善導の言う「能生清浄願往生心」を、親鸞が「能生清浄願心」(『教行信証』信巻)と表現することについて、前回から考察している。二河譬で言われる「清浄願心」は、決して凡夫個人の「願生心」ではなく、如来回向の「金剛の信心」であると親鸞が了解したことが、「信巻」で押さえられている。如来回向の信心は、大悲の願心によって根底から支えられていて、「われら凡夫」に発起するように思われるけれども、個人の能力によって起こるのでなく、法蔵願心の「能」く発起するところだと、親鸞は感得されたのである、と思う。

 本願文の欲生心とは如来の願心であり、それが回向表現して真実信心として我等に感じられるということである。これによって信心に「金剛」の質が確保されるのであるから、いかなる条件によろうと破れず壊れないことが確信として示されてくるのである。

 この願力による信は、凡夫における意識レベルに対して、いかなる意味で相続しているのであろうか。というのは、我らに現行している意識は、生滅し流転していて、一瞬もとどまることがない。にもかかわらず、どうして信心が堅牢にして純潔なる金剛という質であると言えるのか、という問題が感じられるからである。

 この難問は、有限なる存在が有限のみにとどまるなら、決して解決し得ないであろう。有限なる身心を、無限なる大悲心に投げ入れるような決定的な回心の展開においてのみ、この矛盾が矛盾にとどまることを脱出し得るのではなかろうか。

 そもそも誓願の発起について「超発」と言われているのだが、この「超」とは、有限なる我等を超越して起こることを意味しているのであろう。そうであるから、我等にとっては「不可称・不可説・不可思議」であると言われるのである。この不可思議なる誓願が、有限の我等のレベルに関係するということは、どういうことが起こることであろうか。

 さきに有限・無限という言葉を出してみたが、この言葉で少しく考察を進めてみたい。まず無限は、どのような有限性をも超えていると言えよう。いま考察しようとする無限は、大悲とも言われるように、一切衆生を包み摂しているというイメージが示されている。有限存在がいかなる状態であろうと、いかなる条件があろうと、必ず摂しているのが無限なのである。これを「摂取不捨」であると表現されている。我ら有限なる存在には、この不可思議なる無限は、有限の努力や苦労をいかに積み上げても到達できないし、感知することすらできない。ただ信ずるのみだとされるのである。

(2023年3月1日)

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 善導のいわゆる「十四行偈」の出だしの「道俗時衆等 各発無上心 生死甚難厭 仏法復難欣 共発金剛志 横超断四流」の問題である。この偈文に、了解しにくい内容がある、と思う。菩提心が「各発」という意味であるならば、それは成就しがたくあるのに、「共発」として「金剛の志」であるなら「横超」において「四流(迷妄の生存)」を「断つ」ことができる、という偈の言葉が突然に出されているからである。そもそも発菩提心は、個人に発起する仏教的意欲(仏に成りたいという意志)を表している言葉であるし、それが「共発」として「金剛」であるように発起するということは、かなり「困難」だとも思えるからである。

  この点について、先回は親鸞の気づいた善導の着眼について注目し、二河譬の意味を提示しておいた。まずは西へ向かう人は貪瞋二河の前に独りたたずむものと示されるが、この譬喩が、例外なく誰においても気づかれてしかるべき譬喩である、ということである。

  そして、貪瞋二河を超えて彼岸として表現されているものは、その方向の前に、自分の力を頼りにして生きるあり方の無効なることを、三定死によって気づくことである。即ち、有限なる存在が、無限を求めることの不可能性の自覚であろう。この気づきは、「西に向かって往こう」という決断に導くとされる。この決断を、「能生清浄願往生心」と善導は表現する

  この願心は、この譬喩の了解としては、個人の意欲であると理解される。しかし、個人の意欲であるなら、いかにして「金剛」という質を確保できるかという課題が、残されることになる。そしてその個人の意志で彼岸に渡るということを、此の岸からは教主釈尊が勧めるし、彼岸からは阿弥陀如来が招喚すると表現されている。

  これは、「各発」の意欲として菩提心が了解されているならば、無上菩提の達成は困難であるどころか、達成不能に陥ることが、「われら」凡夫の存在に自覚され、その「われら」が「みな同じく等しく」、「共発」として「彼岸」へと帰入すべきであることが、暗示されているのであろう。

  そして、親鸞はこの善導の表現する「能生清浄願往生心」という「意欲」を、「能生清浄願心」 と表現し直して、「往生」の語を外している。ここに、「能」の文字があることと、この意欲が決定的に「金剛心」であることを根拠づけるものは、決して個人の事情や条件で発起する意欲ではあり得ないということと、その達成を可能とするものは、本願として表現されてくる無限なる「大悲」それ自体なのだ、ということであろう。

(2023年2月1日)

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