大して切手を順に見ていくと、なんとそこにキルケゴールの肖像切手が1枚入っているではないか。調べてみると没後100年を記念した1955年の切手だが、普通切手と同じ小さなサイズで、地味なエンジ色の背景に晩年の冴えない肖像が使われている。だがそのみすぼらしい感じのするキルケゴールの切手との出会いに私は心を捉われ、初めてネットオークションに入札。雑多な袋詰め切手を買う人はいないとみえて、無事に落札した(実はその後、苦悶した才気煥発(さいきかんぱつ)な青年思想家時代の肖像を使った、2013年のキルケゴール生誕200周年の記念切手も入手した)。

 それからというもの、長らく休眠していた切手収集という趣味の虫が半世紀ぶりに蠢(うごめ)きだした。だがネットオークションというのはどことなく危うい気もする。リアルな切手店とは異なり、売り手と買い手はネット上のオークション・サイトを通じてのみつながっていて顔も見えないし、オークションという性質上、競争心と購買意欲が——つまり我執や所有欲という煩悩が——煽られる。このため自分で入札は一件いくらまで、ひと月合計いくらまでと上限を設定して自制しつつ楽しんでいる。

  • 仏印(上・中段)と英領ビルマ(下段)の切手。上段はフランス風な意匠の切手(1899–1906年)と、[左]カンボジア女性と[右]ベトナム(安南)女性(1907年)。中段はジャンク船とアンコールワット(1931–41年)。下段はエキゾチックな英国王ジョージ6世の肖像切手(1938年以降)

 さて、最近集めるようになったのは、東アジアや東南アジアのかつて欧米列強や日本の植民地支配を受けた地域の戦前・戦中の切手だ。郵便切手は1840年にビクトリア女王の肖像をデザインして英国で発行されたペニー・ブラックに始まり、まずは欧米から普及したが、アジアでも比較的早くから植民地政府により発行された。英領マレー(現在のマレーシアとシンガポールなど)、オランダ領東インド(蘭印、ほぼ現在のインドネシア)、スペイン領フィリピンなどでは1850–60年代にすでに本国の君主の肖像などをデザインしたものが発行され、フランス領インドシナ(仏印、現ベトナム、ラオス、カンボジア)などでも19世紀のうちに切手が登場している(日本は1871年)。19世紀や20世紀初頭の切手は実にクラシックな意匠や色調が美しく、惚れ惚れとして眺めているだけであっという間に時が過ぎてしまう(私は特に仏印や英領マレー、英領ビルマ[現ミャンマー(ビルマ)]などのエキゾチックな意匠のものが好きだ)。しかし同時に、植民地支配を受けたアジア諸国の歴史に思いを馳せる時、その美しさには悲しみが混じる。切手収集では一般的に未使用(ミントと言う)のものが価値が高いが、私は消印の押された使用済みのものをなるべく集めるようにしている。それは、実際に往時の人々が使った切手であり、人々の生活や時代の一端に触れることができる気がするからだ。だが戦前・戦中のアジア諸国の使用済み切手は、使った人が現地の人か支配者側かを問わず、列強の植民地支配下で営まれた生活の証であるだけに、いっそう複雑な思いを掻き立てるのだ。

 アジア諸国の古切手の中でも、特に人々の運命の変転を感じるのは、「加刷(かさつ)」ものの切手に出会った時だ。「加刷」とは、急激なインフレ時や、特定の単価の切手が不足した時に、額面変更のために既存のデザインの切手に新たな単価などを上から重ねて印刷することだ。だがアジアの植民地時代の切手の場合、新たな支配者が自前の切手を発行できるようになるまでに、既存の切手にバッテン、消し線、その他の印や新たな国名や切手発行の意味合いなどを加刷し、暫定的に流通させたものがある。

  • フィリピン(上・中段)と英領マレー(下段)の切手。上段は[左]スペイン統治時代(国王アルフォンソ12世肖像、1880年代)、[中]米国統治時代の自治政府(コモンウェルス)による加刷切手(1936年)、[右]日本が勝利の文言を加刷した切手(1942年)、中段は日本統治時代、下段は英領マレー占領後の日本による加刷切手

  • 蘭印の切手。[左上]ウィルヘルミナ女王の肖像切手の日本による加刷例(1942年)、[右]日本統治時代(1942–45年)、[左下]日本統治時代の切手を使ったインドネシア共和国による加刷切手

 例えば1942年に日本が占領した米領フィリピンでは、米国当局発行の切手に「祝バターン、コレヒドール陥落、1942」という何とも散文的な英文文字が加刷された(翌年には勇ましげな意匠に「フィリッピン郵便」「バターン、コレヒドール陥落一周年記念」という文言がヘンテコなカタカナの活字で記された切手が新たに発行され、以降「比島郵便」と刷られた各種切手が発行されていく)。英領マレーのイスラム文化の薫るモスクの切手や、支配者である英国王ジョージ6世の肖像に椰子の木をあしらった南国風な切手は、日本がマレー半島を占領した直後、国王の顔やモスクの上に「大日本郵便」という文字が「加刷」されて使用された。蘭印の切手でも、オランダのウィルヘルミナ女王の顔の上に刷られた日本の郵便マークや「大日本帝国郵便」の文字、日本語による地名表記などがまるで焼印のようだ。しかし、世の無常と言うべきか、(欧米列強も日本も)驕れる者は久しからずと言うべきか、蘭印では1945年、戦時中に日本当局が発行した切手の日本語部分を消し線で潰し、独立を宣言したインドネシア共和国がRepoeblik Indonesiaという赤い文字を加刷した切手が現れた。加刷切手は私たちに過去を見つめることを迫るのである。

  • 上段は満州国の切手(1932–34年)で、左端が「通郵」切手。下段は満州帝国の切手(1934–45年)

 一方、アジアの切手といえば、漫画『満州アヘンスクワッド』や昨年の直木賞・山田風太郎賞ダブル受賞作の小説『地図と拳』などで話題の「満州国」(正しくは「満洲国」)も興味深い。1932年、執政の地位に就いた愛新覚羅溥儀の肖像をあしらって「満洲国郵政」と刻した切手が発行された。その溥儀は、かつての清朝皇帝という仰々しいイメージではなく、洋装で現代風ではあるが、なぜかどこか心ここにあらずといった弱々しい風貌である。1934年に溥儀が満州国皇帝に即位すると、同じ意匠の切手に新たに「満洲国郵政」と記されるが、溥儀の肖像はそのままである。満州国の切手には別に「通郵」切手というものがある。国章の花がデザインされているが、満州国の「ま」の字も刷られていない。これは実は、満州国を承認しなかった中華民国宛の郵便専用に発行された切手だ。実務上、両国間の郵便を維持するための、苦肉の策だったのだろう。「五族協和」の「王道楽土」建設を標榜した満州国の通郵切手を見る時、私たちは何をどう思う(べき)だろうか。

 アジアの珍しく、多くは美しい古切手との出会いには、歴史に触れる楽しみがあるが、それだけでなく、今を考えさせられることもある。例えば先述した蘭印のウィルヘルミナ女王の肖像切手。オランダ王国女王として1890–1948年と半世紀以上も王座にあったウィルヘルミナは(植民地主義国の君主ということの当否はともかくとして)、実はユリアナ、ベアトリクスと、2013年まで3代・125年近く続いたオランダの女王の時代の幕開けを飾った女性なのだ。この女王の肖像の頰に郵便マークを加刷した当時の大日本帝国は、言うまでもなく男性である裕仁(昭和)天皇の御世である。それから80年になろうとする今日の日本は、世界の男女平等度ランキングでひどく低迷したままで(国の順位の問題というより、実際は私たちが属する各種集団・組織のあり方や価値観が問われるのだが)、女性天皇をめぐる議論もいつの間にやら立ち消えになってしまったようである。アジアの美しくも悲しい古切手は、「今はどうなのか?」と、時には私たちに疑問も投げかけてくるのである。

(2023年10月1日)

伊藤 真 ITO Makoto

現在、親鸞仏教センター嘱託研究員
東洋大学・大正大学・立教大学・東京農業大学、各非常勤講師
東洋大学東洋学研究所客員研究員。

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■ 巻頭言

「私にとっての「現場」」

主任研究員 加来 雄之

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

「『一念多念文意』の拝読を始めるに当たって」

講師 本多 弘之

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

「中世の狩猟文化と「野生の価値」」

講師 中澤 克明

■ 第69回現代と親鸞の研究会

「安田理深と現代―その思想の独自性をめぐって―」

講師 ポール.B.ワット

■ 第70回現代と親鸞の研究会

「核をめぐる罪と悪」

講師 西村 明

講師 宮本 ゆき

■ 第4回現代と親鸞公開シンポジウム

「宗教者にとって「現場」とは何か?」

提題Ⅰ 吉水 岳彦

提題Ⅱ 田村 晃徳

提題Ⅲ 小原 克博

■ リレーコラム

鈴木 慧淳(?〜1886)

嘱託研究員 古畑 侑亮

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『現代と親鸞』第48号

■ 研究論文

伊藤  真 「佐々木月樵の弥勒信仰論 ―兜率天往生と西方浄土往生との関連から― 」

越部 良一 「穢土の往生(6)」

田村 晃徳 「「意志と祈り」としての願い ―鈴木大拙の本願理解―」

■ 清沢満之研究会

中西 直樹 「「近代仏教」再生の可能性と限界 ―新仏教と俗人登用の試みと挫折 ―」

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

原田 信男 「肉食の始原と否定・工程の論理」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之 「 浄土を求めさせたもの ――『大無量寿経』を読む ―― (34)」

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今、改めてメディアを問う
―その過去・現在・未来、そして仏教―

親鸞仏教センターでは、2001年の設立以来、雑誌『añjali』を毎年2回(6月と12月)発行してきました。

しかし2020年、コロナ・ウイルスの感染拡大による印刷、発送作業、配送などの困難のために、予定通り発行できない苦境に陥りました。そこで私たちは新たに『añjali WEB版』を発足させ、従来の「紙版」はデザインや構成をリニューアルして年1回発行としました。

こうして紙版(12月発行)は41号(2021年)、42号(2022年)を、WEB版(毎年5月定期更新および随時更新)は特別企画を含めて4号をお届けしてきましたが、私たちの前に改めて問いが浮かんできました――特性の異なる「メディア」を使った紙版とWEB版は何がどう違うのか、違うべきなのか? この点いまだ試行錯誤している私たちは、今回の『añjali WEB版』「今、改めてメディアを問う」を企画し、さまざまな形で「メディア」に関わりながら活躍されている方々に寄稿していただきました。当センター職員も執筆陣に加わった本企画は2週連続更新です。

 

第1週:メディアの過去・現在・未来--メディアとは何か? どのようなメディアがこれまで何を伝えてきて、これから私たちはどのメディアをどう活用していくのか? メディア論、メディア史の視点から考える。


伊藤 真 ITO Makoto
宮部 峻 MIYABE Takashi

親鸞仏教センター嘱託研究員

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8月半ば、韓国・ソウルを訪れて

伊藤 真 ITO Makoto

 8月のお盆休み中、学会発表のために韓国・ソウルを訪れた。海外へ渡航するのも、「リモート」でなく「対面」で学術大会に参加するのも、コロナ禍以来初めてだから実に3年ぶり。ビザの申請に韓国領事館前で炎天下に3時間並び、渡航前・ソウル到着時・帰国前と1週間で3度の規定のPCR検査に緊張し、日韓双方のアプリの登録や電子証明取得など、渡航は苦労の連続だったが、それだけの甲斐はあったと思う。今回は韓国で体験したさまざまな「出会い」について書いてみたい。

私が参加したのは国際仏教学会(IABS)が3年に一度開催する学術大会で、当初2020年の開催予定だったがコロナ禍で延期され、5年ぶりに開催にこぎつけたものである。最終的には「リモート」と「対面」を併用する「ハイブリッド」型の大会となったが、世界中から集まる数百名の研究者や学生たちが直に会って仏教について論じ合い、親交を深めることにこだわった開催校・ソウル大学の皆さんに賛辞と謝意を贈りたい。私は「現代社会における仏教」という部会で「印陀羅網のメタファー再考―井上円了の思想を手がかりに」という華厳思想と近代仏教に関連する論題で発表した。休憩時間や部会終了後にも、各国の参加者の方たちと発表内容やお互いの研究について貴重な情報交換をすることができた。人と人が直接触れ合うありがたさ、コロナ禍で失われていたものの大きさを実感した5日間だった。

今回は職場からの出張ではなく自主的な自費渡航だったため、日程は比較的自由で、寺院や博物館見学の時間も作れた。韓国最大の宗派である曹渓宗の本山・曹渓寺では、大音量のマイクで僧侶が詠唱をリードする中、本堂を埋めた信者さんたちが五体投地をする法要に出会うことができた。ソウル中心部の繁華街の一角の、生きた信仰の場であった。一方、軍事博物館である「戦争記念館」では、遥か先史時代と三国時代に始まり、同館の中心とも言える現代の朝鮮戦争の一部始終、そしてベトナム戦争への韓国軍の派兵まで、3階建ての巨大な博物館に展示室がずらりと並ぶそのスケールに圧倒された。ユーラシア大陸と地続きの地政学的な事情からも、朝鮮半島の人々がいかに歴史を通じて戦争と向き合ってきたか、改めて突きつけられる展示には重みがある。日本による植民地支配や秀吉の朝鮮出兵(壬申倭乱)には当然多くのスペースが割かれていたが、倭寇に関するかなり詳しい展示や、朝鮮戦争に国連軍として参加した16カ国の派遣部隊すべてについて、それぞれ丁寧な展示があったことも、ハッとする出会いであった。

そして今回の旅で学会以外で一番印象深かったのは、北朝鮮との国境地帯の「非武装地帯」(Demilitarized Zone、通称DMZ)へのバスツアーに参加したことである。私はかつて北朝鮮による拉致被害者・曽我ひとみさんの夫で元米兵の故チャールズ・ジェンキンスさんの自叙伝『告白』(角川文庫)を訳出させていただいたから、ぜひ国境の「38度線」は訪れてみたかった。首都ソウルからわずか45キロ北方のDMZへは、通訳ガイドが同行する半日の大型バスツアーを数社の旅行社が毎日運行している。南北のバッファーゾーンであるDMZは「38度線」から南北それぞれ2キロの幅で朝鮮半島を東西に貫くが、板門店(パンムンジョン)付近の韓国側の一部は観光客の立ち入りが可能だ。もちろんバスに兵士が乗り込んできてパスポートをチェックしたり、大型観光バスの立ち入りは1日5台の制限があったりはするのだが(そのため各社の先陣争いでツアーは早朝6時半に出発して猛スピードで高速道路を飛ばす)。なお、板門店は残念ながらコロナ禍以来、観光客は入れない。

ツアーではまず、北朝鮮側が囚人を動員して国境を越えて韓国側まで掘削した極秘襲撃作戦用の「南侵トンネル」を見学(高さ・幅約2メートル、全長約1.6キロ。韓国側約450メートルの半分ほどが公開)。地下75メートル、へっぴり腰の私たち見学者がコツン、コツンと次々と天井に安全用ヘルメットをぶつけるようなトンネルで、3万人の襲撃部隊を韓国側へ瞬時に送り込む目論見だったというから驚きだ。ダイナマイトで岩盤を爆破しつつ手掘りで仕上げたというそのゴツゴツした壁面を見て、囚人たちの作業の過酷さと、それを強いた者の恐ろしい執念が感じ取れるように思えた。

続いて、北朝鮮側が遠望できる「DMZ展望台」を訪れた。デッキへ出ると、運良く快晴となった青空の下に緑の大地が北方へと続いていた(曇天だと国境の向こうは見えないという)。手すりに沿って何台も並ぶ見学用の双眼鏡で覗くと、北朝鮮側のDMZの内外に作られた国策村の家々や、DMZの向こう側の高層住宅、さらには南北融和の象徴だったが今や機能停止している開城(ケソン)工業団地の一部が遠望できた。銃声もプロパガンダ放送の音もしない、静かな美しい緑豊かな大地のわずか数キロ先に、政治的・経済的統制下で暮らすことを強いられている人々の日常がある……それを想像するのは何とも非現実的な感覚だった。57年前の厳冬の夜、「38度線」から転戦してベトナム戦争の前線へ派遣されるのではとの恐怖に、やむにやまれず徒歩で密かに国境線を越えて逃亡したジェンキンス軍曹の姿も、思い浮かべることは難しかった。見学を終え、「今晩は繁華街の明洞(ミョンドン)でどんな韓国料理を食べようかな」などと考えながら、韓国の自由のすばらしさを思ったが、その自由の裏には時が止まったように70年間も続く南北の分断と対立・緊張の現実があること、そして自由な韓国に暮らす人々の「同胞」が(さらに拉致被害者の方たちも)北朝鮮の圧政下に日々を送っていること、そんな影の部分とのコントラストを真夏の強烈な太陽が却って鮮明に感じさせる気がした。

最後に付け加えるならば、IABSの大会初日は8月15日、日本の「終戦記念日」は韓国では日本の支配を脱して国権を回復した「光復節」だった。DMZに隣接する見学施設には日韓で論争の絶えない「慰安婦問題を象徴する少女像」もあって、初めて実際に目にして強い印象を受けた。日韓の歴史と現実に「出会う」旅でもあったが、日本をはじめ各国の研究者や観光客を温かく迎えてくれた韓国の多くの人たちに直接出会うことができたことに、心より感謝したいと思う。

(2022年10月1日)

伊藤 真 ITO Makoto

現在、親鸞仏教センター嘱託研究員
東洋大学・大正大学・立教大学・東京農業大学、各非常勤講師
東洋大学東洋学研究所客員研究員。

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ITO Makoto

嘱託研究員

プロフィール

専門領域

中国(唐代)華厳思想、地蔵経典、日本近代仏教

略歴

1965年東京都生まれ。
京都大学文学部哲学科卒業。
佛教大学大学院文学研究科修士課程・博士課程(通信教育課程・仏教学専攻)修了。博士(文学)。
翻訳家(国際問題・現代史などの英文ノンフィクションを訳出)。
訳書に『ぶち壊し屋』(上下巻・白水社)、『アメリカを変えた夏ー1927年』(白水社)等。
現在、親鸞仏教センター嘱託研究員、東洋大学・大正大学・立教大学・東京農業大学、各非常勤講師、東洋大学東洋学研究所客員研究員。

所属学会

日本印度学仏教学会、国際仏教学会(IABS)、日本佛教学会、国際井上円了学会、東アジア仏教研究会 ほか

研究業績

researchmapを参照。

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釈尊×地蔵菩薩——忉利天宮の対話劇

伊藤  真 ITO Makoto

親鸞仏教センター嘱託研究員

■対話なき今

オリンピックと同じく「平和の祭典」であるパラリンピックがまさに開催されていた2月末、ロシアがウクライナへ軍を進めた。開会式では国際パラリンピック委員会のパーソンズ会長が「私は平和のメッセージから始めたい……始めねばならない」と切り出した演説が話題になった。

オリンピック・パラリンピック開催期間中の休戦を求める国連決議(ロシアと中国も共同提案国に含まれている)にも言及しながら、「21世紀は戦争と憎悪ではなく、対話と外交の時代」だとし、包摂的で、差別と憎悪と無知と紛争から自由な、そんな世界を希求すると述べた。

異例とも言える直截的な平和の訴えだが、演説のこの部分などが(おそらくは政治的配慮から)中国国営テレビの生放送では中国語に翻訳されなかったことが報じられた。

一方、当のロシアは停戦協議に臨んでも一方的に無理な要求を突きつけ、一向に「対話」の姿勢がみられない。そもそもウクライナとロシアは民族的にも国家としても本来一つだと言い出して対話相手の存在すら消し去ろうとしている。

20世紀の両度の悲惨な大戦や冷戦などの体験を通じ、国際社会が(曲がりなりにも)構築しようとして来た対話による平和への努力の歩みを踏みにじるものだ(そしてブチャの惨事が明らかになってからは、ウクライナ側も態度を硬化させてしまった)。

こうした危機を前に私たちは何らかの行動を起こすべきだろうが、ここではそれを直接論じることはしない。「対話」という問題意識の延長線上で、私の心に浮かんだ仏典の一場面について書いてみたい。

■対話劇としての仏典

お経は多くの場合「如是我聞(にょぜがもん)」すなわち「このように私は聞いた」という文言で始まる。周知のように、釈尊のかたわらで長年仕えたアーナンダ(阿難)が聞き覚えていた釈尊の言葉を暗唱したことに由来し、後代に作られた大乗仏典の多くもこれを踏襲する。

つまり、お経は形式上は阿難の「聞き語り」だ。しかしその内容はたいてい釈尊と誰かの「対話」という形になっている。弟子や修行者たちだけでなく、特に初期の仏典ではバラモンや学生、在俗の一般の信者との対話もある。大乗仏典の多くでは無数の比丘や菩薩や神々までもが集う釈尊の説法の「会座(えざ)」が舞台となり、釈尊の一方的なお説法といったイメージもあるかもしれない。

それでも、しばしばそれは集まった「大衆(だいしゅ)」の中の誰かとの対話形式で、釈尊の対話の相手も単に教えを乞うというよりも、常に主体的な問題意識で問いかける。仏と衆生という立場の違いはあれ、やはり「対話」なのだと思う。

特に文芸(あるいは宗教文学)的な作品として見た場合、「対話」的な結構が優れた仏典も多い。

『華厳経』では無数の菩薩らに加え、竜や神々や人ならざるものも含めた衆生が曼荼羅のごとく何重にも毘盧遮那仏(釈尊)を取り囲むが、その中から仏の威神力を受けた菩薩が一人また一人と立ち上がってはみずからの理解を述べ、仏と「対話」をする。

『観無量寿経』も、ドラマチックなその内容は、ビンビサーラ王妃ヴァイデーヒー(韋提希夫人)と釈尊との切実な「対話」という形を取っている。

一方、有名な『維摩経』の「入不二法門品」では、ヴィマラキールティ(維摩詰)長者と釈尊の弟子たちとの哲学的ディベートが展開され、最後の文殊菩薩とのやりとりは「維摩の一黙、雷のごとし」というヴィマラキールティの緊迫感あふれる沈黙で終わる。

タイプこそ違え、いずれも優れた「対話劇」と言えるだろう(ただし、これは戯曲的な作品として読めばということであって、教学的にはそれぞれまた種々異なる解釈がなされ得る)。

ここでは対話劇の醍醐味を味わうことができ、今日においても多くのことを問いかけてくる『地蔵菩薩本願経』を取り上げたい。

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