近現代『教行信証』
研究検証プロジェクト
研究紀要

― 第8号 ―

◆ 特別企画報告
プロジェクトメンバー座談会
近現代『教行信証』研究の「これまで」と「これから」
― 序・創造的解釈・親鸞像 ―
  本多弘之・加来雄之・大胡高輝・青柳英司
  名和達宣・藤原 智

◆ 研究論文
『教行信証』の慶長本と源覚本について
― 坂東本との近似性に関する一考察 ―
  青柳英司

◆ 研究レポート
三浦叩石筆録『安田理深師述 信巻別序考一』
(解題・翻刻・解説)
  加来雄之

「顕浄土真実信文類三」(信巻)標挙
  青柳英司


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近現代『教行信証』
研究検証プロジェクト
研究紀要

― 第7号 ―

◆ 研究会報告
近世真宗教学の課題 ― 特に成立期を中心として ―
  三浦真証

◆ 研究論文
🔗『教行信証』解釈の〈方法〉をめぐって(下) ─「創造的解釈」の可能性は如何─
  名和達宣

◆ 研究レポート
顕浄土真実信文類序(別序)
  青柳英司

『教行信証』における「後序」の位置付けについて ─ 呼称の変遷と史実性をめぐる議論 ─ 
  藤原 智

安田理深筆録 曽我量深「『教行信証』「後序」講義」 二篇(解題・翻刻・解説)
  加来雄之


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Interview 第20回 安丸良夫氏「親鸞思想の現代的意義」後編

日本思想史・一橋大学名誉教授

安丸 良夫

(YASUMARU Yoshio)

Introduction

 2016年4月、戦後日本の歴史学において、一つのエポックを切り開いた人物が逝去した。

 ――安丸良夫。丸山眞男に代表される「近代化論」への批判から歩みを始め、生涯にわたり「民衆思想史」のフィールドを開拓し続けた歴史家である。

 本インタビューは、安丸氏が亡くなる前年(2015年6月22日)、氏の自宅を訪問し、「現代と親鸞」という視座のもと聞き取りをしたものである。インタビューにあたっては、当方からの「安丸先生における「親鸞問題」をお聞きしたい」との要望に対し、氏からは「最終的には親鸞と現代のような問題に絞り込みたいのですが、自分の人生史に即した回り道をするのが、ぼくにはやりやすい」という応答とともに、①私の出自と育ち(自分のものの考え方の背景説明)、②歴史研究者としての問題意識の特徴や方法論、③親鸞宗教思想の現代的意義、という三つのテーマが提示された。

 当日の聞き取りは約二時間半に及び、①では、研究活動の基点となった「通俗道徳」論※の発想の具体的な契機は、真宗篤信地域である故郷(富山)での生活体験と大本教の研究であったこと、②では、その「通俗道徳」論を出発点にして、百姓一揆(いっき)や自由民権運動など、他のさまざまな問題を展望していったという研究活動の軌跡について語っていただいた。本稿では、それに続けて話された③の報告をする。

 なお、掲載にあたっては、ご遺族にご了承いただくとともに、当センターと安丸氏との間を架橋してくださった繁田真爾氏に編集の協力をしていただいた。

(名和 達宣)

 

【今回はインタビューの後編を掲載、前編はコチラから】

「実践的=惰性態」と「自然法爾」

 

 話は少し飛躍するかもしれませんが、サルトルの哲学の一番基礎的な概念は「実践的=惰性態」です。温暖化の問題でもテロの問題でも、私たちの日常生活の実践というものが一番基礎にあって、ごく平凡な実践の延長線上に、いろんな社会の仕組みというものが成り立っています。それは人間が作り出したものだから、簡単に変えることはできない、抑圧的な指針だと思います。この「実践的=惰性態」という概念の基礎にあるのは、ハイデガーの『存在と時間』における「現存在分析」だと思います。ハイデガー哲学の場合は、個人哲学という側面がかなり強いと思いますが、対してサルトルの場合は、それを社会化して、国家とか教会とか軍隊とか、そういう社会的なものの存在の仕方を、こういう概念から展望していると思うのです。

 この「実践的=惰性態」という考え方をすると、我々の日常的なものを踏まえながら、現在の世界の構造の全体をとらえることができます。そういうふうに考えると、この概念は親鸞の思想とある程度接近してくるのではないか。特に「自然法爾(じねんほうに)」という考え方と、かなり近づくのではないかというのが、私の今日お話ししたいと思ったことなのです。

 親鸞の思想を一応、「自然法爾」の思想というように考えますと、そこでは悪の必然性ということが根源的な意味をもっていると思います。善悪が宿業である、あるいは業縁であると。親鸞の時代でも現代でも、例えば人を殺すということを、我々は日常的にはすることはないと思います。しかし、よく考えてみれば、人間はいつも人を殺すような存在だとも言える。そういうとらえ方をするためには、全体としてとらえるということが必要だと思うのです。例えば、地球の温暖化ということは、地球のどこかでは国そのものが水没してしまってなくなるほど重大なことで、それは殺人と言えば殺人なわけですけど、我々が普通そのことを殺人として意識することはない。そして人間はだいたい皆、自分は多少悪いところもあるけれども、根本的にはそんなに悪い人間ではない、善人のほうだと思っているわけです。しかし、全体としてとらえてみた場合、我々の日常性のなかに、殺人にしろ、テロにしろ、破壊にしろ、そういう重大な結果をもたらすようなものが含まれているということになります。それがつまり、業縁とか宿縁というものであって、そういうものをとらえるためには、物事を世界全体の連関のなかでとらえなければならないと思うのです。

 普通の人が日常生活のなかで考えていますから、殺人のような重大な犯罪があったりすると驚くわけですね。悪というものが現代の日本人にはあまり切実なものとしては経験されたことがない、自分の体験としては経験されたことがないので、他人が突然犯して驚くという、そういう他人事として存在しているわけです。しかし、宿業とか業縁ということを媒介にして考えると、我々のなかにそういう悪に対する不可避性のようなものが深く宿っている。ただ運が良くて、たまたましていないというだけのことで、根本的な悪というものはやはり、我々の日常生活のなかにあるのだという考え方になるのではないでしょうか。

 このことはまた、善悪というようなものを単純に二元的に分けて考えるのではなくて、普通の人間のなかにもそういう要素があると考えるべきだということを意味しています。そういう表面的な二元論を避けて、自分たちの実践の意味を世界の全体性の光に照らして考え直せば、悪の根源性ということが、だんだん見えてくるということではないかと思います。その場合、現代ではその問題を考えるために、ある程度具体的な知識が必要だと思うのです。例えば、温暖化というのはどういうメカニズムで行われるのかとか、原発というのはどういうものかとか。ただ、そういう具体的な知識は、それだけを孤立させると、現状維持的で保守的なものになりかねません。そこで、そういう状況を何とか乗り越えるということが必要なので、そのための重要なやり方が、全体のなかで問題を考えるということだと私は思うのです。

 ちなみに、戦後歴史学でも親鸞は非常に高く評価されてきました。ただし、これまでの親鸞というのは、一種の社会革命思想家みたいなイメージが強かったように思います。しかし、そういうイメージとは少し次元をずらして考える必要があるわけです。階級とか国家とか搾取とかというようなものは、ある程度、先ほどの「実践的=惰性態」みたいなもので、人間の願望によってすぐになくなるというようなものではない。ものすごく強い力で存在しているのだと思うのです。それは一つの側面だけど、しかし、人間は心のなかにこういうものを超えようとする欲求をもっているのだと思うのです。ただ、そういう人間的な欲求やさまざまな善意は、世界全体の大きな仕組みのなかでは「実践的=惰性態」、つまり、抑圧的な仕組みのなかに流し込まれていきます。

 だから、我々の問題の立て方としては、日常生活に基づいていろんな問題が起こっているということを知るとともに、そのためには日常生活からとらわれない、広い知識をもつということが必要だと思うのです。しかし、その知識にも限りがありますから、やはりそこに広い意味での宗教性というか、コスモロジー的なものの見方というものが必要だと思います。コスモロジーというものは、現実の具体的な認識という問題と、主体の価値観というものとが混ざり合ったようなものだと思うのですね。だから、人間は完全に対象化された認識でもなく、主体的な価値観だけでもない、何かそういうものが結びついた存在として生きているわけですから、そういうコスモロジーの立場から眺め直すことで、反省の契機を見つけ出していけると思うのです。

 現代のような世の中ですから、我々の日常生活や、表面的な認識からはとらえられないさまざまな問題があるということは認めなければいけない。市場経済とかテロとか国家とか自然現象とか、そういうものは皆、我々の日常経験を超えた大きな力として存在しているわけですから、それに対してリアルに見つめるということは、なかなか難しいことだと思います。しかし、やはり自分がどういうものの見方をしているかということは、そのなかで絶えず問われているのであって、それは、世の中にいろんな問題あるけれども、そういう問題を冷静に見つめていけるようにという促しではないでしょうか。

(文責:親鸞仏教センター)

前編はコチラ

安丸 良夫(やすまる よしお)

 1934年富山県に生まれる。1953年京都大学文学部史学科入学、1962年京都大学大学院文学研究科(国史学専攻)博士課程単位取得退学。名城大学助教授を経て、一橋大学助教授、同教授。早稲田大学大学院客員教授などを歴任。一橋大学名誉教授。日本思想史専攻。2016年4月4日逝去。

 主な著書に『日本の近代化と民衆思想』(青木書店、のち平凡社ライブラリー)、『出口なお』(朝日新聞社、のち岩波現代文庫)、『神々の明治維新』(岩波新書)、『近代天皇像の形成』(岩波書店、のち岩波現代文庫)、『〈方法〉としての思想史』(校倉書房)、『文明化の経験―近代転換期の日本―』(岩波書店)、『安丸良夫集』(全6巻、岩波書店)、『戦後歴史学という経験』(岩波書店)など多数。

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Interview 第19回 安丸良夫氏「親鸞思想の現代的意義」前編

日本思想史・一橋大学名誉教授

安丸 良夫

(YASUMARU Yoshio)

Introduction

 2016年4月、戦後日本の歴史学において、一つのエポックを切り開いた人物が逝去した。

 ――安丸良夫。丸山眞男に代表される「近代化論」への批判から歩みを始め、生涯にわたり「民衆思想史」のフィールドを開拓し続けた歴史家である。

 本インタビューは、安丸氏が亡くなる前年(2015年6月22日)、氏の自宅を訪問し、「現代と親鸞」という視座のもと聞き取りをしたものである。インタビューにあたっては、当方からの「安丸先生における「親鸞問題」をお聞きしたい」との要望に対し、氏からは「最終的には親鸞と現代のような問題に絞り込みたいのですが、自分の人生史に即した回り道をするのが、ぼくにはやりやすい」という応答とともに、①私の出自と育ち(自分のものの考え方の背景説明)、②歴史研究者としての問題意識の特徴や方法論、③親鸞宗教思想の現代的意義、という三つのテーマが提示された。

 当日の聞き取りは約二時間半に及び、①では、研究活動の基点となった「通俗道徳」論※の発想の具体的な契機は、真宗篤信地域である故郷(富山)での生活体験と大本教の研究であったこと、②では、その「通俗道徳」論を出発点にして、百姓一揆(いっき)や自由民権運動など、他のさまざまな問題を展望していったという研究活動の軌跡について語っていただいた。本稿では、それに続けて話された③の報告をする。

 なお、掲載にあたっては、ご遺族にご了承いただくとともに、当センターと安丸氏との間を架橋してくださった繁田真爾氏に編集の協力をしていただいた。

(名和 達宣)

 

【今回はインタビューの前編を掲載、後編はコチラから】

温暖化(CO2)の問題とテロの問題

 

安丸  先日(2015年6月7日~8日、於 ドイツ・エルマウ)開かれたG7のサミットで、CO2の削減について同意がなされました。それは、2050年までに40~70%を削減し、今世紀末までにほとんどゼロにするというものです。大幅な削減をということになると、エネルギー供給の仕方を、化石燃料から何か別のものへと根本的に転換しなければならないということになります。そういうことがグローバルに共同で同意できるのか。空気は流れているから、一部でやるだけではだめなのですね。

 いわゆる近代化の産業革命というものが行われるようになってから約百年の間に、世界の平均気温は0.6度上昇したそうです。日本は産業化が進んでいるので、その1.5倍ぐらい、1.14度上昇したそうですね。そういう気温の上昇が気候変動を引き起こしているということは、我々は皆感じていることです。夏は非常に暑かったり、雨がすごい豪雨になったりしているわけです。しかし、世界的に見て、CO2を今世紀末までに大幅に減らすことができるかどうかと言うと、これはかなり難しい問題です。政府間パネルではそういうことを主張しているし、G7も建前上はそういうことを認めているわけですけど、実際にはかなり困難で、口先だけになる可能性が相当あるわけですね。

 CO2の排出量が大きいのはアメリカと中国ですが、最近では中国がアメリカを抜いて1位になったかもしれないらしいです。その理由は、中国の北のほうとか寒い地方から石炭がたくさん採れ、その石炭はCO2の排出量が非常に大きいからです。しかし、中国の北のほうや西のほうは相当寒い。そこで簡単に暖を取るためには、石炭を燃やして部屋全体を暖めるのが一番簡単で、安上がりなわけです。もし人間の一番基本的な欲求が、暖かい部屋に住んでお腹一杯食事ができて、安全に生活できるということだとすると、中国で差し当たって石炭を主要な燃料にするということが、何か人間の最低限の権利のような気もするのですね。だから、一方では資本の論理というものがあり、他方では人々の生活欲求というのがありますから、削減は口先ではともかく簡単に実行はできないわけです。しかし、それを実行しなければ、かなり悲惨なことになるというふうに言われています。

 また、もう一つの例として、テロの問題も似たような問題だと思います。世界史の大きな流れとして根本的に変わったことは、大国が世界大戦のような大きな戦争をするという時代が、どうも終わったのではないかと私は思うのです。それよりも、テロとの戦争というものが主要な形態になりつつあるのではないだろうかと。これは素人考えですけれど、私はそう思っています。例えば、現在の大きな問題として、イスラム国がありますね。イスラム国は確かに我々の価値観から言うと、相当乱暴なところがあって、簡単に同意はできない。しかし、同意できないから軍事力で排除することができるかと言うと、それはなかなか難しい。大国同士が戦争するという、第一次大戦や第二次大戦に対し、ゲリラ戦争というものは、片方には装備の非常に厳重な、しかし死にたくない軍隊があり、片方には自爆テロに代表されるような、武器は貧しいけれども、命懸けで戦う人たちがいるという、非対称的な二つの力の戦いになるわけです。ゲリラ戦争は昔からありましたが、最近はそういう傾向が非常に強くなりました。

 だから戦争というのは、公平な戦争はもともとないとも言えるけれど、現在は非対称性が極限まで拡大しているので、戦争としては非常にゆがんだかたちになっているということになるのではないでしょうか。そういうふうにして、テロ対反テロの弾圧という二元的な対抗関係がだんだん拡大していき、暴力に報いるには暴力というふうに、ますます泥沼に入り込んでいくと思うのです。

 温暖化の問題にしろ、テロの問題にしろ、基本的にはそれは人間が作り出したものです。温暖化の問題は安らかで豊かな生活をしてみたいという、ごく平凡な人間の欲求が基礎にあります。テロの問題もやはり、テロはいけないものだと、それを排除したいという願望が社会のなかに強くあって、そういう人々の願望に基づいて、テロに対する強硬策が取られていく。そして、そういうものがだんだん拡大されていくという傾向にあります。そうしますと、いろんな重大な問題があって、それらの問題は、ある意味では自然現象のような場合もあるけれども、どうも自然現象と人間の活動が結びついたようなところで起こっているのではないかと思うのです。だから、そういう意味では、人間の在り方の全体の反省が求められているということになるのではないでしょうか。ここでのポイントは、人々のごく平凡な欲求というものが基礎にあって、それがいろいろ複雑な過程を経て、大変困難な問題を生み出しているということです。

(文責:親鸞仏教センター)

後編に続く

安丸 良夫(やすまる よしお)

 1934年富山県に生まれる。1953年京都大学文学部史学科入学、1962年京都大学大学院文学研究科(国史学専攻)博士課程単位取得退学。名城大学助教授を経て、一橋大学助教授、同教授。早稲田大学大学院客員教授などを歴任。一橋大学名誉教授。日本思想史専攻。2016年4月4日逝去。

 主な著書に『日本の近代化と民衆思想』(青木書店、のち平凡社ライブラリー)、『出口なお』(朝日新聞社、のち岩波現代文庫)、『神々の明治維新』(岩波新書)、『近代天皇像の形成』(岩波書店、のち岩波現代文庫)、『〈方法〉としての思想史』(校倉書房)、『文明化の経験―近代転換期の日本―』(岩波書店)、『安丸良夫集』(全6巻、岩波書店)、『戦後歴史学という経験』(岩波書店)など多数。

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Interview 第27回 池田行信氏(後編)
2022年8月17日
Interview 第27回 池田行信氏(後編) 浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職 池田 行信 (IKEDA Gyoshin) Introduction  2022年2月13日、zoomにて、昨年『正信念仏偈註解』を上梓された池田行信氏(浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職)にお話をお聞きした。そのインタビューの模様をお届けします。…
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2022年8月17日
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Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④
2022年8月08日
Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④ 龍谷大学世界仏教センター客員研究員 吉永 進一 (YOSHINAGA Shin’ichi) Introduction…
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Interview 第12回 今村純子氏「詩をもつこと ―シモーヌ・ヴェイユと現代―」後編

思想史・芸術倫理学者

今村 純子

(IMAMURA Junko)

Introduction

 ――労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である。

 

 今から約100年前のパリに生まれ、わずか34年でその生涯を閉じたユダヤ系フランス人の哲学者、シモーヌ・ヴェイユ(1909‐1943)の言葉である。

 人間を「モノ化」する風潮が蔓延する昨今、多くの人々が「生きづらさ」を抱え、自らの生に希望を見いだせずにいる。そのような閉塞感ただよう現代において、ヴェイユの言葉は独特の響きをもって――決して多くはないが、しかし確実に――読み継がれている。

 ヴェイユは、失われた実在(リアリティ)が喚起されるような出来事を「詩をもつこと」と言い表すが、そこで言われる「詩」とは一体何なのか。

 長年、ヴェイユ研究に携わり、『シモーヌ・ヴェイユの詩学』(慶應義塾大学出版会)の著者として知られる今村純子氏に、その深意をうかがった。

(名和 達宣)

 

【今回はインタビューの後編を掲載、前編はコチラから】

――そのことを紡ぎだすために、著書のなかでは『千と千尋の神隠し』、『ライフ・イズ・ビューティフル』 などの映画や、現実の状況に照らして確かめられていますね。

 

今村  ヴェイユの言葉はすべて、生々しい、己れに矛盾を突きつけてくる現実から紡ぎ出されたものです。こうした言葉はふたたび現実に立ち返る性向を有しているでしょう。だからこそ、確固たる現場をもつ労働者や芸術家のあいだで、ヴェイユが深く、そして広く読み継がれているのだと思います。

 ヴェイユは「両親に宛てた手紙」のなかで、自分のなかに「純金の預かり物」が宿ってしまったことを直覚せざるを得ないが、この預かり物は硬質で緻密であり、これを受け取るのは相当な注意力が必要なので、この預かり物を受け取ってくれる根気のある人がいないのではないか、と危惧しています。実際、ヴェイユの思想に肉薄しようとすればするほど、遠心力で吹き飛ばされるような感覚をもちます。この遠心力に抗するものは、実のところ、言葉ではなく、言葉とはまったく異なる位相の光なのではないかと思いました。ヴェイユの思想の核となる言葉のひとつに「宇宙は追憶からなっている」(「ピタゴラス派の学説について」、『前キリスト教的直観』所収)があるのですが、この言葉を念頭に置くと、映画という時間芸術はヴェイユの思想と親和性があるように思われました。

 たとえば、映画『千と千尋の神隠し』では、主人公「千尋」のキャラクター・デザインは変化しておらず、一貫して、不細工でひょろひょろとした女の子として描かれています。しかし映画を観る者は、二時間の時間の流れのなかで、次第にこの同じ女の子を「美しい」と感じ始めます。観る対象が変化したのではなく、観る私たちそれぞれの心が変化したわけです。千尋は、「したい」ことではなく「したくない」労働を通して詩を獲得してゆきます。初めは、「ここでは働かないものは生きていけない」とハクに説得され、意志による克己によって、次第に、「ハクは私を助けてくれたの。私もハクを助けたい」という自(みずか)らそうしたいと思う欲望によって、労働という、十歳の女の子にとってきわめて苛酷な必然性に同意してゆく姿が見られます。それが映画を観る者の美の感情を掻き立て、それぞれの心に詩を宿すのです。

 

――今村先生は、ヴェイユのことを「イメージの哲学者」だと称します。「われイメージする、ゆえにわれあり」であると。

 

今村  人間が生きていくためには、「イメージする力」、つまり想像力が必要不可欠です。デカルトから出発したヴェイユの思想を俯瞰するならば、「われ考える、ゆえにわれあり」が「われイメージする、ゆえにわれあり」へと転回してゆきます。2010年に、詩人で経営者の辻井喬氏[=堤清二氏](1927~2013年)にお話をお伺いした際(「詩と哲学を結ぶために」、『現代詩手帖特集版 シモーヌ・ヴェイユ』所収)、産業社会が末期に向かえば向かうほど、想像力が枯渇してくる、いまは末期だと思います、と明言されました。しかし、人は想像力なくしては生きることはできない、すると、なんとかして想像力を復元しようとする「想像力の紛い物」があらわれ、それが、新興宗教の台頭やテーマパークの増設ではないかとおっしゃられました。今日現在、このことはますます切実なものとなっているように思われます。

 ヴェイユは、「想像力」という言葉をよい意味で用いることはなく、たいがい「偽りの想像力」という言い方をします。これは、「遠近法の錯覚」のことで、物理的にも、心情的にも、近くのものはよく見え、遠くのものは霞んで見えてしまうということです。たとえば、遠くの国で何十万人という大虐殺があったことよりも、一緒に働いている隣の人の給料が上がって自分の給料が上がらなかったことのほうが深刻なわけです。比較にならない事柄の大きさなのに、心のなかの比重は逆転してしまう。そうならずに、物理的・心情的に遠いもののほうをイメージしうる力とは何かをヴェイユは生涯、考え抜きました。

 

 ――今のこの閉塞的な時代だからこそ、ヴェイユの言葉は確実に読み継がれていくと思います。あらためて、現代にヴェイユを読む意義、あるいは可能性とは何でしょう。

 

今村  いつ、いかなるときにおいても、たとえ時代と社会がどれほど醜悪なものであっても、「歴史的・社会的自己」を決して手放さないということが大切なのではないでしょうか。どのような時代、どのような社会に生きているのか、その時間的・空間的な一点から自己を切り離してしまうとき、ヴェイユにかぎらず、あらゆる思想を受け取る意味がなくなってしまうかと思います。そしてこの視点さえ手放さなければ、おのずから自己自身の個性と資質が見えてきます。ヴェイユが「どんなに凡庸な人でも天才となる」と述べるのは、この一点においてのみだと思います。

 忘れてはならないのは、私たちの誰一人、シモーヌ・ヴェイユではないということです。彼女の言葉は、受け取った人それぞれの具体的なイメージで捉え直したとき、初めて生きられ感じられるものとなります。そしてそのとき、実のところ、私たちはわれ知らずヴェイユから離れ、自分自身の思想を紡いでいると言えるのではないでしょうか。

(文責:親鸞仏教センター)

後編へ続く

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Interview 第27回 池田行信氏(後編)
2022年8月17日
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Interview 第26回 池田行信氏(中編)
2022年8月17日
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Interview 第25回 池田行信氏(前編)
2022年8月17日
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Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④
2022年8月08日
Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④ 龍谷大学世界仏教センター客員研究員 吉永 進一 (YOSHINAGA Shin’ichi) Introduction…
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Interview 第11回 今村純子氏「詩をもつこと ―シモーヌ・ヴェイユと現代―」前編

思想史・芸術倫理学者

今村 純子

(IMAMURA Junko)

Introduction

 ――労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である。

 

 今から約100年前のパリに生まれ、わずか34年でその生涯を閉じたユダヤ系フランス人の哲学者、シモーヌ・ヴェイユ(1909‐1943)の言葉である。

 人間を「モノ化」する風潮が蔓延する昨今、多くの人々が「生きづらさ」を抱え、自らの生に希望を見いだせずにいる。そのような閉塞感ただよう現代において、ヴェイユの言葉は独特の響きをもって――決して多くはないが、しかし確実に――読み継がれている。

 ヴェイユは、失われた実在(リアリティ)が喚起されるような出来事を「詩をもつこと」と言い表すが、そこで言われる「詩」とは一体何なのか。

 長年、ヴェイユ研究に携わり、『シモーヌ・ヴェイユの詩学』(慶應義塾大学出版会)の著者として知られる今村純子氏に、その深意をうかがった。

(名和 達宣)

 

【今回はインタビューの前編を掲載、後編はコチラから】

――今村先生は、2009年の生誕百年の際に『現代詩帖特集版 シモーヌ・ヴェイユ――詩をもつこと』(思潮社)の責任編集をされました。この書を通して多くの方がヴェイユに出会う機会を得たと思いますが、先生ご自身はどのようにして出会われたのでしょうか。

今村 大学生の頃からヴェイユを読んでいましたが、出会い直したのは大学を卒業して就職してからです。ヴェイユが「工場日記」に「疲れた、疲れた」と記しているように、日々の生活に忙殺され、自分を失ってゆくような状況において、それこそ救命ブイのようにしてヴェイユを読んでいました。その後、哲学研究の道に進むのですが、「シモーヌ・ヴェイユであったら、自分を賭けられるのではないか」というような思いでした。

――従来のヴェイユに関する書物は「聖人伝」のようなものばかりです。それに対して、今村先生の著された『シモーヌ・ヴェイユの詩学』は、どこまでも言葉をとおして「存在の美」に触れようとする哲学書で、読むと非常にヴェイユが近く感じられました。先生にとって、ヴェイユの魅力とは何でしょうか。

今村 ヴェイユの言葉は、さほど洗練されたものではないです。同時代でしたらサミュエル・ベケット(1906‐1989)のような作家たちのほうがはるかに優れているでしょう。それにもかかわらずヴェイユの言葉が私たちを魅了するのは、彼女のごつごつ、ざらざらした言葉には、間違いなく彼女自身が映し出されているからです。まったく面識のないシモーヌ・ヴェイユという人が、読み手のすぐ隣にいる。いや、読み手の心のうちに住んでいる。それは言葉の洗練さとはまったく別次元のものかと思います。

 従来の研究や評伝では、ヴェイユの過激な人生や神秘体験が取り上げられ、聖人として扱われることがほとんどでした。でも、私は彼女を聖人だと思ったことはなく、むしろ、彼女が徹底的にダメな部分をもっているところに惹かれています。ストレートにスマートに歩く人よりも、つまづいたり、転んだりする人のほうに愛着を抱いてしまう。これは私たちの心性の矛盾であり、また、ヴェイユの言葉がそうした人間のさまざまな心性の矛盾を素朴に映し出してもいます。

 ヴェイユは生涯にわたってさまざまな経験をしていますが、実のところ、あまり他人の役に立っていないんですね。一生懸命なのですが、でも結果として他人の迷惑になってしまっている。これは、彼女自身にとってどれほどの「恥辱」であり、「屈辱」であったか計り知れないでしょう。そうした経験も踏まえて、論考「奴隷的ではない労働の第一条件」(『労働の条件』所収)では、労働者、すなわち社会の最下層に置かれ、人々から「見えない存在」とされている人たちに最も必要なのは「美」であり、「詩(ポエジー)」だと述べます。そのダイナミズムに私は最も関心があります。

 私たちが真摯に向かい合おうとしている相手が、いったい何を自分の核としているのかを見据える必要があるでしょう。シモーヌ・ヴェイユという人が最も活き活きと息づいているのは、彼女自身の言葉においてです。その一点を手放してしまうと、ヴェイユに向き合っているつもりが、実のところ、ヴェイユと無関係な場所にいることになってしまうかと思います。

――ヴェイユが労働者に必要だと言う「美」、「詩(ポエジー)」には独特の響きを感じます。何を表すのでしょうか。

今村 「美」や「詩」という言葉自体は世の中に飛び交っていますね。これらは人を酔わせる甘美な言葉です。ヴェイユが述べる「美」と「詩」はこれらとは位相を異にするので、彼女がこれらの言葉を発する、いわば海底の深さにまで潜らないと、これらの言葉をつかむことができないかと思います。「労働者に必要なのは、パンでもバターでもなく、美であり、詩である」というヴェイユの言葉は、前後のコンテキストから切り離されています。ですので、この言葉をどう受け取り、どう表現するのかが問われるわけですが、これはなかなか難しいものです。しかし、そうであるにもかかわらず、たえず受け取り手自身の言葉の発語への欲求を駆り立てるのです。そして実のところ、そのことが、最も大切なことなのではないかと思います。

 ヴェイユが述べる美の裏面には「不幸(malheur)」があるのですが、フランス語の語源に遡ると、「時間 (heure) が歪んでいる (mal) 」となります。ムンクの《叫び》のようなイメージです。たしかにそこに存在しているのに、「見えない存在」ないしモノに貶められてしまった人が「不幸」なのですが、銘記すべきは、そのように他者を扱ってしまうその人自身が「不幸」だと捉えていることです。たとえば、いじめの問題で、いじめられている人が「不幸」であるだけではなく、いじめているその人自身が「不幸」なわけです。なぜなら、他者が存在しているのにそれが見えないということは、その人自身の生のリアリティを手放してしまっているからです。論考「神への愛と不幸」で、ヴェイユは繰り返し、人々から見捨てられてしまった人のありようについて記述していますが、彼女が本当に解き明かしたいと願っているのは、むしろ、表面上は幸福そうに見える人たち、あるいは、自らが暴力を振るっていることにまったく気づいていない人たちの「不幸」です。

 このことは論考「『イーリアス』あるいは力の詩篇」の主題でもありますが、蹴る、殴る、さらには殺すといった暴力は、目に見える、素朴な暴力です。しかし最も深刻な暴力とは、当の本人に暴力の自覚がない暴力であり、それは、ここに人が「いる」のに「いない」とみなすこと、あるいは、「あったこと」を「なかったこと」にすることです。この暴力性に気づかない状態こそが人間の最大の「不幸」なわけです。これはなかなか目に見えてこないのですが、美の試金石にかけると、美か醜かがはっきりする。そのことをヴェイユは「美には呼びかける声がある」(「人格と聖なるもの」、『ロンドン論集とさいごの手紙』所収)と言うのですが、呼びかけられて動かずにはいられなくなる、そこにこそ詩が生きる可能性が見出されます。

(文責:親鸞仏教センター)

後編へ続く

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Interview 第27回 池田行信氏(後編)
2022年8月17日
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Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④
2022年8月08日
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Interview 第10回 納富信留氏「哲学は現代に何を語りえるのか ―「理想」が開く可能性―」後編

慶應義塾大学文学部教授

納富 信留

(NOTOMI Noburu)

Introduction

――2011年3月11日。 私たちが「平穏」「安定」と思い込んでいた日常が大きく揺らいだ。

 哲学者の納富信留氏は、著書『プラトン 理想国の現在』(慶應義塾大学出版会)において「積み上げてきた人間の生存と生活が理不尽にも破壊され、おそらく残りの人生では取り返せない状況に置かれた時」にこそ、「理想」という言葉が強い音を響かせ、私たちを現実に立ち向かわせると語る。

 多くの人々において、未来に見通しが立たず、暗雲のみが立ち込める今、哲学は一体何を語りえるのか。納富氏からお話をうかがった。

(名和 達宣)

 

【今回はインタビューの後編を掲載、前編はコチラから】

――「理想」とは決して「現実」を離れたものではないということですね。

 

納富  現在の日本では「理想主義」と言うと、空疎な理念としてタブー視される傾向があります。「それは理想論に過ぎない」とか「今は理想に浸っている場合じゃない」と、否定的に使われることがほとんどです。しかし、「理想」をすっかりあきらめ、現状に埋没して生きていくことが、人間の、「哲学者」としてのあり方にふさわしいとは思えません。

 一人ひとりが抱く「理想」は、具体的には異なります。しかし、相互間で「私の考える理想はこうだ」と言葉をつむいでいくことで、「私は私、あなたはあなた」には終わらずに、「本当に実現すべきものは何か」という「問い」が見いだされ、そこから「対話」が始まるのではないかと思います。一人ひとりが「イデア」という絶対的なものに向けて、現実の生活のなかで言葉をつむいでいくこと、それを「理想」と呼ぶべきではないでしょうか。

 

――浄土真宗では、しばしば「浄土とは理想として掲げてそこに向かっていくものではない」と言って、「理想」という言葉が切り捨てられることがあります。しかし、本来の意味から考えれば、むしろ浄土なる世界を積極的に確かめるための手がかりになりえるのではないかと感じます。一人ひとりの目指す世界は「仮」であるけれども、実はその奥底に「真」の浄土からの呼びかけ、悲願がはたらいているのだと。

 

納富  そこで言われる「仮」の世界というのは、一人ひとりが抱き、目指していく「理想国」になるのでしょうが、そこで終わってしまわずに、実は本当のものに支えられているという関係、その向こう側に本当の世界があるということが非常に大事なのではないでしょうか。私たちがいきなり「真」の実在を目指すのはとても困難ですので。

 「理想」というのは、自分の心に勝手に思い描いて、それで終わりというものではありません。もともと真の実在(イデア)としてあって、それが一人ひとりのなかで想起され、現れてくるものです。最初は「理想の家庭」や「理想の人生」といった誰でも考えるようなレベルのものから始まるのかもしれませんが、だんだんと段階を踏み、超えていきます。それは人間がどうにかしようと決めるものではなく、向こう側で最初から決まっているもの、実在としてあるからだと思います。私たちの生まれる前から「イデア」はあって、それを想い出していくのです。

 「理想」を抱き、「イデア」を目指すというのは、「この世界」から「あの世界」へと飛んでいくことや、何か新しい方向に向かっていくということではなく、実は本来の帰るべきところに帰っていくということです。魂が忘却した「イデア」を想起していくという哲学の歩みは「帰郷」というモチーフで語られます。日常の平穏な生活では、なかなかそのことを意識することはありません。しかし、実存が揺るがされるような出来事が起こった時、安心して立っていた大地が失われたとき、初めて「理想」という言葉が強い音を響かせてくるのだと思います。そのことが現代においては、2011年3月11日に始まる自然災害と原子力発電所事故を通して明らかになりました。人間はこうした状況を「理想」や「希望」を抱かずに生き抜くことはできません。そのとき「哲学」には、言葉を鍛え直しながら語っていく役割があるのだと思います。

 

――浄土も伝統的に「存在の故郷」という言葉で確かめられてきました。納富先生のお話をうかがい、この言葉も「安定して立っていた大地」が揺らいだとき、つまり現代という時代にこそ強い音を響かせてくるのだと感じました。ありがとうございました。

(文責:親鸞仏教センター)

 

前編へ続く

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Interview 第27回 池田行信氏(後編)
2022年8月17日
Interview 第27回 池田行信氏(後編) 浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職 池田 行信 (IKEDA Gyoshin) Introduction  2022年2月13日、zoomにて、昨年『正信念仏偈註解』を上梓された池田行信氏(浄土真宗本願寺派総務、慈願寺住職)にお話をお聞きした。そのインタビューの模様をお届けします。…
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Interview 第26回 池田行信氏(中編)
2022年8月17日
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Interview 第25回 池田行信氏(前編)
2022年8月17日
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Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④
2022年8月08日
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Interview 第9回 納富信留氏「哲学は現代に何を語りえるのか ―「理想」が開く可能性―」前編

慶應義塾大学文学部教授

納富 信留

(NOTOMI Noburu)

Introduction

――2011年3月11日。 私たちが「平穏」「安定」と思い込んでいた日常が大きく揺らいだ。

 哲学者の納富信留氏は、著書『プラトン 理想国の現在』(慶應義塾大学出版会)において「積み上げてきた人間の生存と生活が理不尽にも破壊され、おそらく残りの人生では取り返せない状況に置かれた時」にこそ、「理想」という言葉が強い音を響かせ、私たちを現実に立ち向かわせると語る。

 多くの人々において、未来に見通しが立たず、暗雲のみが立ち込める今、哲学は一体何を語りえるのか。納富氏からお話をうかがった。

(名和 達宣)

 

【今回はインタビューの前編を掲載、後編はコチラから】

――一般に「哲学」は「難しい」「生活から遠い」といったイメージを抱かれることが多いかと思います。ところが、納富先生の著書や訳書を読めば、不思議とこの言葉が身近に感じられてきます。まずは「哲学」という言葉のもつ意味と可能性についてご教示ください。

 

納富  私はある種のこだわりをもって「哲学」あるいは「哲学者」という語を用いています。プラトンの時代(古代ギリシア)に「哲学者」が誕生した背景に目を向けてみると、一般のイメージとは違った事実が知らされます。哲学の教科書では、まず初めに「フィロソフォス」とあり、「知を愛する者」という説明が出てきます。基本的に人間というものは、ただ生きているのではなく、「善く生きよう」とか「幸せになろう」と考え、自分の苦しみを考える、つまり自分を知ろうとしながら生きていく存在です。実は「哲学者」という言葉自体にそのようなメッセージが込められており、私がギリシア哲学を研究している大きなきっかけです。

 世間一般には特殊な人だけがかかわっているように思われがちですが、この定義から言いますと、「人間は誰でも哲学者だ」あるいは「哲学者になるべきだ」ということになります。プラトンの書いた「対話篇」でのソクラテスの言動を見てみますと、何も特殊な専門家や高名な学者と話すのではなくて、むしろ街のなかで普通の人々と、一見普通の対話を交わすところから「哲学」は始まっています。そこが「哲学」あるいは「哲学者」の原点であり、ギリシア哲学で最も興味深いところであり、私自身の問題でもあります。近代から現代にかけての西洋哲学は、とにかく「難しい」とか「自分には関係ない」と言われますが、そういうものではなく、私たちの生き方につながるということを示さなければならないと思います。

 

――そもそも「哲学」という言葉は、明治時代の初めに西洋の思想が導入される際に翻訳語として生まれた言葉ですが、納富先生のご著書『プラトン 理想国の現在』では、同じく明治時代に生まれ、今や日常語にまで成熟した「理想」という言葉に注目されています。

 

納富  私たちはただ物理的に生きているのではなく、言葉を使って生きています。そのことを考えたとき、どれだけ言葉自体のもつ意味を自覚的に引き受け、豊かにするかということが大切になってきます。私は、生き方の豊かさとは言葉の豊かさであると考えます。近代になって西洋の思想が導入され、新たな言葉がいろいろと造り出されましたが、むしろ私は日本あるいは東洋にもともとあった伝統的な思想やボキャブラリーの可能性を見直したいと思っています。

 「理想」という日本語は、明治以前には存在しませんでした。幕末から明治初期の代表的な啓蒙思想家である西周(にしあまね 1829~1898)が、プラトンの「イデア」を訳す際に、仏教用語の「観念」をもとに提案した造語です。プラトン学派が「理(ロゴス)」を重視するという洞察から造り出されました。その後、井上円了(1858~1919)や清沢満之(1863~1903)など、日本で最初に西洋哲学を受容した人物たちの間でも「イデア」の訳語として積極的に用いられますが、次第にプラトン哲学を離れて日本社会に定着していきます。ある意味では、西洋哲学の学術用語で一番普及に成功した言葉だと言えます。

 「理想の家庭」、「理想の上司」、「理想的な体重」。この言葉は今や私たちの日常に根を下ろし、生活を豊かにしています。哲学者の造り出した言葉が、その由来を離れて誰の口にも上るようになるのは一種の成熟ですが、それを真に「哲学的な成熟」にしていかなければならないと思います。

 

――「理想」という言葉は「空想」や「夢想」と同義的に使われることもありますが、その起源をたずねれば、ロゴス(理)に根差しているということですね。

 

納富  さらに言えば、「理想」はもともと「イデア」の訳語として用いられてきましたが、私の読みでは、「イデア」と「理想」とは、重なるようで実は少しずれがあります。一般にはあまり指摘されないことですが、私は「イデア(idea)」と「イデア的なもの(ideal)」、つまり「理想」とを使い分けなければ、困った問題が生じると考えています。

 例えば、20世紀半ばにカール・ポパー(1902~1994)は、ナチズム・マルキシズムと並んで、プラトンの哲学を「全体主義」であると批判しました。単純に言えば、プラトンは「イデア」という「絶対的なものを求めよ」と言っているというような、杓子(しゃくし)定規的な解釈が「絶対的なものに皆で従え」という高圧的な政治と重ね合わされたからなのですが、そこには大きな誤解があります。本来、イデア論はもっとクリエイティブで自由なものです。それが見失われた原因が、「イデア」と「イデア的なもの」とのずれではないかと思います。

 「イデア」とは、それ自体で絶対的な性格を備えたもので、この世界と存在の根拠として、この世界から離れて超越的に実在します。それに対して「理想(アイデアル)」は、私たちが「イデア」を目指していく上でのモデルであり、言葉や理論で表現する具体的な姿です。私たちはそれぞれが「あるべき」と信じる最善の「理想」のあり方を、言論によって「理想像」として示すことで、それに向かって努力し、それを見ながら進んでいきます。その意味で「理想」とは、「現実」の限界や状況を超えていく可能性を導くものと言えます。

(文責:親鸞仏教センター)

 

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2022年8月17日
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2022年8月17日
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2022年8月17日
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Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④
2022年8月08日
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『現代と親鸞』第46号

■ 研究論文

中村 玲太 「 西山義における「帰命」解釈の多様な展開――真宗学の西山理解を契機として」

青柳 英司 「 如来回向思想の背景について」

■ 第66回現代と親鸞の研究会

安藤 礼二 「鈴木大拙の浄土論」

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

三枝 暁子 「身分制から見た中世社会」

■ 「正信念仏偈」研究会・源信『一乗要決』研究会

立川 武蔵 「生命への意味付けと阿弥陀仏」

■ 第6回「清沢満之研究交流会」報告

全体テーマ:「世紀転換期の宗教思想運動――内村鑑三・綱島梁川・清沢満之」

【問題提起】

赤江 達也 「「無教会主義」の波紋――内村鑑三から塚本虎二へ」

古荘 匡義 「実験と言説――綱島梁川からの宗教思想運動」

名和 達宣 「「精神主義」運動の波紋――曽我量深を中心に」

【全体討議】

鶴岡 賀雄(コメンテーター)・長谷川琢哉(司会)

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之 「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(32)」

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『近現代『教行信証』研究検証プロジェクト研究紀要』第4・5合併号 掲載Content

■ 研究会報告

本明 義樹 「『教行信証』の「現代的解釈」に向けての課題――聖教編纂を通して」

栁澤 正志 「 日本天台浄土教と『教行信証』」

■ 研究論文

東  真行 「 正信念仏偈」の構成についての一考察――主に初三句をめぐって」

名和 達宣 「 『教行信証』解釈の〈方法〉をめぐって(上)――「親鸞教学」としての方法は如何」

青柳 英司 「顕浄土真実教文類一」(教巻)