「インドで年越しそばを啜る」(佐々木美佳氏) その他7本のコラム

『añjali』WEB版 2023年5月1日号
佐々木美佳
乗代 雄介
見田村千晴
牟田 都子
加来 雄之
キルケゴールとニーチェの何が同じなのか―ヤスパース『理性と実存』を読む一視点―
越部 良一
長谷川琢哉
青柳 英司

『añjali』WEB版 2023年5月1日号
佐々木美佳
乗代 雄介
見田村千晴
牟田 都子
加来 雄之
キルケゴールとニーチェの何が同じなのか―ヤスパース『理性と実存』を読む一視点―
越部 良一
長谷川琢哉
青柳 英司

牟田 都子 MUTA Satoko
校正者
しょっちゅうものを忘れたり落としたりしている。ハンカチ、マフラー、読みさしの本。性格だからもはや直らないとあきらめているけれど、あきらめきれないのは「落としましたよ」と声をかけてくれた人に対する自分のふるまいだ。仏頂面のまま口の中でもごもごと謝意らしきものをつぶやければましなほうで、ときには逃げるように立ち去ってしまう。恥ずかしさが先に立ち、満足に礼も言えない自分のちっぽけさがほとほといやになる。
本の校正は、編集者や著者に「落ちてましたよ」と声をかける仕事だといえる。ゲラ(校正のための試し刷り)を読んで誤字脱字、文法の誤りや事実関係の混乱などを指摘することを「拾う」という。完璧な人間などいないから、どれほど注意深い著者であってもゲラの上には何かしら「落とし物」が残っている。
気を遣うのは「うっかり」に見えて「あえて」の場合もあるからだ。小説の中で友人を訪ねた主人公が、三鷹市井の頭六丁目にあるアパートの呼び鈴を鳴らす。調べると「三鷹市井の頭」は五丁目までしかない。そこで「六丁目」を「誤り」と考えるのは早計で、実在の風景に巧みに虚構を紛れ込ませる著者もいる。そうした著者に「落としましたよ」と大声で呼びかけたら、叱られてもしかたがない。かと思えば、「井【之】頭一丁目」が単純な書き間違いということもあって気が抜けない。
「落ちてましたよ」と声をかけて、まれに反発を受けることがある。自分が書く側に回ってみると、ゲラに鉛筆で書き込まれた校正者の疑問や提案を見るのは、己の粗忽さを思い知らされることであると得心がいった。ハンカチを差し出されるときと違うのは、こちらに心の準備があることだ。校正者は著者のさまざまなミスを指摘し、解決策を提案する。著者はそれが校正という仕事だと理解しているから耳を傾ける。指摘する側とされる側、双方に構えができている。十分な構えができていない相手の場合、恥をかかされたとか、けちをつけられたと感じてしまうのかもしれない。顔が見えず、声も聞こえない紙の上での意思疎通の難しさには、15年経っても慣れることはない。
仕事を離れて本を読むときは落とし物係の名札をはずすよう努めているが、思い入れのある本ほど、わずかな瑕疵も気になってしまう。目をつぶっていても拾えるような誤植がなぜ残ってしまったのかと口にしてしまったとき、裏にどのような事情があったのかを想像したいと諭してくれたのは、同業の大先輩だった。穏やかな口調ながら胸に突き刺さったのは、「自分なら拾えていた」という思い上がりを見透かされたからだろう。若いうちにそう言ってくれる先輩を持ったことは幸運だった。
人間はかならずミスをする生き物で、ミスを防ぐための専門職である校正者といえども、その宿命からは逃れられない。何週間もかけてゲラを読み込み、手に入るかぎりの辞書や資料にあたって誤りを残すまいと努めても、できあがった見本を開いたそこに誤植を見つけてしまうということを、この仕事をしていれば一度ならず経験するのではないだろうか。誤植を見逃すことを「落とす」といって、落とし物係が落とし物をしていては洒落にならないのだが、絶対に落とさない校正者は絶対にいないと言っていい。どんなに有能な校正者であっても、いつかはかならずミスをするもの……と同業の夫に言ったところ、「いつか」ではなく「いま」ではないか、と返された。私たちが誤植を「拾って」いるとき、裏では常に「落として」いる。そう思ってゲラに臨まなければならないというのだ。その意味で私たちは失敗の経験だけは豊富な、失敗のプロフェッショナルといえるかもしれない。
先日、学校で使われている教科書に大量の誤植が見つかったという報道があった。大きな声では言えないが、どれほど有能な校正者が目を光らせていても、誤植のひとつやふたつは残ってしまうものではないかと思う。とはいえ1200ヵ所というのはけたが違いすぎる。誤りのある教科書を使い続けることによって「学習上の支障を生ずるおそれがある」と判断した出版社は、修正・刷り直しの上で再配布すると発表した。なぜそのような事態が起こったのか、犯人を追う探偵のような推測や憶測が飛び交っていたけれど、ほんとうの事情は当事者にしかわからない。当事者でさえ十全にはわからないということもあるだろう。問うというより責める響きを帯びた「なぜ」にさらされている関係者の胸中を、思わずにはいられなかった。
誰もが「いつか」ではなく「いま」この瞬間にもミスをしているかもしれないと考えれば、人の失敗を必要以上に責めることは難しくなるのではないだろうか。ミスが起きてしまったとき、原因を突き止めること、再発を防ぐ仕組みを工夫することは大切だ。だが、そのためにはまず指摘しやすく、打ち明けやすい、誰もに「構え」のできている環境であってほしい。明日はわが身、お互い様だと笑って言い合えるくらいが丁度いいと思うのは、甘いだろうか。
牟田 都子 MUTA Satoko
校正者。著書に、『文にあたる』(亜紀書房、2022)、
共著に『本を贈る』(三輪舎、2018)、
『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』(亜紀書房、2020)など。
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