『現代と親鸞』第52号
■ 研究論文
大胡 高輝
『教行信証』における『十住毘婆沙論』引文の位置(上)
――入初地品引文の焦点をめぐって――
■ 「宗教と教育」研究会
岡野 八代
ケアの倫理からみた人間観
■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会
髙橋 昌明
戦後日本中世史学における(被差別)身分研究の流れ
■ 連続講座「親鸞思想の解明」
本多 弘之
本願回向の行信 ――『一念多念文意』を読み解く―― (3)
大胡 高輝
『教行信証』における『十住毘婆沙論』引文の位置(上)
――入初地品引文の焦点をめぐって――
岡野 八代
ケアの倫理からみた人間観
髙橋 昌明
戦後日本中世史学における(被差別)身分研究の流れ
本多 弘之
本願回向の行信 ――『一念多念文意』を読み解く―― (3)
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『añjali』(あんじゃり)第45号
(2025年12月)
田中 瑛 「私たちは「本音」とどう向き合うか? ――「ポスト真実」の課題と対話」
辻󠄀 浩平 「ナラティブの衝突をどう乗り越えるのか――「境界」を行き来する」
栖来ひかり 「チェン・チェンポー? たん・てんぽー? ――小惑星「陳澄波」をめぐる台湾の多声性(ポリフォニー)」
柳澤 田実 「現実を肯定するためのファンタジー――ディズニーとPIXAR」
河野 有理 「親鸞はジャズ・ブルースである――藤田省三の「歎異抄ノート」をめぐって」
本多 弘之 「「よりどころ」を求めるということ」
マーサ・ナカムラ 「「おしゃれ」との出会い」
北川 眞也 「地図にならない「地」を踏みしめて――地下という垂直空間からの地上への問いかけ」
金 承福 「本の街・神保町で韓国の本屋を開きました。」
大胡 高輝 「ひめやかな愛惜について」
繁田 真爾 「「土崩瓦解」する世界と、「完全なる立脚地」」

古い時空について
研究員 大胡 高輝
いなかのひとびとということ
講師 本多 弘之
ケアの倫理からみた人間観
講師
同志社大学大学院
グローバル・スタディズ研究科教授
岡野 八代 氏
研究員 徳田安津樹
清沢満之「精神主義」を再考する
―研究交流会の成果と課題Ⅰ―
戦後日本史における(被差別)身分研究の流れ
講師
神戸大学名所教授
髙橋 昌明 氏
研究員 菊池 弘宣
■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻
愚禿釈親鸞の『正信偈』の銘文4
研究員 菊池 弘宣

哀しみと悲しみ
副所長 加来 雄之
本願自身が身になる
講師 本多 弘之
戦後歴史学と宗教研究
—— 教科書からこぼれおちたものを
「民衆」・「宗教」からみる——
研究員 飯島 孝良
「教える」という営みの豊かさを探る
研究員 徳田安津樹
<プロジェクトメンバー座談会>
近現代『教行信証』研究の
「これまで」と「これから」所感
研究員 大胡 高輝
愚禿釈親鸞の『正信偈』の銘文3
研究員 菊池 弘宣
加来 雄之
安田理深『興法』論文群における「実践」と「寂滅(本来性)」
――安田理深による「衆生」の「基礎づけ」(二)――
全体テーマ 宗教と家族――教えの継承と多様性
【提題Ⅰ】宗教二世と家族
菊池 真理子
【提題Ⅱ】性の多様性と日本仏教の現在地
若佐 顗臣
【提題Ⅲ】日本仏教と家族
大谷 由香
総合討議
コメンテーター 武内 今日子・加来雄之
全体テーマ
戦後歴史学と宗教研究――教科書からこぼれおちたものを「民衆」・「宗教」からみる――
【提題Ⅰ】芳賀幸四郎からみる戦中戦後の仏教史(禅文化史)を手がかりに
飯島 孝良
【提題Ⅱ】服部之總の親鸞・蓮如論が問いかけるもの――戦後日本宗教史研究の一断面――
近藤 俊太郎
【提題Ⅲ】安丸良夫の民衆史研究が問いかけるもの――歴史研究と宗教史研究の対話のために――
繁田 真爾
総合討議
コメンテーター 加藤 陽子
本多 弘之
本願回向の行信 ――『一念多念文意』を読み解く―― (2)
近現代『教行信証』
研究検証プロジェクト
研究紀要
― 第8号 ―

◆ 特別企画報告
プロジェクトメンバー座談会
近現代『教行信証』研究の「これまで」と「これから」
― 序・創造的解釈・親鸞像 ―
本多弘之・加来雄之・大胡高輝・青柳英司
名和達宣・藤原 智
◆ 研究論文
『教行信証』の慶長本と源覚本について
― 坂東本との近似性に関する一考察 ―
青柳英司
◆ 研究レポート
三浦叩石筆録『安田理深師述 信巻別序考一』
(解題・翻刻・解説)
加来雄之
「顕浄土真実信文類三」(信巻)標挙
青柳英司
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宮部 峻(J-Stageで公開)
親鸞から日蓮へ?
── 社会学史における浄土真宗理解についてのノート──
「ケアの倫理」から考える宗教教育の可能性
──真宗大谷派学校連合会の刊行物に注目して──
磯野 真穂
「わかりやすい救済」に抗うために
──リスク管理社会の人間観──
全体テーマ
世紀転換期の宗教思想運動Ⅱ
──近角常観・日蓮主義・哲学館──
【問題提起Ⅰ】
碧海寿広
近代仏教における「人格」の問題
──近角常観の修養批判──
【問題提起Ⅱ】
ブレニナ・ユリア
青年求道者と日蓮(主義)
── 雑誌『妙宗』における信仰告白の分析から──
【問題提起Ⅲ】
長谷川琢哉
「 宗教思想運動」としての哲学館
── 井上円了の仏教改良と哲学館出身者たち──
全体討議 コメンテーター 赤江 達也
コーディネーター 繁田 真爾
本多 弘之
本願回向の行信 ──『一念多念文意』を読み解く ── (1)
人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されているのが実態なのではないか。そして孤独と憂愁にとりつかれ、不安の生活に沈んでいくことが多いのではないか。
現代社会はこの方向に進展し、資本主義社会において功利性を追い求め、合理性を追求する結果、人間の本来性から遠ざかっていくように思われてならない。その合理性の追求は、真理の基準を人間の理性に置いているのだが、その方向が遂にAIをも生み出し、人間自身の存在の意味すら危ういものとされてきているのである。
ここに掲げた「存在の故郷」というテーマは、仏教の教える「真如」とか「一如」を存在が帰るべき故郷といただくことにおいて、人間存在が帰るべき本来性を解明しようとするものである。存在の本来性を回復することによって、生存状況それ自体に充足し満足できる道が与えられることを開示しようとするものである。
仏道とは、存在の本来性の回復である菩提(その本来性たる無我、涅槃、一如などと表現される無為法を覚ること)に向かって、自己の満足成就を求める道である。その求める行為は、実は存在の本来性からの「故郷へ帰れ」という呼びかけなのだと了解したのが、浄土教の歩みであった。その呼びかけを唐の善導は「他郷には停まるべからず」と教え、「帰去来(いざいなん)」と呼びかけている。「安楽浄土」という表現には、この現世を「五濁悪世」と気づかせ、生存の成り立っている場所の問題性を相対化することにより、自己の本来性への課題に目覚めさせる意義がある。
しかるに、その存在の根源への呼びかけは、「菩提心」として相続され、仏教徒である限り抱くべき精神的支柱と考察されてきた。その課題を、私たちを浄土へと呼びかける根源的な願(本願)とすることにより、大乗の大菩提が一切衆生に成就することが誓われることとなる。この本願の思想においては、この課題を担う真の主体は、一切衆生の根源的主体たる法蔵菩薩であると教えられる。すなわち個人的な菩提心の課題であったものが、衆生一切の根本的な課題となるのである。そして法蔵菩薩は、一如宝海から立ち上がったと解釈されることとなる。個人的な願心たる菩提心は、この広大なる願心に包まれ、この願心の成就を信ずることで、大乗の大涅槃を成就する道に立てるとされてくるのである。 了
(2025年元旦)
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『añjali』(あんじゃり)第44号
(2024年12月)
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村上 克尚 「動物という迷い路」
河﨑 秋子 「人間と動物を分かつ壁の向こう側」
瀧瀬 尚純 「動物を弔う禅僧たち」
保井 啓志 「イスラエルにおいて戦争に動員される人間/動物の境界」
本多 弘之 「衆生の生命を受けるとは」
吉田 真樹 「光源氏の隠遁」
三沢 亜紀 「「満蒙開拓」の被告席―学び合いの場から考える―」
石原 正晴 「新宿沖」
田村 晃徳 「「心のある人」に」
菊池 弘宣 「「なめとこ山の熊」と「猟師」に教えられる実存的課題」
曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えることによって、浄土への往生を得た衆生に大乗菩薩道の完成たる仏の位を与え、人間存在の完全満足たる大乗仏教の大涅槃(阿耨多羅三藐三菩提)の成就を与えるのだと、明らかにされたのであった。
曇鸞大師は『浄土論註』において、天親菩薩が語っていることを、衆生が菩薩道を成就するとは、自分が成仏道を成就するとともに、利他すなわち他の衆生にも仏道を成就させることであるとし、浄土と穢土とを往復することで、それが成就するのだと解明されたのであった。
しかし、愚禿の自覚で法然の説く浄土教に帰した親鸞は、この浄土の利益は大悲の教えの内容であり、その意味において、この利益が徹底的に阿弥陀如来の本願の用(はたら)きであると受け止め、曇鸞の解釈を受けながら、この穢土と浄土の往還の用きを如来の願力の表現として受け止められた。すなわち天親菩薩の説く本願力回向が、「如来の二種回向」として衆生に用くことを示しているのであって、それを衆生は信受するのだとしたのである。
菩薩道の課題を語る『華厳経』が、菩薩道の締めくくりで「普賢菩薩」の名を出している。「普賢行願品」がそれであるが、その課題が阿弥陀の本願においては第二十二願で語られている。この課題は、願文では「十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して、無上正真の道を立て」(『無量寿経』上巻)*る、とされてあり、その願いが阿弥陀の浄土の利益として成り立つのであって、浄土の菩薩には普賢菩薩の行が自(おの)ずから出てくるのだ、と示されている。
天親菩薩は、『願生偈』で阿弥陀の浄土の菩薩功徳を語るところに、「一念および一時に、普く諸仏の会を照らし、もろもろの群生を利益す」*と語られている。この菩薩の用きを、親鸞は「罪悪生死の凡夫」・「生死罪濁の群萌」たる我らへの呼びかけとして受け止めた。そして浄土から用き出た菩薩とは『無量寿経』の本願を起こす法蔵菩薩である、と信受された。
それを晩年の仮名聖教『一念多念文意』に、「一如宝海よりかたちをあらわして、法蔵菩薩となのりたまいて、無碍のちかいをおこしたまう」*と表現される。そこに、この一如宝海が『浄土論』の不虚作住持功徳の「功徳大宝海」*に由来することが語られ、浄土の功徳とは、形なき法性・涅槃・一如をかたちのごとくに語る言葉であるとされたのである。
(2024年12月1日)