いのちの否定と肯定

岩田 文昭 IWATA Fumiaki

大阪教育大学教育学部教授

浄土教にはいのちを否定する面と肯定する面がある。自己を罪悪深重の凡夫として捉え、この世を穢土として否定する面とともに、浄土に往生する救いの法を教え、凡夫の身をそのまま肯定する面である。このような浄土教の救いの法は、時代を越えるものである。

とはいえ、その説き方は時代により人によって変わってきた。たしかにかつては、一器の水を他の一器に移すように、師の教えがそのまま伝えられたとされた。

しかし、現代ではその教説の歴史的変遷の経緯が明確に知られている。この歴史性の自覚により、過去の浄土教の教説を金科玉条のように受け取るのではなく、時機相応のものとして改めて受け取り直すことが要求されているといえよう。現代における受け取り方を探求するために、この問題をより広い文脈において考えてゆきたい。

◆ウィリアム・ジェイムズの二類型

自己のあり方を肯定する方法は、さまざまな仕方で探求されてきた。ごくおおざっぱにそれらの方法は、二通りにわけることができる。

一つはできるだけ善きことに関心をむけるという方法である。悪いものを見ないようにし、自己においても世界においても、善きことを積極的に捉え直し、その中で善きことを実践していこうとする。

もう一つは、否定的なものの存在を厳粛に受けとめながら、その上でそれを乗り越える世界に触れようという方法である。悪や苦が自己やこの世界に不可避なものであるという認識をもちつつ、それらを含みながらも、自己が肯定される高い次元を模索しようとする。

この二つの方法について、ウィリアム・ジェイムズはその著『宗教的経験の諸相』の中で分析している。ジェイムズは、宗教的回心をする人には、「健全な心」と「病める魂」の二つの性格類型があると論じている。

健全な心は、善きものに意図的に目を向けるあり方をしている。それに対して、病める魂は、悪や苦を見据えながら、より高い自己の在り方を模索するという。

健全な心の持ち主は、人生を善きものと感じ、世界の暗い面や自己自身の不完全さに思い悩むことは少ない。この心の持ち主は、さしあたり無意識のうちに世界の善性を信頼し、自然に幸福を感じる人といえる。

しかし、むしろこの類型の本領は、意志的・組織的に悪を自身の視野の外に締め出す方法を用いることにある。ものごとを全体として善と考え、意識的に楽観的な人生観にもとづき、人間の生を肯定するのである。

ジェイムズは当時のアメリカで起こっていた「マインド・キュア(精神治療)」運動を具体的な例としてとりあげ、積極的に人生を肯定する方法の特色を紹介している。

マインド・キュアは、ニューソートとも呼ばれるが、このような方法論にもとづいて、自己を肯定しようとする動きは、当時の合衆国にだけ存在したのではない。現代の日本の新宗教や精神運動においてもこのような形態はひろく認められる。

新宗教のひとつである生長の家の創始者、谷口雅春は実際にニューソート(生長の家ではこれを「光明思想」と呼ぶ)に大きな影響を受けて、活動を展開していった。光明思想のような生命観は、戦後、教勢を著しく拡大した新宗教の大きな特徴である。

その生命観は、ひとりひとりの心の状態や思いは、宇宙の本源的実在やエネルギーと密接につながっていると想定する。そして、宇宙の諸存在はすべて一つの生命体であり、悪は根源的な実在性をもたないとされる。

新宗教におけるこのような理論構成は、宗教学者によって「生命主義」として研究されてきた(対馬路人他「新宗教における生命主義的救済観」『思想』665号、1979年)。来世ではなく現世に重きを置くのも、生命主義の特徴のひとつである。

しかし、生命主義的な思想は新宗教だけにみられるものではない。新宗教の教理ほど体系的ではなく、また徹底したものではないにしろ、現代の学校教育やマスコミなどでも、生命主義に親近した考え方が暗黙のうちに浸透している。

しばしば、「すべてのものはつながっている」「すべてのいのちは輝いている」「あなたには無限の可能性がある」などという表現がなされる。

ひとりひとりの生をかけがえのないものとして見据え、できるだけ善いことや長所を見いだすことで、生が肯定されるという発想である。このような思考形態は現代における「いのち教」と呼ぶことができよう。

それでは、ジェイムズがいう「病める魂」はどのような性格類型であろうか。病める魂の持ち主は、悪の存在に悩まされる人である。世界や自己の悪い面が切実に感じられ、悪と向き合うことが本当のあり方だと考える。そのように悪や苦しみに向きあうことで、古い自己が死に、新たな自己が蘇ることがある。

再生された自己においては、悪や苦は必然的なものと認められ、それらは内に含まれた仕方で統合される。このような死と再生の経験は、伝統的な宗教、とくにキリスト教や仏教において顕著にみられてきたことだとジェイムズは指摘する。

事実、キリスト教では人間を原罪があるものとし、仏教では生老病死などの四苦や八苦を説く。ジェイムズはキリスト教と仏教は本質的に「救済(deliverance)」の宗教であり、その教えの核心をこう述べる。「真実なるいのち(life)に生まれうるには、人はまず真実でないいのちを忘れさらねばならない」。

◆上田閑照の宗教哲学生命/生/いのち

キリスト教や仏教など救済宗教の「いのち」理解を考察するためのよい手がかりを上田閑照は提示している(上田閑照『宗教』岩波現代文庫、2007年)。近年の宗教哲学者の代表的存在である、上田の論をもとに肯定と否定との問題をさらに考えてみよう。

本来的に「人間として生きる」という観点から、上田は宗教の問題を考察する。上田によれば、「生きる」ことには「生命」と「生」と「いのち」の三つの次元があり、それらがダイナミックに連関してこそ「生きる」ことになる。

「生命」は、生物学や生命科学の対象となるものである。「生」には「生活」という面や「人生」という面もある。そのため、さまざまな人文科学の対象となる。「生」はさまざまな意味連関の中におかれるが、それを包括する場所が「世界」である。

宗教との関係で重要なのは「いのち」である。「いのち」は学問の対象とはならずに、対象化することでは触れることができないところで生きられる。

生命や生とは質を異にし、詩・文学や芸術や宗教などで直接に「いのち」の言葉に触れて、「いのち」の目覚めが生起する。「いのち」の目覚めは宗教にかぎらず、詩や芸術でも自覚されることがある。

ただし、「生命」から人間的な「生」へは量的な飛躍であるのに対し、「生」から「いのち」への飛躍はそうした飛躍の線を断ち切ったところから出てくる質的な飛躍である。

「死」や「貧」といった否定的な契機を通して自覚されてくるのが「いのち」なのである。そして、こうしたすべての連関を含めて、その全体が生きられることが「人間として生きること」になるのだという。

上田は、悪や苦などの否定的なものを真正面から見すえることが本当の意味で「生きる」ことだとするのであり、この点、ジェイムズのいう「病める魂」と論が重なる。

ここで大切なのは、上田が捉える救済宗教の本質である。意味の総枠である「世界」と、それを越えるものは異質で断絶している。伝統的に「宗教」とされるのは、「世界」を越え包む限りない「開け」が、「世界」の内から主題化されたものだと上田は捉える。

具体的にいえば、神域・神殿・教会などは地図の上に位置づけ可能な、目に見える局所であるが、本来的には「世界」とは断絶した場所なのである。しかし、それを目に見える世界内のものとして捉えると問題が起こる。

人間にはそもそも「歪み」と「転倒」の危険性がある。「歪み」とは、人間的生に関わる世界がすべてだとし、それを越えるものを見ないことである。

これは宗教的なものを意図的に見ない歪みである。「転倒」とは、本来、人間的生においては見えないものを見てわかったものとして、人間的生の次元に引きずりおろすという転倒である。

歪みや転倒は宗教の歴史の中でしばしば生じており、宗教思想家はそれぞれの仕方でその危険性を乗り越えようとしてきた。

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『añjali』(あんじゃり)第41号

(2021年12月)

■ 特集「〈いのち〉という語りを問い直す」

中村 玲太 「〈いのち〉という語りを問い直す」(特集趣旨)

森川 輝一 「誕生を祝うために」

池澤 春菜 「ヒトのイノチの先に」

岩田 文昭 「いのちの否定と肯定」

大谷 由香 「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」

■ 連載

本多 弘之 「宗教と根本言」(Ⅸ)

■ Essais

渡辺  優 「「俗」へのまなざし」

天畠 大輔 「「あ、か、さ、た、な」で能力を考える」

宮本 ゆき 「核兵器と「悪」」

山田由香里 「祈りの造形を削り出す――鉄川与助の手仕事が生んだ聖なる空間」

■ 交差点

長谷川琢哉 「ありがたい〈いのち〉と無慈悲な〈生命〉」

越部 良一 「帰命の命」

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『現代と親鸞』第35号

■ 研究論文

中村 玲太 「『西方指南抄』所収『法然聖人御説法事』から見る法然の思想遍歴」

飯島 孝良 「唐木順三の一休論における「伝統」と「近代」」

■ 第52回現代と親鸞の研究会

井手 英策 「尊厳と思いやりが交響する財政―次の世代がその次の世代とつながるために―」

■ 『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会

加来 雄之 「「対偽対仮」という営み――「顕浄土方便化身土文類」の課題――」

■ 第2回「清沢満之研究交流会」報告

全体テーマ:「清沢満之から問われるもの――異領域間の「対話」は可能か?――」

【問題提起】

繁田 真爾 「方法としての〈清沢満之〉の可能性――「悪」と近代への問い」

名畑直日児 「清沢満之再誕――その歴史的意味」

杉本 耕一 「今村仁司の清沢満之論と「宗教哲学」の課題」

【全体討議】

岩田 文昭(コメンテーター)・名和 達宣(司会)

【追想】

岩田 文昭「杉本耕一君の逝去を受けて」

■ 第13回親鸞仏教センターのつどい

下田 正弘 「称名念仏と浄土―現代の思想的課題からの照射―」

本多 弘之 「深層意識の自覚化」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之「 浄土を求めさせたもの――『大無量寿経』を読む――(21)」

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「親鸞仏教センター通信」第57号 掲載Contents




PDFで全紙面を開く

巻頭言

本多 弘之 「現代生活の罪業性と法蔵願心」

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

講師 本多 弘之 「名が行となるということ」

報告 越部 良一

■ 第51回現代と親鸞の研究会報告

講師 内藤 正典 「イスラームとその世界―私たちが知っておくべきこと―」

報告 田村 晃徳

■ 『教行信証』「化身土巻・末巻」研究会報告

講師 加来 雄之 「「対偽対仮」という営み―「顕浄土方便化身土文類」の課題―」

報告 藤原  智

■ 第2回清沢満之研究交流会報告

テーマ 「清沢満之から問われるもの―異領域間の「対話」は可能か?―」

繁田 真爾 「方法としての〈清沢満之〉の可能性―― 「悪」と近代への問い ――」

名畑直日児 「満之再誕―― その歴史的意味 ――」

杉本 耕一 「今村仁司の清沢満之論と「宗教哲学」の課題」

岩田 文昭(コメンテーター)  名和 達宣(司会・企画)

■ 『尊号真像銘文』試訳

内記  洸 「善導大師の銘文」(2)

■ リレーコラム「近代教学の足跡を尋ねて」

名和 達宣 「鎌倉市稲村ヶ崎・寸心荘」




『アンジャリ』第24号

(2012年12月)

■ Contents

天童 荒太 「死者を想像する日常―九・一一と三・一一を経て」

中村 桂子 「生命誌から見る現代社会」

佐野 章二 「問題の当事者が問題解決の担い手になる――ホームレス問題へのビッグイシュー日本の試み」

稲場 圭信 「東日本大震災を経ての宗教的利他主義」

渥美 由喜 「イクメンから始まる市民の三面性」

河北 秀也 「いよいよ始まる本来のデザイン」

山浦 玄嗣 「聖書における「祈り」の意味」

岩田 文昭 「近角常観の哲学とその活動」

小坂井敏晶 「近代社会の原罪」

■ 連載

本多 弘之 「欲生心の象徴的自覚」(Ⅱ)

■ 巻末コラム

法隆 誠幸 「木に育てられる」

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