『現代と親鸞』第52号

■ 研究論文

大胡 高輝
『教行信証』における『十住毘婆沙論』引文の位置(上)
――入初地品引文の焦点をめぐって――

■ 「宗教と教育」研究会

岡野 八代
ケアの倫理からみた人間観

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

髙橋 昌明
戦後日本中世史学における(被差別)身分研究の流れ

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之
本願回向の行信 ――『一念多念文意』を読み解く―― (3)

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■ 巻頭言

古い時空について

研究員 大胡 高輝

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

いなかのひとびとということ

講師 本多 弘之

■ 外部講師招聘研究会

ケアの倫理からみた人間観
講師
同志社大学大学院
グローバル・スタディズ研究科教授
岡野 八代 氏 

研究員 徳田安津樹

■ 第9回清沢満之研究交流会

清沢満之「精神主義」を再考する
―研究交流会の成果と課題Ⅰ―

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

戦後日本史における(被差別)身分研究の流れ
講師
神戸大学名所教授
髙橋 昌明 氏

研究員 菊池 弘宣

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

愚禿釈親鸞の『正信偈』の銘文4

研究員 菊池 弘宣

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■ 巻頭言

哀しみと悲しみ

副所長 加来 雄之

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

本願自身が身になる

講師 本多 弘之

■ 第6回「現代と親鸞」公開シンポジウム

戦後歴史学と宗教研究
—— 教科書からこぼれおちたものを
「民衆」・「宗教」からみる——

研究員 飯島 孝良

■ 「宗教と教育」研究会

「教える」という営みの豊かさを探る

研究員 徳田安津樹

■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト

<プロジェクトメンバー座談会>
近現代『教行信証』研究の
「これまで」と「これから」所感
研究員 大胡 高輝

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

愚禿釈親鸞の『正信偈』の銘文3

研究員 菊池 弘宣

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『現代と親鸞』第51号

■ 研究ノート

加来 雄之
安田理深『興法』論文群における「実践」と「寂滅(本来性)」
――安田理深による「衆生」の「基礎づけ」(二)――

■ 第5回「現代と親鸞」シンポジウム

全体テーマ 宗教と家族――教えの継承と多様性

【提題Ⅰ】宗教二世と家族
菊池 真理子

【提題Ⅱ】性の多様性と日本仏教の現在地
若佐 顗臣

【提題Ⅲ】日本仏教と家族
大谷 由香

総合討議
コメンテーター 武内 今日子・加来雄之

■ 第6回「現代と親鸞」シンポジウム

全体テーマ
戦後歴史学と宗教研究――教科書からこぼれおちたものを「民衆」・「宗教」からみる――

【提題Ⅰ】芳賀幸四郎からみる戦中戦後の仏教史(禅文化史)を手がかりに
飯島 孝良

【提題Ⅱ】服部之總の親鸞・蓮如論が問いかけるもの――戦後日本宗教史研究の一断面――
近藤 俊太郎

【提題Ⅲ】安丸良夫の民衆史研究が問いかけるもの――歴史研究と宗教史研究の対話のために――
繁田 真爾

総合討議
コメンテーター 加藤 陽子

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之

本願回向の行信 ――『一念多念文意』を読み解く―― (2)

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「〈心〉のありか」への旅

加来雄之 KAKU TAKESHI

 2025年5月22日、親鸞仏教センターにおいて、脳科学者の恩蔵絢子氏と劇作家の嶽本あゆ美氏をお招きして、第72回「現代と親鸞の研究会」「〈心〉のありか——アルツハイマー型認知症に問われて」を開催した。アルツハイマー型認知症が問題となるのは、記憶と能力が失われることによって、自身のアイデンティティーや親しい人との関係が崩れていく煩悶と、またその人との関係を構築し直す生々しい営みが、そこに存在するからであろう。

 

 両氏は、このアルツハイマー型認知症という現実をどのように受けとめるかについて、恩蔵氏は、脳の機能を人類の悩・ほ乳類の悩・は虫類の脳という三層で捉えることで「その人らしさ」を成り立たせる〈心〉のありかを「感情」に見出すことができることを、嶽本氏は、私たちの「愛」を成り立たせるような〈心〉のありかを、個人の心理のうちにとどめず社会的存在の関係の間(あわい)から見直すことを提言された。両氏の専門的な知識、生々しい体験と実践、実証例にもとづく発表はきわめて説得力に満ち、私たちの心に響くものがあった(『親鸞と現代』52号に掲載予定)。

 

 研究会を縁に私が一仏教徒として「〈心〉のありか」について考えたことを、できるだけ専門用語を使わずに、述べてみたい。

 

 苦悩する自己の実存的・存在論的意味を問うてきた仏教は、悩の機能である生理的・心理的な次元にも、また人間関係という社会的次元にも還元することができない〈心〉の次元を問題としているように思う。


  〈心〉には、たとえば知情意というような心理作用に解消されてしまうことない、何か底しれない深さがある。人間の愛憎や悲哀がとどかない深い場所という感覚が成り立つような〈心〉の深い層がある。  
 私たちは、人の世において、さまざまな愛憎に苦しみ、戦争や災害などによる困難で苛酷な状況を生きなければならないが、そのとき、そのような苦難を乗り越えたいという願いや祈りを生みだしてくる場という次元の〈心〉がある。

 

 私はそのような〈心〉を、私たちの経験のすべてを成り立たせ、引き受けている場としての〈心〉であると考えたい。いま、ここに、私として、さまざまな他者や事物と関わっている、この身という不可思議な事実を受けとめるという次元で成り立つ〈心〉である。どのような現実であってもそれをそのまま受けとめている身の事実に相応する〈心〉である。その〈心〉は、私たちがそれを意識しようとしまいと私たちの根底に厳然と存在する。それは、どのような人間と社会との濁りも悪も悲惨もそのままに引き受けている〈心〉の場と表現してもよい。

 

 そしてその〈心〉こそ、そのまま人間の苦難を正しく受けとめる祈り、願いそして覚悟や自覚が成り立つ場でもあるにちがいない。


 たとえば、仏教徒の私にとっては、その〈心〉は、私たちがブッダによって呼びかけられているという歴史的社会的な事実を受けとめる場として存在している。そしてその〈心〉が、思いを離れることができない私たちに如来の願いを受けとめることを可能にする。仏教には、そのような〈心〉のありかを探究する伝統が確かに存在する。

 

 とくに親鸞の思想を学ぶ私にとって、その〈心〉はどのような絶望的な状況になってもその事実を事実のままに受けとめて崩れない信知が成り立つ場である。このような〈心〉を明らかにしたいという切実な要求が、私の親鸞の思想の学びを突き動かしてきた。
 この深い次元の〈心〉は、科学的実証的な立場から語ること難しいが、私たちの自己・他者・世界の見え方や受けとめ方(この人世に処する心構え)に決定的な影響を及ぼすのではないかと思う。もちろん、この〈心〉が、どこまで現代人に必要とされるのか、またそのような問いが具体的な困難や苦悩の中にある人にどのような実践的な意味をもつのか、分からない。しかし、そのような「〈心〉のありか」がはっきりしなければ、少なくとも仏教を学ぶものとしてアルツハイマー型認知症という現実にきちんと向き合えないのではないかと感じるのである。


 
 今日、人間とは何かがあらためて根底から問われている。たとえばAIが人間に取って替わるという危機意識に動揺する私たちがいる。しかし、もしその危機感が知識や能力に立った浅薄な人間観にもとづいているならば、それこそ人間の「〈心〉のありか」を見失う危機ということができるのかもしれない。
 今、私は、仏教が明らかにしてきた深い〈心〉の場所への旅を求められているのかもしれない。


 とくに親鸞の思想を学ぶ私にとって、その〈心〉はどのような絶望的な状況になってもその事実を事実のままに受けとめて崩れない信知が成り立つ場である。このような〈心〉を明らかにしたいという切実な要求が、私の親鸞の思想の学びを突き動かしてきた。



 この深い次元の〈心〉は、科学的実証的な立場から語ること難しいが、私たちの自己・他者・世界の見え方や受けとめ方(この人世に処する心構え)に決定的な影響を及ぼすのではないかと思う。もちろん、この〈心〉が、どこまで現代人に必要とされるのか、またそのような問いが具体的な困難や苦悩の中にある人にどのような実践的な意味をもつのか、分からない。しかし、そのような「〈心〉のありか」がはっきりしなければ、少なくとも仏教を学ぶものとしてアルツハイマー型認知症という現実にきちんと向き合えないのではないかと感じるのである。


 今日、人間とは何かがあらためて根底から問われている。たとえばAIが人間に取って替わるという危機意識に動揺する私たちがいる。しかし、もしその危機感が知識や能力に立った浅薄な人間観にもとづいているならば、それこそ人間の「〈心〉のありか」を見失う危機ということができるのかもしれない。


 今、私は、仏教が明らかにしてきた深い〈心〉の場所への旅を求められているのかもしれない。

加来雄之 KAKU TAKESHI

元大谷大学文学部真宗学科教授。
大谷大学名誉教授。
現在、親鸞仏教センター副所長。

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近現代『教行信証』
研究検証プロジェクト
研究紀要

― 第8号 ―

◆ 特別企画報告
プロジェクトメンバー座談会
近現代『教行信証』研究の「これまで」と「これから」
― 序・創造的解釈・親鸞像 ―
  本多弘之・加来雄之・大胡高輝・青柳英司
  名和達宣・藤原 智

◆ 研究論文
『教行信証』の慶長本と源覚本について
― 坂東本との近似性に関する一考察 ―
  青柳英司

◆ 研究レポート
三浦叩石筆録『安田理深師述 信巻別序考一』
(解題・翻刻・解説)
  加来雄之

「顕浄土真実信文類三」(信巻)標挙
  青柳英司


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近現代『教行信証』
研究検証プロジェクト
研究紀要

― 第7号 ―

◆ 研究会報告
近世真宗教学の課題 ― 特に成立期を中心として ―
  三浦真証

◆ 研究論文
🔗『教行信証』解釈の〈方法〉をめぐって(下) ─「創造的解釈」の可能性は如何─
  名和達宣

◆ 研究レポート
顕浄土真実信文類序(別序)
  青柳英司

『教行信証』における「後序」の位置付けについて ─ 呼称の変遷と史実性をめぐる議論 ─ 
  藤原 智

安田理深筆録 曽我量深「『教行信証』「後序」講義」 二篇(解題・翻刻・解説)
  加来雄之


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■ 巻頭言

自覚しにくい病巣と自我心

所長 本多 弘之

■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告

自力をたのむということ

講師 本多 弘之

■ 第5回「現代と親鸞」公開シンポジウム

宗教と家族

―教えの継承と多様性—

研究員 宮部  峻

■ 「現代と安田理深」研究会

相応学舎所蔵

安田理深筆録ノート群
に関する調査経過報告近世真宗教学の課題

副所長 加来 雄之

■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻

愚禿釈親鸞の『正信偈』の銘文2

研究員 菊池 弘宣

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磁場に置かれた曲がった釘

加来 雄之 KAKU Takeshi

 西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。

  •  真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。

(『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)

  現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。

  キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。

  •  軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。

(八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)

  八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。

 ①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。

  曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。

  強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。

 ②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。

  S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。

 ③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。

  衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。

 ④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。

  私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。

  「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。

 ⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。

  長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。

  私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。

  私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。

  「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。

(2024年元日)

加来雄之 KAKU TAKESHI

元大谷大学文学部真宗学科教授。
大谷大学名誉教授。
現在、親鸞仏教センター副所長。

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『現代と親鸞』第49号

■ 研究論文

加来 雄之

昭和初期における「実践」問題と安田理深『興法』論文群

―安田理深による「衆生」の「基礎づけ」(1)

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

中澤 克昭 

中世の狩猟文化と「野生の価値」

■ 第69回現代と親鸞の研究会

ポール・B・ワット

安田理深と現代―その思想の独自性をめぐって―

■ 第70回現代と親鸞の研究会

西村  明

三十年後の長崎と永井隆

宮本 ゆき

日米での核理解の違い、親鸞における悪

■ 第4回「現代と親鸞」公開シンポジウム

全体テーマ

宗教者にとって〈現場〉とは何か?

 【提題】

吉水 岳彦

苦の臨床という「現場」

田村 晃徳

現場で働き、現場にはたらく—仏教の言葉を学ぶということ—

小原 克博

キリスト教から考える「現場」と歴史の未来

 【全体討議】

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之

浄土を求めさせたもの ――『大無量寿経』を読む ―― (35)

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