表現の「自由」の哲学的意味
越部 良一 KOSHIBE Ryoichi
「自由」は正反対の二つの意味をもつ。これをプラトンの言う魂の三部分で表現すれば、一つは魂の欲望部分の自由。もう一つは魂の理知の部分の自由、これは魂の知るはたらきが、感覚世界を超え、人間を超えた永遠の善美のイデアと結びつき、欲望部分(金銭欲で代表される)と気概の部分(勝利を求める)による囚われから解放されることである。これが自由の真実の意味である(前者は欲望への隷属)。
私に思うに、この真実義中の、思想・文学・芸術およびそれらに類するものの表現(以下、単に表現と記す)の自由には、三つの面がある。
一つ。法然が流罪にされる折、
「一人の弟子に対して一向専念の義をのべたまう。西阿弥陀仏という弟子推参していわく、かくのごときの御義ゆめゆめあるべからず候。[中略]上人のたまわく、汝、経釈の文をみずや。西阿がいわく、経釈の文はしかりといえども、世間の機嫌を存ずるばかりなり。上人のたまわく、我首をきらるとも、此事いわずはあるべからず」(「法然上人伝絵詞(琳阿本)」、井川定慶編『法然上人伝全集』。但し、漢字、かなは現行のものに直し、一部漢字はひらがなにしている。引用文中の[ ]内は越部注記、以下同様)。
表現の自由は、世間に囚われず、煩悩の命に縛られない。
二つ。小林秀雄は本居宣長の「神」についてこう述べる。
「何度言ってもいい事だが、彼[本居宣長]は、神につき、要するに、「何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)とは云なり」と言い、やかましい定義めいた事など、一切言わなかった。[中略]神は、[上古の]人々めいめいの個性なり力量なりに応じて、素直に経験されていたまでだ。そこで勢い、いろいろな神々が姿を現すことになったわけだが、そのような事を、特に意識に上す人はなかったのである。誰の心にも、「私」はなく、ただ、「可畏き物」に向い、どういう態度を取り、これをどう迎えようかという想いで、一ぱいだったからだ。言い代えれば、測り知れぬ物に、どう仕様もなく、捕えられていたからだ」(『本居宣長(下)』新潮文庫)。「神々は、彼等[上古の人々]を信じ、その驚くべき心を、彼等に通わせ、君達の、信ずるところを語れ、という様子を見せたであろう」(同上)。
表現の自由は、いろいろな個性、いろいろな真実、いろいろな善に対し開かれている。
三つ。ヤスパースは、プラトンの国家による検閲の考えを批判して言う。
「プラトンにより考えられた検閲[イデアを知り尽くした哲人王による文学、音楽等の検閲]を、人間は遂行する能力はない。こうした検閲は、繰り返し教会の、そして国家の権力者たちにより得ようと努められるが、退けられてしかるべきである。[中略]強制の圧迫のもとでは、精神は、反復したり変奏したりすることはできるが、創造的に産み出すことはできない。検閲は、ばかげたことと共に真理の可能性をも同時に窒息させ、雑草と共に穀物をも同時に根こそぎにするであろう。だから各々の人間が、自由な産出の権利をもたねばならない」(『原爆と、人間の将来』、原書から越部訳)。
表現の自由は、有限な人間にとって、悪しき表現を乗り越える動きの中にしかないのだから、悪しき表現をつねに目にとどめていなければならない。それは悪しき表現に批判的に対峙するが、しかし、強制なしにである。
善美と真実の根源たるかの無限のもの、測り知れぬものは、個の人をとらえ、個の人を感動させる。自由とは、自己でないかのものに、自己が由るということである。そこで初めて本当の自己(真実の自己存在、実存)が明らかになる。だから自らの表現の自由を抑圧するのは他の者だけでない。根本的には、命濁(みょうじょく)の自分が抑圧し(上の第一面に反す)、自己の真理の根源がもつ多様な可能性を認められぬ自分が抑圧し(第二面に反す)、自己の悪しき面を見まいとする自分が抑圧するのである(第三面に反す)。
かのものが語れという様子を見せるということは、人間関係の中で生きておれという様子を見せるということでもある。かのものは人間たちを結びつける。かの無限者が、特定のとき・ところで、有限な様々な姿形(すがたかたち)のうちに現象し、表現される際、そこで結びつけられる人間たちは限定された人たちである。その表現の根源たる、姿形なき、言葉で語り得ぬ、不可思議なるものとしては、かのものは、一切の存在を、それゆえあらゆる人間をも越え包む、一なるものと思考されうる。
表現の自由のかたき役に、人間たちの客観的な結びつき、集合体を表す「社会」がなることがあるのは、自由な表現と沈黙の出どころである超越者と実存の関係、社会を超出するこの関係を、社会が見失うことがあるからである。キルケゴールは言う。
「社会性という、現代において偶像化されている積極的な原理こそ、人心を腐蝕するもの、退廃させるものであり、だから人々は反省[情熱なき分別]の奴隷となって美徳[例えば命がけの勇敢さ]をさえ輝かしい悪徳にしてしまう。こういう事態になるというのも、個人個人が宗教的な意味で永遠の責任を負って、ひとりひとり別々に神の前に立っているということが見のがされているからのことでなくてなんであろう」(『現代の批判』桝田啓三郎訳、岩波文庫)。
人間が社会なしに存在しないからといって、社会自体の位階と分限を曖昧にすべきでない。魚が水なしで生きられないからといって、魚は水ではないし、水だけで生きているのでもなく、水のために生きていると言えるわけでもない。社会は自由を根底とすべきものであり、又、自由の可能性に奉仕すべきものだ。社会のこの位置づけと社会的責務が見失われ、社会が玉座にすわれば、表現の自由は消失する。
この文章の出だしですでに、私(越部)の内部に表現の自由などありはしないのだということがよく分かる。あるのは囚われである。しかし、それで済みはしないのは、かの剛毅な、独立自由の人たちが呼びかける、そう、社会の内で呼びかける、その表現が、私の心の内に入り込んで来るからである。だから私は、パティ・スミスにならって、こう言うのだ、
「社会の外側で、かの人たちが私を待ち受けている」。“Outside of society, they’re waiting for me.”(Rock’n’Roll Nigger, in Patti Smith Group, Easter, 1978)。
2025年3月1日
越部 良一 KOSHIBE Ryoichi
親鸞仏教センター嘱託研究員
法政大学・日本大学・立正大学、各非常勤講師
>>>「今との出会い」一覧
>>> TOPページへもどる
『現代と親鸞』第48号
■ 研究論文
伊藤 真 「佐々木月樵の弥勒信仰論 ―兜率天往生と西方浄土往生との関連から― 」
越部 良一 「穢土の往生(6)」
田村 晃徳 「「意志と祈り」としての願い ―鈴木大拙の本願理解―」
■ 清沢満之研究会
中西 直樹 「「近代仏教」再生の可能性と限界 ―新仏教と俗人登用の試みと挫折 ―」
■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会
原田 信男 「肉食の始原と否定・工程の論理」
■ 連続講座「親鸞思想の解明」
本多 弘之 「 浄土を求めさせたもの ――『大無量寿経』を読む ―― (34)」
>>>もどる
Aの報酬がAであるという事態
越部 良一 KOSHIBE Ryoichi
私はいったいいつから哲学し出したのか、という問いに、私はこう考えることにしている。それは12歳の時、ビートルズの「A Day in the Life」に出会った時であると。
大学教授であったカール・ヤスパースが、高齢になって大学を退職した後、自身の仕事場とした大学というものを回顧してこう述べている。「大学の理念というものを、大学入学以来、真剣に受け止めてきた一人の男が、この理念がほとんど通用していなかったドイツの大学企業体に入り込んだのだった」(ヤスパース『運命と意志』)。
精神的なものを求めて動いてゆきながら、精神を窒息させる状況に入り込む。精神の開放を求めて動いたのか、精神を閉じ込めるために動いたのか、わけがわからない。どこにでもあることだ。だから人は、その動いた初心を忘れないようにしなければならない。
次の表現は、こうした初心を示そうとしているのだと、私は見る。
- 「状況の中で状況と共に絶えず流転しながら、私がまだ存在しなかった暗闇からもはや存在しない暗闇へと、私は流れ落ちていく。[中略]流れ落ちてゆくにまかせながら、何かを掴まなければ、その何かは永遠に失われてしまうと考えて私は脅えるが、その何かが何であるのかがわからない。私は単に消滅するのでない存在を求める」
(ヤスパース『哲学』)
単に消滅するのではない存在、つまり永遠的なるものに遭遇する在り方を、ロック・ギタリストのロバート・フィリップ(キング・クリムゾン)は、音楽家にふさわしく、次のように表現する。
- 「音楽家が得る唯一の報酬は音楽である。音楽がわれわれを覆い、われわれにその秘密をあかすとき、音楽の現前のただ中に立つという恩典である。同じことが聴衆にも言える。この瞬間に、他のすべての物事は色あせ、力を失う。音楽の中にいるこの者たちにとって、これこそ、人生が現実になる瞬間である」
- (キング・クリムゾンの4枚組ライブCD『The Great Deceiver』のブックレット中のフィリップの文章)
初心とは、形式的に表せば、自らにとってAの報酬がAである、そうしたAに出会った心である。だが、こうした心をもってしても、人は、Bの報酬がCである、Cの報酬がDである、Dの報酬がEである…、というきりのない状況に、相変わらず絡めとられる。だからこの持続する状況を、Aの報酬がAであるという事態でもって突破してゆくこと、それが「希哲学」(philosophyの最初の訳語)たる哲学の、不断の課題となるのである。
(2023年6月1日)
>>>「今との出会い」一覧
>>> TOPページへもどる
キルケゴールとニーチェの何が同じなのか ―ヤスパース『理性と実存』を読む一視点―

越部 良一 KOSHIBE Ryoichi
親鸞仏教センター属託研究員
ヤスパースの『理性と実存』は、5つの講義から成り、その最初の講義でキルケゴールとニーチェをいわば同じ仲間として論ずる。しかし、この2人の何を同じだとしているのか、捉えるのは易しくない。ヤスパースの見る、2人を結び付けるものは、言葉を越えてゆくものなのだから。
ニーチェの思想を見る場合、永遠回帰とか超人とか力への意志とかに、キルケゴールでは、実存の三段階や絶望や不安などに眼をつけて、彼らの思想を捉えようとする、そうした仕方は普通にある。ヤスパースはここで、そうしたことへ深入りするそぶりが全くない。驚くべきことである。だがこの姿勢は、この2人の根本思考に厳密に忠実なのである。
「どこにも、有限性にも、意識的に把捉される根源にも、規定的に捉えられる超越者にも、歴史的な由来にも、最終的な支えは、彼らにとってはない」(ヤスパース『理性と実存』、越部良一訳、リベルタス出版、2023年。以下、引用はすべてこの拙訳から)。
ヤスパースが心底、眼を奪われているのは、彼らの規定されうるような諸思想ではなく、それらを越え包む何ものかである。
だから彼らの思考のいわば形、形式に、彼らの生き方、生きた形に眼をつける。例えばこうである。
「彼らにとって、ここでまた驚くべきことは、まさに彼らのできそこないの在り様それ自身が、彼ら特有の偉大さの条件であるということである。というのも、この偉大さは、彼らにとって、偉大さそのものではなく、時代状況に、その状況に固有なものとして属する、一回きりの偉大さなのであるから。注目すべきことは、いかに両者が、彼らの本質のこの側面に対しても、似たような比喩に思い至っているかである。ニーチェは自らをこう譬える、「でたらめな文字、見知らぬ力が、新しいペンを試すために紙の上に書く」。彼の病気の積極的な価値は、彼の絶えざる問題である。キルケゴールはしばしば思う、「神の暴力的な手によって抹消され、失敗した試みのように消し去られる」。彼は自らをまるで缶のふちに当って押し潰されるいわしのように感じる。彼に次のような思いが浮かぶ。「いつの代にも、他の人々の犠牲になり、ひどい苦悩のうちで他の人々に役立つものを……発見せねばならない2、3の人間がいるものだ」」。
この2人は現代ヨーロッパという時代と場所の「いわば代表的運命であり、犠牲者」なのである。しかも自ら進んで。「そのような犠牲なしでは決して気づくことはなかったであろう何ものか」、その前面には「何か途方もないこと」がある。ヤスパースは言う、「今の人は、過去の教説の全てを、書冊の意味では、以前の大哲学者たちの或る者が識っていたであろう以上に、ひょっとすると識っているかもしれない。しかし、教説に関する、そして歴史に関する、単なる知に変貌しているという意識、生それ自身から、そして事実信じられていた真理から解き放たれているという意識は、この伝統がいかに偉大であり、そして大きな満足を作り出してきたし、今も作り出していようとも、この伝統を、その究極的な意味において疑わしいものにしてきたのである。[中略]というのも、西洋の人間の現実のうちに、ひそかに、何か途方もないことが起っているからである。すなわち、あらゆる権威の崩壊、理性に対する溌剌たる信頼の徹底的な消滅、すべてを、全くもってすべてを可能にするように見える、結び付きの解消」。
実際上の無信仰のうちで、見かけ上何かを信じている風にすごしているという現代の状況、この状況の内にあって、「一方はキリスト教の信仰性をもち、他方は無神性を強調するという、まさに見かけ上は完全な本質相違性をもつから、それだけに彼らの思考の類似性は、ますます際立つものとなる。あたかもすべての過去のものがなおも存立しているかのような見かけのもと、実際は無信仰に生きているこの反省の時代において、信仰の拒否と自己を信仰へ強制することとは互いに属し合うものとなる。神なき者が信仰的に見え、信仰者が無信仰的に見えうる。両者は同じ弁証法のうちに立っている」。
現代の状況に沿いながら、その実、彼らが目指すものは、その状況がもつ、見かけ上の信仰と実際上の無信仰を、突破することなのである。この突破は、時代を超え、世界を超える。彼らは共に命がけの人間である。「彼らは一つの道を行くが、この道は、彼らにとっては、超越的な支えなくしては歩み通され得ない。というのも、彼らが反省するのは、平均的な現代性がするように、生命欲と生命関心という自明の限界をもってしてではないから。すべてか、しからずんば無か、それが問題である彼らは、限界のないことを敢えて行う。しかし、このことを彼らが行うことができるのは、ひとえに、彼らがはじめからあのものに根ざしているがゆえであり、それは、彼らにとっては同時に隠れているのである。すなわち、両名とも彼らの青年時代に、知られぬ神について言及している」。
「彼らの現存在の孤立無援、できそこなってあるものにして偶然的なもの、そうしたものと、彼らのもとで大きな対照をなしているのは、彼らを見舞うあらゆる出来事の意味、意義、必然性についての、人生が進むにつれ深まりゆく彼らの意識である。キルケゴールはそれを摂理と呼ぶ。彼は次のような神的なものをそこに認識する。「ここで起き、言われ、進行する等々すべてのことは、前兆であるということ、事実的なものは、それが何かはるかに高いものを意味するように、いつでも変貌するということ」」。
だからヤスパースは、彼ら自身では意識することが不可能な事実的なもの、彼らが40代でもう彼らの人生の突然の終りを迎えたこと等の、彼らの人生行路の共通性を指摘する。「まったく理解の無い反響に面するという運命も、彼らに共通であった」。彼らは、「この時代にとって、単に一つのセンセーションにすぎなかった」。「こうして彼らの影響力は、彼らの本質の、そして思考の意味に反して、限界なく崩壊させるものとなった」。彼らの交わりの追求は、だから、生前においてのみならず、死後もその趨勢において挫折した。
ヤスパースが見ようとするのは、彼らを包んでいる、知られぬあるものである。普通の、つまり、ただの人間的な見方では、例えば病気が「偉大さの条件」とされたりはしない。ここでは人間的視点を越えるものこそが、大なるものなのである。それが彼らを真に結び付ける。彼らが同じであることに驚くということは、そうしたものに、その者がふれているということであり、その知られぬものから問いかけられ、返答を迫られるということなのである。『理性と実存』という書物は、その返答の試みの書である。
この試みは、彼らの、掴みうるようにされた思想に従うことではあり得ない。彼ら自身がそのことをはねつける。「彼らは我々を立ち去らせる。我々にいかなる目標も与えず、いかなる規定された課題も立てはしない。個々の誰もが、彼らによって、自分自身であるものに成れるだけである」。
彼らを読むとは、そして彼らに対峙するこの書を読むこともまた、根本的に、その知られぬものに、自分自身が向かうということである。
越部 良一 KOSHIBE Ryoichi
親鸞仏教センター嘱託研究員
>>>Next 上七軒猫町体験
目次にもどる■ 巻頭言
宮部 峻 「みてこさる」
■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告
講師 本多 弘之 「究極的関心」
報告 越部 良一
■ 清沢満之研究会報告
谷釜 智洋 「『精神界』誌上にみる「浩々洞註」という名のり」
■ 近現代『教行信証』研究検証プロジェクト報告
講師 伊藤 顕慈 「真宗教学史における慶秀の位置と教学理解」
報告 青柳 英司
■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻
菊池 弘宣 「聖覚和尚の銘文」①
■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」
長谷川琢哉 「江村秀山(1845〜1903)」
>>>Back
■ 巻頭言
加来 雄之 「思想の「場」」
■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告
講師 本多 弘之 「涅槃、本当に生きることができる場所に立つ」
報告 越部 良一
■ 連続講座「親鸞思想の解明」報告
講師 木村 哲也 「忘れられた存在を語り直す/忘れられた存在と出会い直す―ハンセン病問題と駐在保健婦―」
報告 菊池 弘宣
■ 第7回清沢満之研究交流会報告
テーマ:近代の宗門教育制度と清沢満之
江島 尚俊 「明治前期・真宗大谷派における教育制度の特徴—他宗派との比較から考える―」
川口 淳 「メディアにみる大谷派教育と改革運動 —明治20年代の一考察」
藤原 智 「清沢満之と真宗大学(東京)の運営」
林 淳(コメンテーター)
東 真行(司会)
長谷川琢哉(開催趣旨・報告)
■ 聖典の試訳(現代語化)『尊号真像銘文』末巻
菊池 弘宣 「源空聖人の真像の銘文( 『選択集』 に関する銘文)③」
■ リレーコラム「近現代の真宗をめぐる人々」
田村 晃徳 「寺川俊昭(1928〜2021)」
>>>Back
プロフィール
専門領域
実存思想(ヤスパース)、浄土教思想(法然、親鸞、証空)、日本思想(伊藤仁斎、清沢満之、小林秀雄)
略歴
1961年大阪府生まれ。
一橋大学社会学部卒業。
早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。
同研究科博士課程単位取得満期退学。
現在、親鸞仏教センター嘱託研究員、法政大学・日本大学・立正大学、各非常勤講師。
所属学会
日本宗教学会、「宗教と社会」学会、戦争社会学研究会、関東社会学会、社会学理論学会

今との出会い 第229回「哲学者とは何者か」

親鸞仏教センター嘱託研究員
越部 良一
(KOSHIBE Ryoichi)
今、ヤスパースの『理性と実存』を訳しているので、なぜ自分がこうしたことをしているのかを書いて見よう。
小林秀雄は言う、「本当にいい音楽とか、いい絵とかには、何か非常にやさしい[易しい]、当り前なものがあります。真理というものも、ほんとうは大変やさしく、単純なものではないでしょうか。現代の絵や音楽には、その単純なものが抜け落ちています。そしてそれは現代人の知恵にも抜けていることを、私は強く感じます」(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』〔新潮社、2014〕 ※[ ]は引用者補足、以下同様)。
本当の哲学思想もおそろしく単純なものである。その単純なものを表現するのは難しい。否定的に表現する方が簡単である。例えば、法然流に言えば、哲学者(勿論、私のことではない)とは、「名聞・利養・勝他」によって動くことはない人のことである。複雑なものとは、ただ人に向う動きである。だから法然は「人にすぎたる往生のあた[仇(あだ)]はなし」(『法然上人絵伝』)と言う。だからといって、名聞、利養、勝他から遠ざかれば、そのおそろしく単純なやさしいものに近づくのかというと、そうとは限らない。それが単なる人の動きであれば同じことである。
だから、このおそろしく単純な事態を肯定的に表現すると、例えば、「自己自身に関わり、そのことによって己(おのれ)の超越者に関わる」(ヤスパース『哲学』)。しかし、どんな肯定的な表現も、また延々と説明できる。この表現でも「超越者」について。肯定的にして否定的に表現すると、例えばこうである。「[哲学の]語りにおいて、いつでも何か向け変えるものが存在し、その結果、存在の根拠が触れられるのは、むしろ、私がその根拠を捉えることのうちで、その根拠を名づけないことによってである。しかしこのことは再び、ただ次のときにのみある。私がその[名づける]ことを意図的に回避する――それは人為的な、単なる修辞的な文章技術である――のでなく、[この名づけないことを]全くもって意図されないものとして経験するときである。私が何に依って存在し、そして生きるのか、その何ものかを、私はただ次のようにしてのみ語ることができる。語られたものにおいて把握できる在り様ではそのものを逸し、そして、逸することによってそのものを間接的にまさに顕(あき)らかにする、というように」(『理性と実存』)。「向け変える」とは、魂を向け変えることである。名づけられるものから名づけられないものへ向け変えるのである。
大学院(早稲田大学)での恩師、伴博(ばん・ひろし)先生は、なぜ自分がヤスパースを好んで読むのかについて、哲学思想の力というものは、論理展開の厳密さや深さといったものでは測り切れないものだ、という意味のことを言っておられた。自分も又、ただひたすら、その測り知れぬ、単純なやさしいものに関わることを願うばかりである。
(2022年5月1日)
最近の投稿を読む

今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」
2022年8月01日
今との出会い 第231回「病に応じて薬を授く」 親鸞仏教センター主任研究員 加来 雄之 (KAKU Takeshi) 「また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆえに、「善知識」と名づく。何をもってのゆえに。病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆえに。」(『教行信証』化身土巻、『真宗聖典』354頁)…
続きを読む

今との出会い 第230回「本願成就の「場」」
2022年6月01日
今との出会い 第230回「本願成就の「場」」 親鸞仏教センター嘱託研究員 中村 玲太 (NAKAMURA Ryota) 「信仰を得たら何が変わりますか?」――訊ねられる毎に苦悶する難問であり、断続的に考えている問題である。これは自身の研究課題とする西山義祖・證空(1177…
続きを読む

今との出会い 第229回「哲学者とは何者か」
2022年5月01日
第229回「哲学者とは何者か」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi) 今、ヤスパースの『理性と実存』を訳しているので、なぜ自分がこうしたことをしているのかを書いて見よう。…
続きを読む

今との出会い 第228回「喪失の「永遠のあとまわし」―『トロピカル〜ジュ!プリキュア』論―」
2022年4月01日
第228回「喪失の「永遠のあとまわし」―『トロピカル〜ジュ!プリキュア』論―」 親鸞仏教センター嘱託研究員 長谷川 琢哉 (HASEGAWA Takuya) 娘が4歳になって幼稚園に通うようになると、プリキュアを見るようになった。それまでは恐竜や妖怪の人形でおままごとをしていた娘が幼稚園の友達の影響でプリキュアを見るようなったことに対しては、感慨とともに若干の寂しさを覚えたが、私が日曜朝の『トロピカル~ジュ!プリキュア』(以下、『トロプリ』。ABCテレビ・テレビ朝日系列にて放送)を娘と一緒に楽しみにするようになるまでほとんど時間はかからなかった。…
続きを読む
No posts found

著者別アーカイブ
一部のコンテンツは無料でPDF版をご覧いただけます.
『añjali』(あんじゃり)第41号
(2021年12月)
■ 特集「〈いのち〉という語りを問い直す」
中村 玲太 「〈いのち〉という語りを問い直す」(特集趣旨)
森川 輝一 「誕生を祝うために」
池澤 春菜 「ヒトのイノチの先に」
岩田 文昭 「いのちの否定と肯定」
大谷 由香 「日本仏教における「慈悲殺生」の許容」
■ 連載
本多 弘之 「宗教と根本言」(Ⅸ)
■ Essais
渡辺 優 「「俗」へのまなざし」
天畠 大輔 「「あ、か、さ、た、な」で能力を考える」
宮本 ゆき 「核兵器と「悪」」
山田由香里 「祈りの造形を削り出す――鉄川与助の手仕事が生んだ聖なる空間」
■ 交差点
長谷川琢哉 「ありがたい〈いのち〉と無慈悲な〈生命〉」
越部 良一 「帰命の命」
>>>『añjali』一覧にもどる