磁場に置かれた曲がった釘
加来 雄之 KAKU Takeshi
西田幾多郎(1870-1945)は、最後の完成論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)の中で、対象論理と場所的論理という二つの論理を区別したうえで、次のように述べている。
- 真の他力宗は、場所的論理的にのみ把握することができるのである。
(『西田幾多郎哲学論集Ⅲ』岩波文庫、1989年、370頁)
現代思想において「真の他力宗」、つまり親鸞の思想の本質を明らかにしようとするとき、この「場所」もしくは「場」という受けとめ方が有効な視点となるかもしれない。
キリスト教の神学者である八木誠一氏は、(人格主義的神学に対して)場所論的神学を説明するとき次のような譬喩を提示されている。
- 軟鉄の釘には磁性がないから、釘同士は吸引も反発もしないが、それらを磁場のなかに置くとそれぞれが小さな磁石となり、それらの間には「相互作用」が成り立つ。……磁石のS極とN極のように、区別はできるが切り離すことができないもののことを「極」という。極と対極とは性質は違うが、単独では存立できない。
(八木誠一『場所論としての宗教哲学』法藏館、2006年、4頁)
八木氏は、神の場における個のあり方を、磁場に置かれた釘が磁石になること、磁石となった釘がS極とN極の二極をもつこと、それらの磁石となった釘同士の間に相互作用が成立することに譬えておられる。また、かつてアメリカ合衆国のバークリーにある毎田仏教センター長の羽田信生氏が、如来の本願と衆生との関係を磁場と釘に譬えられたことがあった。二人のお仕事を手掛かりに、私も親鸞の「真の他力宗」を、磁場に置かれた釘に譬えて受けとめてみたい(以下①~⑤)。
①軟鉄の釘であれば、大きな釘であっても小さな釘であっても、真っ直ぐな釘であっても曲がった釘であっても、強い磁場の中に置かれると、その釘は磁石の性質を帯びるようになる。釘の形状は問わない。
曇鸞は、他力を増上縁と述べ(『浄土論註』取意、『真宗聖典』195頁参照)、親鸞は「他力と言うは、如来の本願力なり」(『真宗聖典』193頁)と言っている。強い磁場、つまり強い磁力をもった場は、如来の本願のはたらきの譬えであり、さまざまな形状の釘は多様な生き方をする有限な私たち衆生の譬えである。釘が強力な磁場の中に置かれることは、衆生が如来の本願力に目覚めることの、軟鉄の釘が磁気を帯びて磁石となることは、衆生が如来の本願力によってみずからの人世を生きるものとなることの譬えである。
強い磁場の中に置かれた軟鉄の釘が例外なく磁力をもつように、如来の本願力に目覚めた衆生は斉しく本願によって生きるものとなる。また如来の本願力についての証人という資格を与えられる。八木氏は、先に引いた著作の中で、神の「場」が現実化されている領域を「場所」と呼び、「場」と「場所」を区別することを提案されているが(詳細は氏の著作を参照)、その提案をふまえて言えば、衆生は如来の本願のはたらきという「場」においてそのはたらきを現実化する「場所」となるのである。
②磁場に置かれ、磁石の性質を帯びた釘は、等しくS極とN極をもつ。SとNの二つの極は対の関係にある。二つの極は区別できるが切り離すことはできない。
S極を衆生(Shujo)の極、N極を如来(Nyorai)の極に譬えてみよう。(語呂合わせを使うと譬喩が安易に感じられてしまうかもしれないが、わかりやすさのために仮にこのように割り当ててみた。)如来の本願力という場に置かれた私たちの自覚は、衆生のS極と如来のN極という二つの極をもつ。S極は、衆生の迷いの自覚の極まりである。衆生の自覚の極は如来の眼によって見(みそなわ)された「煩悩具足の凡夫」という人間観を深く信ずることである。N極は如来の本願のみが真実であるという自覚の極まりである。如来の本願力という場に入ると私たちはこの二つの極をもった自覚を生きる者とされるのである。
③磁石の性質を帯びた釘のN極だけを残したいと思って、何度切断しても、どれだけ短く切断しても、磁場にある限りつねに釘はS極とN極をもつ。
衆生の自覚は嫌だから、如来の自覚だけもちたいというわけにはいかない。如来の本願力の場における自覚は、衆生としての迷いの極みと如来としての真実の極みという二つの極をもつ自覚である。どちらか一方の極だけを選ぶということはできないのだ。またこの二つの極をもつ自覚に立たなければ、その自覚は真の意味での「場」の自覚とはいえない。このような自覚は、「を持つ」と表現できるような認識でなく、「に立つ」とか「に入る」と表現されるような場所論的な把握であろう。
④磁力を与えられた釘の先端(S極かN極)には、別の釘を連ねていくことができる。N極に繋がる釘の先端はS極になる。二つの釘は極と対極によってしか繋がらない。
私たちが如来の本願力を現実化している人に連なろうとすれば、私たちは衆生の極をもってその人の如来の極に繋がらなくてはならない。如来の極をもっては如来の極に繋がることはできない。衆生の極においてのみ真に如来の極を仰ぐことが成り立つのだ。むしろ如来の極に繋がるときに、はじめて衆生の極も成り立つと言うべきかもしれない。
「真の他力宗」の伝統に連なるときもそうなのだろう。法然の自覚のS極の対極であるN極に、親鸞のS極の自覚が繋がるのである。だからこそ親鸞にとって法然は如来のはたらきとして仰がれることになる。私たちも親鸞の自覚のN極にS極をもって繋がる。そして私たちの自覚は二つの極をもつ場所となる。
⑤強い磁場に置かれていると軟鉄の釘も一時的に磁石となり、磁場を離れても磁力を保つが、長くは持続しない。
長く如来の本願力の場に置かれた衆生が一時的にその場を離れても、その自覚は持続する。しかし勘違いしてはならない。その衆生は決して永久磁石になったわけではない。『歎異抄』の第九章(『真宗聖典』629〜630頁参照)が伝えるように、場を離れた自覚は持続しない。
私たちは永久磁石ではない。永久磁石であれば磁場に置いておく必要はないから。私たちは金の延べ棒でもない。金であれば磁場におかれても磁力をもつことはないから。軟鉄であっても錆びると磁力をもつことはできない。錆びるとは衆生としての痛みを忘れることに譬えることができる。
私は小さな曲がった釘である。私は、如来の本願力という磁力の場に置かれた小さな曲がった釘でありたい。私の課題は、永久磁石になることではなく、如来の本願力という磁場の中に身を置き続けることである。それは贈与された教法の中で如来からの呼びかけを聞き続けること、つまり聞法である。私はこの身を如来の本願力という場に置き、如来の本願力を現実化している場所と連なっていくことができるように努めたいと思う。
「譬喩一分」と言うように、この譬喩で、親鸞の思想を厳密にあらわすことはできないし、また他にも共同体の形成などの問題を考慮しなければならないが、少しでも「真の他力宗」をイメージするための手がかりになればと思う。
(2024年元日)
加来雄之 KAKU TAKESHI
元大谷大学文学部真宗学科教授。
大谷大学名誉教授。
現在、親鸞仏教センター副所長。
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今との出会い 第173回「「個人的な救い」から「十方苦悩の衆生の中に自己一人(いちにん)を感じる救い」へ」

親鸞仏教センター嘱託研究員
菊池 弘宣
(KIKUCHI Hironobu)
たとい大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名(みな)をきくひとは
ながく不退にかなうなり
(「浄土和讃」『真宗聖典』 481頁)
たとえ世界が憎悪で渦巻き、火の海と化したとしても、必ず乗り超えていく道筋がある。本願の名号・南無阿弥陀仏の義(いわれ)をよく聞き、信受する念仏者は、「個人的なさとり(救い)」にとどまるのを、永久に放棄する。自分自身を尊び、縁ある者を尊んでゆく。果てしない道を共に、きっと必ず歩んでゆくのである。
このご和讃は、お釈迦さま・親鸞聖人からわれわれに向けての、激励のメッセージであると言える。
世界の状勢に目を向けると、北朝鮮の核開発、ICBM(大陸間弾道ミサイル)の発射実験を巡って、アメリカ及び同盟国である日本・韓国との間に、一触即発の緊張関係が続いている。
イスラム過激派組織、IS(「イスラム国」)を巡っては、主にシリアやイラクで、今なお激しい戦闘行為が行われている。また、フランスやイギリス、スペインなど欧州諸国で、フィリピンほかアジア地域においても、ISの犯行声明による残忍なテロ行為が、繰り返されてきてもいる。
しかし、いかなる理由があるにせよ、紛争を解決するのに暴力的破壊行為に訴え、いのちを傷つけ殺害することは、存在の本来性・尊厳性に悖(もと)る間違いであると思う。深い痛みを宿す歴史を担った日本国民は、そう言い続けてしかるべきだとも思っている。
ただ、考えなくてはいけないことは、その根本のところに「疎外」という問題がある、ということである。それは、周囲から疎外されている、疎外感・孤立感とも言えるであろう。疎外を感じる心が、その周囲を不信し、嫉妬や忿怒(ふんぬ)、憎悪へ、怨(うら)みへ、復讐の念へと歪んでいき、限り無く増幅していくのだと思う。はじめ疎外を感じ、否定を受け続けた後、ついには背を向けて反逆する者に成っていく。その負のスパイラルこそ、本当に解決していかなければならない一人一人の主体的問題なのである。
そしてもう一方で、その「疎外」をもたらす周囲の「内輪的閉鎖性」という問題が、そこにあると思わずにはおれない。それは一言でいえば、「自分と自分の周りさえよければそれでいい、他は潰れてもかまわない」ということである。その本には、「自分一人たすかりさえすれば、それで満足」という意識がはたらいていて、それが連鎖し、凝り固まったものであるのにちがいない。
「内輪的閉鎖性」それは、普(あまね)く宗教に関わる者の陥る問題だとも思っている。それを大乗仏教の文脈に、冒頭のご和讃のこころに照らし合わせると、「不退(転)」とは真逆の「成仏道から退転する」という極めて致命的な問題である。そのことを「小乗仏教のさとりにとどまる」、すなわち「二乗の地に堕す」ともいい、共に生きている者との関係を切り捨てる「菩薩の死」であるといわれ、真に恐るべきことである。その「自分一人たすかりさえすれば、それでいい」という「個人的なさとり(救い)」にとどまっていることが実は、もめごと・紛争を生み出している重大要因とはいえないであろうか?
われわれ自身の生活の実相といえば、この「疎外」と「内輪的閉鎖性」との間を、繰り返し、往き来し続けているように思える。私自身、身を以ってそのことを実感してもきた。われわれの具体的な生活現場は、世界の縮図であると言える。そしてまた、一個の人間の内にその縮図が、そのまま宿されていくのである。その矛盾対立する双方の、共に救われていく道が明らかにならないことには、問題の抜本的な解決にはならないであろう。
今あらためて、私自身の抱える「内輪的閉鎖性」が、これまで「個人的なさとり(救い)」を躍起になって求めてきた姿が、今なお、そこにすがろうとする在り方が、問われてきている。
諸仏・善知識の讃嘆する名号・南無阿弥陀仏の義をよく聞き、念仏の信心をいただく。すなわち、阿弥陀仏の因位・法蔵菩薩の十方衆生の救いを誓う、自利と利他とが完全に円満する、麗しい願心荘厳の世界を憶念する。自らが思い破れ、私自身どこまでも、「我が心、自身に貪着する」強欲に溺れ、腐りゆく凡夫のままに。また、怨憎の炎に焼かれ、反逆し堕ちてゆく、罪深く悪重い凡夫であるがままに。
その凡夫を深くいたみ、「どうしても本来の願い・往生、成仏の一道に立たせたい」という如来大悲の本願のはたらきをたのむ。すなわち、「至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。唯五逆と誹謗正法とを除く」と。
本願の名号・南無阿弥陀仏という呼びかけとして具体化する、如来の勅命としての真実の欲生心が回向されるのを信受する。だからこそ、浄土を願生し、即ち往生を得る。現生において正定聚の位に住し、不退転地に住する。必ず無量光明土に至り、必ず滅度に至る。
現生において、大涅槃を証する真因を得る。必ず光あふれる仏に成る世界に還帰していく。
その南無阿弥陀仏という自己決定・自己確認を通して、同一に願われている十方一切の苦悩する衆生各自の救いを、自己一人(いちにん)の信のところで感じ、その内に受け容れ摂めていく。
自利利他円満している摂取不捨の光輝く救いの世界を、如来大悲の本願力を新たに仰ぐ。そこを立脚地とさせていただき、どこまでも、見失うかたちで背いていることを恥じつつ、傷みつつ。成果や評価、できたとかできないとか善し悪しに執われていく「自力のこころ」を立場とするのではない。「本願他力の信念」に依って、自己の外なる世界へ一歩足を踏み出す、「衆生」として開かれていく関わりを大切にする。
以上、私自身の信仰課題として、ここに明記させていただくこととする。
(2017年10月1日)
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