『現代と親鸞』第52号

■ 研究論文

大胡 高輝
『教行信証』における『十住毘婆沙論』引文の位置(上)
――入初地品引文の焦点をめぐって――

■ 「宗教と教育」研究会

岡野 八代
ケアの倫理からみた人間観

■ 親鸞と中世被差別民に関する研究会

髙橋 昌明
戦後日本中世史学における(被差別)身分研究の流れ

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之
本願回向の行信 ――『一念多念文意』を読み解く―― (3)

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『現代と親鸞』第51号

■ 研究ノート

加来 雄之
安田理深『興法』論文群における「実践」と「寂滅(本来性)」
――安田理深による「衆生」の「基礎づけ」(二)――

■ 第5回「現代と親鸞」シンポジウム

全体テーマ 宗教と家族――教えの継承と多様性

【提題Ⅰ】宗教二世と家族
菊池 真理子

【提題Ⅱ】性の多様性と日本仏教の現在地
若佐 顗臣

【提題Ⅲ】日本仏教と家族
大谷 由香

総合討議
コメンテーター 武内 今日子・加来雄之

■ 第6回「現代と親鸞」シンポジウム

全体テーマ
戦後歴史学と宗教研究――教科書からこぼれおちたものを「民衆」・「宗教」からみる――

【提題Ⅰ】芳賀幸四郎からみる戦中戦後の仏教史(禅文化史)を手がかりに
飯島 孝良

【提題Ⅱ】服部之總の親鸞・蓮如論が問いかけるもの――戦後日本宗教史研究の一断面――
近藤 俊太郎

【提題Ⅲ】安丸良夫の民衆史研究が問いかけるもの――歴史研究と宗教史研究の対話のために――
繁田 真爾

総合討議
コメンテーター 加藤 陽子

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之

本願回向の行信 ――『一念多念文意』を読み解く―― (2)

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とんちと風狂の「虚実皮膜」
 ― 現代にあらわれ続ける一休像 ―

飯島 孝良 IIJIMA Takayoshi

親鸞仏教センター嘱託研究員

一休宗純(1394~1481)は、知名度という点では群を抜いている。たとえば、「一休さん、一休さん、はなおかの一休さん、ともしび灯す心~」という仏壇店のCMソングに耳馴染みのある方が、信州あたりにはおられるのではないだろうか。

このテレビCMは長野県に展開する「はなおか」がはじめのようであるが、それ以外にも、米永(石川県)、かじそ(福井県)、ほこだて仏光堂(宮城県)、大黒堂(福島県)、開運堂(山梨県)などの仏壇店も、一休とタヌキ・ウサギが登場する同じフォーマットでCMを展開している。

一見すると不思議な現象であるが、はなおかは「一休さん」の商標登録権を所有しており、同じCMを各社も利用しているということのようである。この一休のCMを用いている各社は、社名に「一休さんの○○」と冠するほど、そのイメージを定着させている。

 

一休は、やはり「とんち坊主」の親しみやすいイメージが強いようである。「あわてない、あわてない」のセリフで一世を風靡したアニメ『一休さん』は、中国やタイでも人気が高い。

とはいえ、放送されていたのは1975年~1982年のことであり、いまの世代は絵本などで触れることが多いようだ。このため、最近の講義で一休のことを取り上げると、受講者の感想に「一休が実在したとはじめて知りました」というものが、年を追うごとに増えている気もする。

こうした現象は、歴史上で著名な存在をめぐってしばしばみられるものでもある。つまり、いつともしれず逸話や俗伝の類が追補されていき、或る部分が極大化することもあれば、或る部分が曲解されて伝わっていくこともある。そうして、虚像がどんどん拡大し多層化するのである。ときには、その実在すらわからなくなる、というわけである。

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想いだされ続けるということ
 ――「淵源(ルーツ)」を求めて

飯島 孝良 IIJIMA Takayoshi

 ラジオ界やテレビ界を支えた稀代の放送作家・タレントの永六輔(1933~2016)は、繰り返しこう述べていた――

  • 「人間は二度死にます。まず死んだ時。それから忘れられた時」

ここでいう一度目の死とは、肉体的に生命を終えるときである。二度目の死とは、その存在を心のなかに覚えてくれている人がいなくなったときである。これを裏返すと、人間は想いだされる限り死んではいない、ということになる。ただ、この「想いだす」「想いだされる」とは、どのようなことを言うのであろうか。

 この問いに関わる映画『リメンバー・ミー』(ピクサー・アニメーション・スタジオ製作)は、メキシコの「死者の日」において死者の国へ迷い込んだ少年の物語である。生者の国の祭壇に写真が飾られていない死者は「死者の日」に生者の国へ戻ることができず、生者の誰からも想いだされない者は死者の国からも消え去ってしまう。主人公の少年は、自分のなかに活きている音楽への情熱が誰から受け継がれたものなのかを求め、死者の国にいるであろう音楽家の祖先を探し求める――。この物語は、自分が直接に会ったことのない情熱の「淵源(ルーツ)」を求め、その「淵源」というべき祖先がなおも想いだされるべき存在なのか、自分とその家族のなかに問い続けるという構成をとる。つまり、音楽家であったらしいその「淵源」が放蕩の限りを尽くしたともいわれるため、実直な靴屋となった少年の一家からは疎んじられており、もはや誰も想いださなくなりそうになっていた――そればかりか、一家にとっては音楽そのものが忌避されてもいたのである。

 こうしたとき、少年にとっての「淵源」が周囲からは忌み嫌われるものであり、少年のなかにある情熱そのものが封じられかねなくなる。自分を活かしているその「淵源」を、周囲が何と言おうとも渇望し続ける少年の姿に、この作品の眼目のひとつがある。

 そうした渇望は、仏教史における「語り」にも見出し得る。この「語り」にある特徴を、近藤俊太郎「親鸞とマルクス主義への入射角」(『親鸞とマルクス主義』、2021年)は、次のように美事に分析している。

「経典に記された言葉の真理性を起点に、それを読む、聞くといった解釈学的実践を連鎖させ、それを積み重ねてきたのが仏教の歴史である。厖大な仏典やそれについての数えきれないほどの理解(八万四千の法門)の存在は、仏教に一貫性や中心的な思想がなく、唯一絶対の解釈など成立しないことを意味している。

 したがって、仏教の歴史は、経典解釈やそれに基づく倫理・規範が、新たな解釈とそれに基づく倫理・規範によって内破され続けてきた歴史でもある。仏教は仏教批判を繰り返し、既成の仏教理解を否定し、解体し続ける。仏教は何らかの根拠というよりも、人間を内縛してきた根拠から解放するはたらきであり、かつすべての人間につねにすでに平等に開かれているのである。【中略】

 この否定のはたらきは、歴史的世界の住人たる信仰主体に例外なく向けられている。ただしそのことは、信仰主体に新たな人間観・世界観を知らせる契機ともなりうるもので、人間存在の有限性の自覚や絶対的平等を願う主体への生成変化を可能にするのである。こうした仏教の否定性をめぐる問題は、仏教が空・非我・無常といった否定表現を特徴とすることとも関連するだろう」

 これはまさに、阿弥陀仏を前に「罪悪深重」を自覚せしめられる真宗の歴史に見出し得る動性であろう。更に言えば、「以心伝心」「不立文字」を旨とするといわれる禅でさえ――だからこそ――数えきれぬほど問答が繰り返され、自己の有限性は常に否定され、自らに連なる先師を語り継ぐ年譜が書き残され、その法脈は形成され長らえてきた。仏教史という営為は、いわば自己がそれまでの価値観を解体されながら法系へと接続することを自覚する「語り」であり、その過程を「伝統」として把握しようと渇望することであったといえるのではないか。

 人間を縛り付けるものを否定し解放されることで、自己を活かすものへの眼が開かれ、自己へ連なる「伝統」を成り立たせてきた存在の数々が、はるか昔から自らのなかに生きてくる――仏教の歴史は、それを想いだしつづける営みといえまいか。

(2023年2月1日)

飯島 孝良 IIJIMA Takayoshi

親鸞仏教センター嘱託研究員

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今、改めてメディアを問う
―その過去・現在・未来、そして仏教― ②

『añjali』WEB版 2023年1月30日号


伊藤  真
宮部  峻


稲田ズイキ


江田 智昭


ブレニナ・ユリア


飯島 孝良


『アンジャリ』WEB版1月更新分は、「今、改めてメディアを問う――その過去・現在・未来、そして仏教」のテーマのもと、23日と30日の2週連続で更新いたします。23日更新分は「メディア論」や「メディア史」を視点として、30日更新分は「仏教とメディア」を視点として、様々な角度から「メディア」を問いなおしていきます。あわせて1月23日更新分もご覧ください。

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隙間だらけの一休年譜――入水未遂事件をめぐって

飯島 孝良 IIJIMA Takayoshi

親鸞仏教センター嘱託研究員
花園大学国際禅学研究所専任講師

これまで、世界中でどれくらいの人びとが接したかわからないが、少なくとも自分には福音書は読むごとに不可解な衝撃を与える書である。そもそもは大工の息子で律法学者でないイエスが、数多くのたとえ話でユダヤの常識やルールを根柢から見つめ直すよう促していく。更にイエスは病を癒し、悪鬼に憑かれたとされる者を解放し、差別される者たちに寄り添おうとした。そうした行動が多くの支持者を集めつつあることはユダヤ当局から危険視され、最終的には無惨に十字架上で殺されるに到る。そうして、付き従っていた者どもは悉くイエスを見棄て、果ては最も身近で信頼していた筈の弟子たちが、自らの師の下から逃亡していったのである。イエスはというと、刑死に際して「我が神よ、我が神よ、どうして私をお見棄てになるのですか」(マルコ伝十五:34、マタイ伝二十七:46)と絶叫するほかなかったのだという。

だが、現代にまで伝えられる福音書によれば、その弟子たちはイエスとの死別の後、イエスの生涯を読み直し、やがて躓(つまづ)きから立ち上がってイエスからの教えを受け継ぐ道へ進むことになったという(使徒行伝二:14-36ほか)。師を見棄てた弟子たちが、むしろ師の言行のなかに「神の全能」を見出して集団を形成し、最終的には殉教するまでに及ぶのである。この経緯からは、イエスの弟子たちが自分たちの師を真に理解するまでに深刻な「隙間」があり、その「隙間」を埋めようとし続けたことが見受けられる。そして、福音書には現代的な視座からみて「隙間」と思えるものも残されている――例えばペテロなどの弟子が、イエスを裏切ってからどのようなプロセスをたどって再び起ち上がったのか、新約聖書からは充分見出しにくい。むしろ、マルコ伝十六章の補遺部分(9-19)を読むと、イエスを死に追いやった直後のペテロら11人の弟子たちはイエスが「復活」したという報告を聞いてもすぐには信じられなかった、という報告さえ記録されている。そうした点を踏まえると、イエスを裏切ったことと再起したことの間には、よほどの苦悶や懊悩(おうのう)があったのではないかと推察される。だが、その詳細な経緯は語られず、いつの間にか再起しているようにみえるのである。

その意味では、弟子たちが師の言行を崇高なものとして書き記していく行為そのもの、そしてその結実たる言行録や年譜といったメディアそのものが、描ききろうとしても及ばない「隙間」を多く含有せざるを得ない。聖書学者の大貫隆がいわゆる「隙間だらけ」という表現は、言い得て妙である(大貫隆『隙間だらけの聖書――愛と想像力のことば』教文館、1993)。

***

一休宗純(1394~1481)の行実を伝える『一休和尚年譜』も、じつはそうした「隙間」だらけの代物といえる。多くの日本人にはすっかりお馴染みの「とんち」の小坊主・一休さんを求めてこれを手に取ると、読者はたちまち肩透かしを食らうことだろう。というのも、『一休和尚年譜』には20代はじめまで記録が非常に稀薄であり、幼少期から青年期にかけての足跡があまりみえてこないからである。

とくに印象的なのは、21歳の一休が大津の石山寺にほど近い瀬田川の唐橋で入水未遂に到る応永21年[1414]条である。この年末、慕っていた恩師の謙翁宗為(けんのうそうい、?~1414)と死別した一休は、前年には師から「わしの持てるものはもうおぬしに傾けつくした」と認められてはいた。だが、謙翁は貧しい暮らしを徹底し、師の無因宗因(むいんそういん、1326~1410)からの印可証明(法を嗣いだことを示す証書)もなかった――なお、『一休和尚年譜』では謙翁が敢えて証明を辞退したと付記している。葬儀をする費用も無いほどだったという一休は、そのまま修行を続けることに懊悩していたようである。師と死別したために清水寺で参拝者が断食誦経する「参籠」を試みるが、清水寺のしきたりで大晦日から正月15日までは出来ないこととなっており、思い屈して母の下に話をしに向かう。再び清水寺を参詣したあとの一休について、『一休和尚年譜』応永21年[1414]条の記述を現代語に直して引用すると――

 

大津の宿に出ると、周建(一休の当時の名)が、よれよれの僧衣でしおれた青菜のような顔色だった(「黲納勃窣(さんのうぼっそつ)にして面(おもて)は菜色(さいしき)を挟む」)ので、地元民のひとりから「小僧さんどうなすった、お師匠に叱りとばされたか、それとも継母にいじめられたんかね」と言われるほどで、歳末にどこでもこしらえる餅がたまたま出来ていたのでいくつか食わせてもらった。そして石山寺で参籠し、ひたすらに自分の修行が堅牢な信念に基づいたもの(「道念堅勁(どうねんけんけい)」)になるよう観音像に黙祷し、7日間参籠した。或る日、そこを出発してさまよい歩き、瀬田川の橋に到り、「ここで水中に身を投げ、死なずにおれば観音菩薩の御加護の疑いないのがわかるが、惜しくも魚の餌にでもなっても来世に志は貫徹できるだろう。観音菩薩がお見棄てになるわけはない」(「吾、身を水中に投ぜん。若(も)し命の全(まった)からんことを得ば、則ち大士の加被(かひ)、疑い無からん。否なれば則ち魚腹に委(ゆだ)ぬと雖(いえど)も、他日必ず所志を遂げん。大士、豈に我を捨てんや」)と入水しようとした。その時、母の使いの者が抱きかかえてとどめ、「これで身をお棄てになっては親不孝ではありますまいか、いずれお悟りになられる日もございましょう、もう遅いとはお思いなすってはなりません」と説得した。一休は止むを得ず、京都におられる母の下へ戻ったのである――。

 

こうした入水未遂の経緯を国際的に知らしめたのは、ひとつは川端康成(1899~1968)のノーベル賞受賞演説「美しい日本の私」(1968)であろう。川端は、芥川龍之介(1892~1927)や太宰治(1909~1948)の自殺を取り上げたあと、一休の自殺未遂にも詳細に触れている。「もの思ふ人、誰か自殺を思はざる」と述べて、一休が親しみやすい僧のようで「実はまことに峻厳深念な禅の僧」であったとする。

  • 天皇の御子であるとも言はれる一休は、六歳で寺に入り、天才少年詩人のひらめきも見せながら、宗教と人生の根本の疑惑に悩み「神あらば我を救へ。神なくんば我を湖底に沈めて、魚の腹を肥せ。」と、湖に身を投げようとして引きとめられたことがあります。【中略】そして『狂雲集』とその続集には、日本の中世の漢詩、殊に禅僧の詩としては、類ひを絶し、おどろきに肝をつぶすほどの恋愛詩、閨房の秘事までをあらはにした艶詩が見えます。一休は魚を食ひ、酒を飲み、女色を近づけ、禅の戒律、禁制を超越し、それらから自分を解放することによって、そのころの宗教の形骸に反逆し、そのころ戦乱で崩壊の世道人心のなかに、人間の実存、生命の本然の復活、確立を志したのでせう。

(『美しい日本の私』講談社、1969、19~20頁)

これは日本文学史において卓抜した死の表象を川端独自の視点から語ったものであって、更にはエドワード・サイデンステッカー(1921~2007)という類まれな翻訳家によって英訳されたため、数多くのメディアで知られるものとなった。こうした一節は演説を終えてまもなくおとずれる川端の自殺をも想起させるが、何よりも一休の禅と文学をきわめて高く評価しているところが印象的である。

ただ、先に紹介した『一休和尚年譜』応永21年条の一節を、ここで改めて想い起して頂きたい。入水未遂に至る21歳当時の一休は、「黲納勃窣にして面は菜色を挟」んで餅の施しをもらうほどに憔悴しきっており、自分の「道念の堅勁なること」を石山寺の観音像に黙祷していた。たとえ恩師と死別したとはいえ、21歳の禅僧としてはいかにもひ弱で情けない姿ではないか。ただ、こうした姿が昨今のニュース報道のように広く目撃されたような傍証はない。当時これほど「情けない」姿であったと伝えるのは、まずは『一休和尚年譜』なのである。本来、年譜というものは師の優れた行実を記録する性格があるから、これを記述した直弟子の祖心紹越(そしんじょうえつ、?~1519)や没倫紹等(もつりんじょうとう、?~1489)が殊更情けない師匠の〈像〉を記録するというのも、俄には考えにくい。

そう考えると、このときの一休が「情けない」姿だったと知っているのは、外ならぬ一休自身だけではないのだろうか。ともすれば、一休は師を喪った絶望を、このような「情けない」自己として弟子たちに敢えて語って聞かせたのではないか。そうした師・一休の語りが、直弟子の受け取ったそのままの〈像〉として『一休和尚年譜』に記述されている、ともいえよう。それは、大死一番の問いに到るまでの青臭く「情けない」姿と、自分たちが深く関わってきた恩師の姿とを隔てる「隙間」があったことを意味するのではないか。その「隙間」を、直弟子たちは敢えて粉飾することなく示した――そのような推察も思い浮かぶ。とはいえ、こうした『年譜』の成立過程や記述意図はあくまで推察である。一休と弟子たちのあいだのみならず、『年譜』とその読者の我々とのあいだにもまた、「隙間」が残されているというほかない。

ここで、『一休和尚年譜』にある「隙間」は埋めるべきだ、と強弁したいのではない。その埋め方には、さまざまな方法があろう。「これほど弱弱しくなったとしても、最終的にはあれほど破天荒で卓抜した禅僧になったのだ」「助平な坊主として知られている一休にも、若い頃の挫折があったのか」などなど……。ただし、一休を極度に規格外で破天荒な禅僧と描くことを急いてはならないのではないか。後代の創作で「情けない」「人間くさい」姿が「立派な」姿として読み替えられることもあり得るが、その〈像〉の造型が過度に進めば、一休の実像からは否応なく乖離していくこととなる。そうしたアプローチの繊細さこそ、〈像〉の難しさであり面白さでもある。こうした「隙間」の埋め方そのものが、ひとつの文学として後代のメディアを賑わせもする。その点で、水上勉(1919~2004)の次の一節は、その代表例として今なお読ませるところがある。

誰しも21歳の一休の自殺未遂ときいて、あの和尚がと、不思議がらぬものはないだろう。だが考え直してみるとよくある話ではないかとも思う。よく人は青年期に急に死にたくなるような一日をもつものだ。一休和尚もぼくらと同じようにやわらかな心をもっておられたのだと思えばいいか。

母の使者なる人は誰であったかしらぬが、ずぶぬれの一休がたどりついた嵯峨野の庵では、母が待っていてくれていただろう。一休と母はどういう会話をしたろうか。簡略すぎる『年譜』の行間に、現代人のわれわれは勝手な想像を羽ばたかせるしかないが、いつの世も親にしてみれば自殺未遂の子の心理は不可解であったろう。いまの世の親たちもめぐりあう風景だ。

  • 親に先立とうとした子をあわれまぬ母がどこにいよう。一休の母は烈婦でもあったから、やさしく説ききかせたか、それとも叱りつけたか。

(『一休を歩く』集英社、1991、60頁/初版はNHK出版、1988)

ここで「簡略すぎる『年譜』の行間に、現代人のわれわれは勝手な想像を羽ばたかせるしかない」と述べる水上は、正直である。水上の指摘通り、当時としては――いや、現代でも――立派な「大人」というべき年齢の一休を前に、実母は何か語り得るものがあったのだろうか。惨めに挫折した息子にかけるべきことばを探しあぐねる親の心境は、そうしたメディアを目にする我々に共感や自省をもたらしもするだろう。

少なくとも、『年譜』の記録に従えば、それからほどなく、一休は華叟宗曇(かそうそうどん、1352~1428)の祥瑞庵(いまの滋賀県大津市)に入門した。挫折を経て改めて求道に立ったのは確かである――それが母のことばで奮起した故かは、わからないことではあるが。

***

或る卓抜した存在を語る文献を前に、その行動と末路が劇的であればあるほど、ひとつひとつの因果関係を「隙間」なく埋めなければならないと思わされてしまう。しかし、そうした「隙間」はムリヤリ埋めないことにこそ、ひとつの解釈可能性が見出されていくかもしれない。これは何も文献に限らず、ひととひととが互いを理解する際にも生じ得る「隙間」なのではなかろうか。

現代のようにメディアが接しやすいものになればなるほど、そのスピード感が速まれば速まるほど、そこに解釈の余地が見出されにくくなっていく。単純な理解を無理やりにでもつなげて、時間をかけて実態を捉えるよりも即断即決で対象のことを決めつけることもみられがちになろう。しかし、そこに拙速に埋めるべきでない「隙間」があり得ると意識しておくことは、はかならぬ我々自身が何者であるかを判断するうえでひとつの猶予をもたらし、定まりきらぬ将来の自己の〈像〉をより肯定的に探し求めていく契機にもなるような気がしてくる。


飯島 孝良 IIJIMA Takayoshi

親鸞仏教センター嘱託研究員
花園大学国際禅学研究所専任講師

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Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④

龍谷大学世界仏教センター客員研究員

吉永 進一

(YOSHINAGA Shin’ichi)

Introduction

 現在、近代仏教研究という分野に多くの研究者が携わり、歴史学・宗教哲学・社会学・政治学などさまざまな領域を巻き込みながら展開している。その展開は海外の研究者との積極的な交流も伴うものであり、非常に興味深い動きをみせてきている。そのさまざまな運動の淵源をたずねるとき、我々は吉永進一氏の大きな存在感に気づかされる。吉永氏の魅力と求心力の原点がいかなるものなのか、是非うかがってみたい――そうした素朴な関心を胸に、我々は吉永氏の御自宅をお訪ねした。

 吉永氏には、戦後日本の高度経済成長を向こうに置いて「不思議なるもの」への志向を強めた学生時代に端を発し、ウィリアム・ジェイムズから受容した「生(life)」への問い、西田幾多郎の哲学を近代における仏教の変容として捉える可能性、鈴木大拙が今なお世界中の知識人に示しつづける主体的問題とその独自性など、数多くの問題について語って頂いた。
 実に多岐にわたる内容となったため、このインタビューを前後編に分けてお届けする。

(飯島 孝良・長谷川琢哉)

 

【今回はインタビュー①を掲載、の各回コチラから】

吉永  これまでの仏教史や宗教史では、身体やお金のようなマテリアルは軽視されてきたけれども、そういうマテリアルをもう一回見直したほうがよいという一般論は立てられると思うんですね。ではその一般論を越えてどういう見通しが立つかと言えば、僕にはよくわからない。ただ、今までつくられてきた「近代仏教」や「新宗教」というようなカテゴリーは、そろそろ一回外してみたほうがよいだろうなとは思います。今の「新宗教」だって、あと100年もすれば、立派な「宗派」になり得るわけです。そういう「宗門史」で留めてしまうと、100年後には後悔が残るんじゃないでしょうか。

 

長谷川  岡田先生も、その解釈をおっしゃっていましたね。

 

飯島  改めて大拙研究についてお聞きしたいのですが、大拙は旧来ずっと関心をもたれてきていながら、どちらかと言えば伝説化されてしまっていましたよね。それが昨今は、だんだんと客観的な研究対象として見られ出してきています。それこそジュディス・スノドグラス先生やリチャード・ジャフィ先生(デューク大学教授)のような欧米の研究者の関心は、米国の時代状況や人間関係のなかで一書生のような大拙がどう活動したのかという点ですね。D・T・スズキというブランドが米国にどう影響したのか、あるいはビアトリス夫人がどうして大拙の仏教観に影響を受けたのか、あるいは影響を与えたのか、ビアトリスの人となりも含めて史料的に研究されてきている。

 一方で、大拙の和文著作がちゃんとあるわけです。それら――『禅思想史研究』や『浄土系思想論』や『日本的霊性』といったもの――にも大拙の思想的なところが、当然あるんですよね。ある意味で一番厄介な、大拙の読みにくい部分をどう考えていくのか。これについては、小川隆先生(駒澤大学教授)や石井修道先生(駒澤大学名誉教授)、最近では安藤礼二先生が、ようやく着手されている印象です。

 そうした中で、吉永先生はこれからの大拙研究をどのように捉えていらっしゃるか、今後何が必要と感じていらっしゃるか、うかがえますか。

 

吉永  大拙研究は時間がかかるでしょうね。そもそも、大拙の研究がきちんとスタートしたと言えるのは、そんな古い話ではないのに、まだ信頼し得る伝記がないわけですから、歴史的に大拙の生涯がどういうものだったのか、はっきり言えないわけです。幸いなことに桐田清秀先生が残した詳細な年譜があります。あれは事実の羅列ですが、項目と項目に連関をつけて、外部の資料をつきあわせていけば、かなり充実した伝記ができるはずです。まず何よりも、今後の叩き台となる伝記をつくらなければいけないでしょうね(※参照;桐田清秀『鈴木大拙研究基礎資料』〔松ヶ岡文庫、2005〕。なお、同書の電子版は、松ヶ岡文庫のホームページから無料ダウンロードできる)。

 そういう事実を踏まえたうえで、その思想がどうかを検討し得る。だから、西洋思想からの研究と禅の伝統からの研究の二つをどこで折り合いをつけるのかというような問題は、まだ先だろうと思うんです。

 例えば19世紀のヨーロッパ社会での仏教のイメージと言えば、怪しげな邪教というような印象が強いわけですよね。「どこか遠くの国から入ってきた新宗教が、どういうわけか若い者の間で広まっている」ということになったら、みんなそこで偏見をもちます。そういう偏見をもたれていたところが、欧米圏での仏教のスタートラインだと思ってよいのではないでしょうか。そこに入ってみようとする当時の欧米人は、よほど物好きか変人なわけですよ。というのも、キリスト教にだいたい満足しているというなら、仏教へわざわざ入るわけがないじゃないですか。旧来のキリスト教では満足し得ない人たちが、どうしても仏教に問題解決を求めて入ってくる。しかも、その解決すべき問題が意外に普遍的だった。

 

長谷川  普遍的?

 

吉永  そうです。21世紀になると、マインドフルネス的な瞑想を実践しようとする人々がそこら中にいるという状況になってくる。もしかしたら、近代社会の変化の中で「仏教」(欧米圏で広まった形での)は非常に有効に働いたのであって、だからこそ広まったんじゃないか。しかも、その中で大拙の果たした働きは大きい――そこまではみなわかっているわけですね。

 ですから、大拙の思想について考えると、問題が二つあります。ひとつ目の問題は、例えば伝統的な仏教――臨済禅や真宗――を、大拙がどこまで保持していたのかということ。これは大体、これまでみなが批判する点ですね。二つ目の問題としては、そうした大拙の思想が現代に対してどれだけ大きいものをもたらしたのかということ。これはどういうような観点で評価するのかという、評価軸の問題もありますからいろいろな解答は出ると思います。大きな影響を与えたのは確かであるし、しかもそれは決して悪いものではなかっただろうと思いますし、海外への影響ばかり喧伝されますが、僕のような一般人の仏教観、禅観へかなり大きな影響を与えたのではないかと思うんです。

 大拙の思想的な研究と伝記的な研究とはどこかで融合するはずです。だとしても、もう少し時間はかかるのだと思います。というのは、大拙の批判的な研究を経て、改めて大拙への評価が始まったのは、末木文美士先生(国際日本文化研究センター名誉教授)以降、ほんの4~5年ですよね。

 いずれにせよ、まだ10年はかかると思いますよ。特に歴史資料はかなり整理されているのにもかかわらず、歴史学的に信頼できる資料が基本的に整理されきっていないというのがすごく残念ですね。結局、少数のすごく熱心な大拙研究者が伝記的な研究を熱心にやっていただけで、その問題が共有されていない。そういう伝記的な研究を多くの人が共有して、どんどん疑問点を出し、それをもう一回、思想へとフィードバックしていかなければ、なかなか次の世代にバトンタッチできないのではないかと思いますね。年寄りの世代は仏教好きなので、今はまだ大拙に人気はありますけれども、次の世代にバトンタッチするとなると、今のままでは研究としても大拙の理解としてもまだ不充分じゃないでしょうかね。

 大拙は達観した人生の達人のように語られます。確かに成功した人生だとは思いますが、まったくノンシャランで仏教研究に打ち込んだわけでもない。几帳面で事細かく人生に処した面もあり、誰の人生とも同じように、苦労と喜びが綾なしていたような――苦労と喜びは同じ事柄の両面ですから――そういう気がして仕方がないです。なにしろ、ものすごく遅咲きですよね。大谷大に就職して、仏教研究に専念できるようになったのが51歳です。しかも最終学歴は中等学校(現在の高校)卒業です。父親と母親を20歳までに亡くしているわけです。これだけで考えても、大学教員に至る前半生が平坦なものとは言えないでしょう。誰であれ、思想は、自分の人生の苦闘からしか得られないのですから、そこはよく考える必要があるかと思います。

 あと、われわれは大拙の著述のどういうところを面白いと思うのか。仏教の解説書として優れているかと言うと、あれだけ仏教研究者からの批判もあるので、解説としては最良のものではないのかもしれません。紙ゴミで捨ててしまう人もいるかもしれません。しかし、僕のように、紙ゴミで捨てるということもなく、やはり何度も取り出して読んでしまいたくなる人も少なからずいると思います。その魅力は何なのか。大拙は他人事として仏教を読んでいない、という点は大事なことだと思うんですが、では大拙が自分事として語ったものが、なぜ自分に共感できるのかとか、いろいろ疑念が湧いてくると思うんです。そうした疑念を突き詰めて考えてみる。自分の中から出て来る、大拙の面白味の由来を考えてみる。これもまた面白くも大事なことではないでしょうか。

 

長谷川・飯島  今回はどうもありがとうございました。(了)

 

 

インタビューを終えて

 

 吉永先生のインタビューで語られているのは、「宗教」、「哲学」、「文化」といった既存のカテゴリーを疑い、それらすべてを包摂する流動的な混沌――たとえばそれは「生(life)」という言葉でも名指される――を柔軟にとらえることの必要性であった。そして「近代仏教」という研究領域が注目を集めているのも、それが多様なアプローチを許容する(あるいはむしろ要求する)混沌とした対象だからでもあるだろう。「近代仏教」という領域そのものが、いわば「宗教」や「哲学」といった既存のカテゴリーの問い直しを突きつけてくるのである。

 インタビューの後半で、飯島氏と私は、それぞれが研究している鈴木大拙や井上円了についてうかがった。大拙にしろ円了にしろ、「仏教者」や「哲学者」といった既存のカテゴリーでは捉えきれない(それゆえ特定のディシプリンだけでは捉えきれない)ある種の混沌でもあるからだ。われわれはそうした混沌を捉えるための柔軟な知性を吉永先生に認め、そのなにがしかを学ぼうとしたのである。また混沌とした対象を捉えるには個人の視点だけでは不十分であり、だからこそ国内外の研究者のネットワークが必要になる。吉永先生を中心に形成された国際的・学際的ネットワークは、それ自体が一種の方法論でもあるのかもしれない。しかしいずれにせよ、今回われわれが垣間見ることができたのは、吉永進一という混沌のごく一部にすぎない。近い将来、より本格的な吉永進一研究のネットワークが形成されることを願うばかりである。

(長谷川琢哉・飯島孝良)

 

(文責:親鸞仏教センター)

 

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吉永 進一(よしなが しんいち)

 1957年生まれ。京都大学理学部生物学科卒業、同文学部宗教学専攻博士課程修了。舞鶴工業高等専門学校教授を経て、現在は龍谷大学世界仏教センター客員研究員、英文論文誌『Japanese Religions』編集長。

 専門は宗教学(ウィリアム・ジェイムズ研究)、近代仏教研究、近代霊性思想史。2007年12月、論文「原坦山の心理学的禅:その思想と歴史的影響」で「湯浅賞」受賞。

 編著に『日本人の身・心・霊―近代民間精神療法叢書』(クレス出版)ほか。共著に『ブッダの変貌―交錯する近代仏教』(法藏館)、『近代仏教スタディーズー仏教からみたもうひとつの近代』(法藏館)ほか。翻訳に『天使辞典』(創元社)、『エリアーデ宗教学の世界―新しいヒューマニズムへの希望』(せりか書房)ほか。

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Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④
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Interview 第24回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」④ 龍谷大学世界仏教センター客員研究員 安丸 良夫 (YASUMARU Yoshio) Introduction  現在、近代仏教研究という分野に多くの研究者が携わり、歴史学・宗教哲学・社会学・政治学などさまざまな領域を巻き込みながら展開している。その展開は海外の研究者との積極的な交流も伴うものであり、非常に興味深い動きをみせてきている。そのさまざまな運動の淵源をたずねるとき、我々は吉永進一氏の大きな存在感に気づかされる。吉永氏の魅力と求心力の原点がいかなるものなのか、是非うかがってみたい――そうした素朴な関心を胸に、我々は吉永氏の御自宅をお訪ねした。…
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Interview 第23回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」③

龍谷大学世界仏教センター客員研究員

吉永 進一

(YOSHINAGA Shin’ichi)

Introduction

 現在、近代仏教研究という分野に多くの研究者が携わり、歴史学・宗教哲学・社会学・政治学などさまざまな領域を巻き込みながら展開している。その展開は海外の研究者との積極的な交流も伴うものであり、非常に興味深い動きをみせてきている。そのさまざまな運動の淵源をたずねるとき、我々は吉永進一氏の大きな存在感に気づかされる。吉永氏の魅力と求心力の原点がいかなるものなのか、是非うかがってみたい――そうした素朴な関心を胸に、我々は吉永氏の御自宅をお訪ねした。

 吉永氏には、戦後日本の高度経済成長を向こうに置いて「不思議なるもの」への志向を強めた学生時代に端を発し、ウィリアム・ジェイムズから受容した「生(life)」への問い、西田幾多郎の哲学を近代における仏教の変容として捉える可能性、鈴木大拙が今なお世界中の知識人に示しつづける主体的問題とその独自性など、数多くの問題について語って頂いた。
 実に多岐にわたる内容となったため、このインタビューを前後編に分けてお届けする。

(飯島 孝良・長谷川琢哉)

 

【今回はインタビュー①を掲載、の各回コチラから】

飯島  今、吉永先生や岡田正彦先生(天理大学教授)、あるいは大谷栄一先生がされている近代仏教研究というものと、大正から昭和にかけて京大の宗教学でされている哲学的な仏教研究は、どちらもある種の近代性を帯びながら発展してきたわけですよね。両者は重なるようで違う方が強いようにも感じるんですが、如何でしょうか。

吉永  仏教史の中で京都学派を考えてみるって面白いと思うんです。

 例えば、西田幾多郎(1870~1945)と仏教との関係を考えるとき、単純に禅で得た経験を言語化したとか、理論化したというのは単純すぎるとは思います。西田は哲学として確立しようとしてたのですから、まずは切り離して考えるべきだと思うんです。ただ、日本における「哲学」は、井上円了(1858~1919)によって仏教擁護論に用いられるなどしますし、思想的にも井上哲次郎らが提唱していた「現象即実在論」は『大乗起信論』の影響もあるといいますよね。ですから、西田が哲学を考える際の前提には仏教の影響があったのではないかというのが一点、そして大正時代以降、西田哲学は求道的な若者に受容されます。一種の代替宗教的な、今でいえばスピリチュアルな場なのでしょうが、そういう前後の文脈を考えてみたらどうかということです。

 そう考えることは、決して西田の思想にある普遍性が損なわれることではないんですが、ただ、西田が言いたかったことを考えるとき、そうした近代仏教の思想史や社会史的なところにもう一回落としてみると、実は見え方が違うんじゃないか――そういうことです。

 少し話が飛躍してしまいますが、突き詰めて考えてみると、厳密な意味で、哲学、道徳、宗教、あるいは政治というカテゴリー分けができるのかという疑問があります。ジェイムズは『宗教的経験の諸相』の冒頭で、「宗教」をかなり苦心して定義しているのです。その苦闘を読むと、そもそも定義は無理ではないかと思います。なにしろ、われわれの生(life)は切り分けられない連続だと彼は主張しているのですから。カテゴリーは後知恵にすぎない。さまざまな融合や結合が出てくるのは当たり前であると考えて、西田幾多郞や鈴木大拙を考えてみることもできると思うんですね。

 簡単に言えば、「宗教」というカテゴリーを一回疑ってみたうえで、もっと流動的なものとして考えてみようという気持ちはあります。「宗教」ということばにもちろんこだわるんだけれども、ただそれを原理主義的に狭く使うのではなくて、もうちょっと弾力的に用いて、カテゴリー間の往来や思想の往還のようなものを見ていこうという気はするんですね。

飯島  そういう弾力性を前提にして、さまざまな側面から近代の仏教を捉えていくというのは、共通認識になりそうでまだなりきってないようにも感じますね。

吉永  共通認識になるのは難しいと思う。具体的にいえば、近代仏教だとしても、やはり宗門の近代史が中心になりますし、またそこから学ぶことは多いのですが、宗門だけで語っていると、近代史のダイナミックさが見えにくくなるのだとも思います。ただ、近代仏教史研究は、研究者の側も、僕のような外道も含めて、色々なディシプリンの人間が入り込んでいます。単に共通点は近代というだけですから。ですので、さまざまな議論ができるという強みがありますね。

飯島  逆に、近代仏教研究に足りないなとか、もっとやったらいいじゃないかと感じる部分はありますか。

吉永 ひとつは、近代仏教をやる人は、英語、フランス語、ドイツ語、何でもいいですけれども、よその国の近代仏教研究ともう少し対話していってほしいなというのはありますよね。これからは、やはり中国だろうなと思いますね。中国の近代仏教研究は、ようやく吉田久一前夜ぐらいまできていると思います。坂井田夕起子さん(愛知大学国際問題研究所客員研究員)が、このごろ太虚(1890~1947)の研究会が立ち上がったと書いておられて、ああいう東アジアのネットワークがもうちょっと広がったらいいと思います。

 もうひとつは、新宗教と近代仏教の垣根をどうやって突破するか。真如苑や創価学会が、研究分野では宗教社会学になるわけですけれども、近代仏教史の方から見たらどうかと思うんですよね。

長谷川  なるほど。確かにそこにはちょっと線があるんですかね。

吉永  仏教思想の近代における展開といった視点で、伝統との連続性に留意しながら新宗教史を見直してみたらどうかという気もするんです。

飯島  宗派という観点でいうと、近代仏教史研究会の研究発表などで多いのは、やはり浄土真宗です。浄土宗や日蓮宗も多いですね。僕にとっては意外なんですけれども、禅は近代仏教研究で携わる方がいらっしゃらないんですよね。

吉永  日蓮宗については、日蓮主義の研究は盛んなのですが、近代日蓮宗はどうだったのか、となるとどうでしょうね。教学の近代化はどうなっていたのかとか、あるいは修法師のように祈祷の近代化はどうなっていたのかとか。ただ、禅宗となると、ほんとよく分からない。例えば、曹洞宗の近代化とは何だったのか、明らかになってほしい。忽滑谷快天(1867~1934)と原田祖岳(1871~1961)の「正信論争」のようなものは、すごく大きな運動だったはずなのに、すべて教団の中の話だということで結論づけられてしまっている。清沢満之(1863~1903)の場合ならば、宗門改革の運動が最終的にはかなりの広がりをもつ思想運動にまで展開するわけですね。そうした思想運動にまで広がらなかったのはどうしてなのかというのは、確かにありますね。

 さらに言えば、臨済宗全体の展開に関しても、色々なところが判然としない。特に臨済宗は釈宗演(1860~1919)のようなスターが出て、そのスターの話だけで終わっちゃうんですよね。ただ、禅宗の近代は、曹洞、臨済を問わず、老師とその帰依者による宗門内の半ば独立的な組織が、宗門全体の生命力を支えていたとは言えるので、そうしたスター研究の裾野を広げるという必要もあると思います。

飯島  臨済宗の場合は、例えば、今北洪川(1816~1892)や釈宗演が居士林という形で、居士にどんどん開いていく動きが特徴的ですよね。それに関連しては、レベッカ・メンデルソンさん(デューク大学大学院)が研究されているような興禅護国会の流れが、現在の白山道場へつながっていく。そういう居士にどんどん開いていくというムーブメントが、円覚寺派という一宗派に限定したものだったのか、あるいは臨済宗全体が教団としてどう考えていたのか、そこを明らかにしていかねばならないですよね。

吉永  曹洞宗の方でもうひとつ気がついたことは、学林の伝統が強いのかなという印象です。もともと学問の自立性というのは、曹洞宗は高かったのかもしれない。逆にいうと、それが宗門の教学にどこまでフィードバックできたのかという問題もありますよね。だから、曹洞宗は宗教学や仏教学に非常に大きな足跡を残しているけれども、それが在家教化にとってどうだったのか。大内青巒(1845~1918)の編集した修証義は見事なものだと思うのですが、それ以外に何があったのかよく分からない。あれだけの組織が現代まで維持されてきたわけなので、今後研究されていくべきだろうと思います(このインタビュー後、武井謙吾くんという若手の研究者から近代曹洞宗における授戒会の研究発表を聞きましたが、やはり儀礼を含めて身体から見る近代仏教史の研究は進められるべきかなと思いました)。

飯島  先ほど吉永先生がご指摘くださった海外進出や海外交流という点で言えば、禅では、鈴木大拙などをキックボードにして、まったく個の体験に還元していく。それが多くの混交を重ねて、欧米圏でまったく独特のものになるわけですよね。その中で面白いのは、弟子丸泰仙(1914~1982)がどんどんヨーロッパへ進出して、澤木興道(1880~1965)から弟子丸泰仙という法系がヨーロッパを席巻して道場も多くできていく。今、そうしたヨーロッパで独特に展開した道場を曹洞宗の本流に紐づけていく動きも出てきて、曹洞宗はフランスに設けたヨーロッパ国際布教総監部が盛んに活動しているようです。

 しかし、龍沢寺(静岡県三島市)の中川球童(死活庵/1927~2007)が米国やイスラエルで布教したことは、臨済宗ではむしろ例外的なような印象さえあります。だから、欧米の方々がイメージするZENは、長らく「D・T・スズキの教えに近いことを実践すること」というものだった印象が強い。ビートニク世代が受容したような仕方が、そのままどんどん拡散していって、宗派でもないような独特なZENが発展しているというのは、面白い現象だと思うんですよね。

吉永  そうですね、やはり臨済宗は釈宗演の系譜に接する人びとがみな面白いですよね。特に佐々木指月(1882~1945)が面白い。誰か本気で研究してほしい。あれはすごいです。

長谷川 2018年3月に開催した清沢満之研究交流会では、思想を歴史的にもう一回問い直すことが趣旨だったのですが、あまりかみ合わなかったんですよね。私がその企画をしたのは、「吉田久一に代表される戦後の近代仏教研究というものをもう一度相対化して、思想史的な研究をしたい」と言いました。それを吉永先生の表現をお借りして言えば、「大きな物語」や「イデオロギー」といったすごく明確な価値基準がかつてはあったわけですよね。例えば、国家と宗教とはそれぞれ個別の問題として分けるべきで、そのうえで「清沢の精神主義は○○という部分があったからいい」「▽▽以外は駄目だ」というような形で位置づけていた。けれども、その価値観だけではもう見られなくなってきている。井上円了も、それだともうまったく見られなくなりますよね。

 その上でどうするのかを考えると、吉永先生がおっしゃるように、「もう一回史料に戻ってさまざまな関係性を見たりしていくことをやらざるを得ない」ということまでは言いました。その後に、星野靖二さん(國學院大學准教授)が「その上で改めて、歴史をもう一回描くとすると、どういうように書けるのか。例えば、近代仏教史というものを書くときにどう書けるのか」というご指摘をされたんですよね。こうした点を、吉永先生はどのようにお考えになりますか。

吉永  ひとつは、僕は学問に対する信頼があるので、はじめはすべてが少し混沌としていても、次の時代にはまた何かしら「物語」が必ず出てくるはずなので、気にはしてないんです。では自分が何を考えているのか。大きな物語を提案することはできないのですが、自分にとっての近代を見ていく上での、現在のこだわりというと、やはり、「身体からみる宗教史」というものですね。先ほど「術」のことを言いましたが、もう少し個別に言えば、その「術」というのは霊術や精神療法、あるいは修養ですよ。

 近現代だと「身体」と「頭」というのは、完璧に分離されたものと捉えられていて、「身体」はブラックボックスだと言われてきた。そうではなくて、身体を使う作法とか、作法から出てくる何かしらの知恵とか、そういう視点から見ることはできないのかという気はしています。そのときの「身体」というのは、もちろん「心」も含んで考えているし、その前提となる仏教のイデオロギーやアイデアも踏まえているものです。そういう「身体」というものは、「頭」と常に相補的にあったと思いますね。そういうものの歴史を描くことで、例えば国家と宗教的なイデオロギーの混交というような、今まででは整理がつかなかったさまざまなことの整理がつくように思ってはいるんですけれどもね。

長谷川  ミシェル・フーコー(Michel Foucault/1926~1984)ではないですけれども、「身体」から国民道徳のようなものに展開していったのではないかというイメージは、これまでも結構見られますよね。

吉永  そうですね。だから、ある意味では「身体」というものだけに寄りかかってしまうと、非常に抑圧的な歴史の読み方になってしまう可能性もある。それは正しくないだろうと思います。だからといって、いつまでもイデオロギーだけではいかんだろうとも思います。例えば、「通俗道徳」というものも、最終的には「身体」をどう支配するかということに読み替えることもできると思うんですね。

長谷川  例えば井上円了だったら、後半生に哲学和讃や哲学堂公園を残していますね。それが思想の内容というよりも「身体」というものとして捉えられるのか、わかりませんけれども。

(文責:親鸞仏教センター)

④へ続く

吉永 進一(よしなが しんいち)

 1957年生まれ。京都大学理学部生物学科卒業、同文学部宗教学専攻博士課程修了。舞鶴工業高等専門学校教授を経て、現在は龍谷大学世界仏教センター客員研究員、英文論文誌『Japanese Religions』編集長。

 専門は宗教学(ウィリアム・ジェイムズ研究)、近代仏教研究、近代霊性思想史。2007年12月、論文「原坦山の心理学的禅:その思想と歴史的影響」で「湯浅賞」受賞。

 編著に『日本人の身・心・霊―近代民間精神療法叢書』(クレス出版)ほか。共著に『ブッダの変貌―交錯する近代仏教』(法藏館)、『近代仏教スタディーズー仏教からみたもうひとつの近代』(法藏館)ほか。翻訳に『天使辞典』(創元社)、『エリアーデ宗教学の世界―新しいヒューマニズムへの希望』(せりか書房)ほか。

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Interview 第22回 吉永進一氏「「生(life)」と「経験」からみた宗教史」②

龍谷大学世界仏教センター客員研究員

吉永 進一

(YOSHINAGA Shin’ichi)

Introduction

 現在、近代仏教研究という分野に多くの研究者が携わり、歴史学・宗教哲学・社会学・政治学などさまざまな領域を巻き込みながら展開している。その展開は海外の研究者との積極的な交流も伴うものであり、非常に興味深い動きをみせてきている。そのさまざまな運動の淵源をたずねるとき、我々は吉永進一氏の大きな存在感に気づかされる。吉永氏の魅力と求心力の原点がいかなるものなのか、是非うかがってみたい――そうした素朴な関心を胸に、我々は吉永氏の御自宅をお訪ねした。

 吉永氏には、戦後日本の高度経済成長を向こうに置いて「不思議なるもの」への志向を強めた学生時代に端を発し、ウィリアム・ジェイムズから受容した「生(life)」への問い、西田幾多郎の哲学を近代における仏教の変容として捉える可能性、鈴木大拙が今なお世界中の知識人に示しつづける主体的問題とその独自性など、数多くの問題について語って頂いた。
 実に多岐にわたる内容となったため、このインタビューを前後編に分けてお届けする。

(飯島 孝良・長谷川琢哉)

 

【今回はインタビュー②を掲載、の各回コチラから】

吉永  オカルト研究をしていてかなり昔から興味をもったのは、日本には西洋からのスピリチュアリズムとか神智学とかが入ってないのかということなんですよね。海外にはすでにいくつか研究があったので、では日本の研究をするのはどうだろうか、と。そこで、スピリチュアリズム、それから病気治しの精神療法というか霊術の研究をやりました。ジェイムズがそういう病気治しも好きだったこともあるし、井村宏次さん(鍼灸師・超心理研究家)が1980年頃に霊術の研究をはじめたこともあって、そのときに協力したこともありました。

 そのうちわかってきたことは、霊術・精神療法が大正時代に非常に流行したことです。ただ、当時は国会図書館のデジタルコレクションも使えなかったので、明治から大正ぐらいの霊に関する変な本を古本即売会で買い込んだりしました。現在では近デジでかなりのことがわかるのですが、古本屋で本を買っていると、同じ霊という言葉を使うにしても、仏教系、キリスト教系、スピリチュアリズム系や霊術・精神療法系、これらはそれぞれ「霊」という言葉の意味する範囲が微妙に異なっていたこともわかりました。

 もうひとつは、1970年代後半、編集者の武田崇元(洋一)さんが『地球ロマン』とか『迷宮』という雑誌を出していたことです。去年あたりになってようやく偽史の研究などが話題になっていましたけれども、武田さんはもう30年、40年前にそうした雑誌でやっていたんですね。日本の古いものであっても、ちゃんとこちらが書誌的にしっかり詰めていけば、何ら怪しげな話ではなく学問たり得ると考えていました。

 それで、精神療法家の松本道別という人物がいるのですが、彼の本をざっと読んでいたら、オーラのことが書いてあったんです。その出典が『瑞派仏教学』というとても面白い題名の本からだった。そこでどこかに置いてないかと調べたら、龍谷大学の大宮図書館になったのです。現物を見てみたら、「瑞派」の瑞というのはエマヌエル・スウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg/1688~1772)のことだとわかりました。なんでスウェーデンボルグが仏教なんだ、そんなバカな話があるか、と思ったんです。その時のことか、あるいはその前のことか忘れてしまったんですが、当時目録はまだカードの頃で、やはり龍大図書館のカードを繰っていたら『海外仏教事情』というカードもでてきたんです。明治時代に海外に仏教なんかあるわけがないと思って、内容を読んでみたら神智学の翻訳記事多数だったので、ひっくり返ってしまいました。どうして神智学が仏教に入ってきたのかというのを調べていったのがそもそもの始まりで、そこから近代仏教史に入っていった。

 要するに、霊術もそうですけれども、研究者が手をつけていない「空白地帯」があって、それに呼ばれるというか。ただ、2、3歩入ってみて、抜けられなくなった頃に「みながやらないのはこういう理由だったんだ」と気づく、でもすでに時遅し、その頃にはもう抜けられなくなっている――そういうパターンだったんですね。だから、神智学から仏教へ入っていくという、まったく外道も外道、大外道の入り方なんです。

 そのうちに、神智学と日本仏教をつないだ平井金三(1859〜1916)という人物がいたことがわかってきました。それまで日本に最初に心霊研究を紹介したということはわかっていたんですが、日本での仏教運動やシカゴ宗教会議での演説、さらに神智学との関係など、いろいろ面白い人物ということもわかってきました。たまたま、学校の海外研修制度でアメリカに2カ月だけ行ってよいことになったので、そこで日本人と神智学のことを平井金三から研究しようかと考えて、ジェイムズ・サントゥッチ教授(James Santucci/カリフォルニア州立大教授)にお願いして南カリフォルニアで一月ほど調査をしたら、図書館や神智学協会などから資料がいろいろ出てきたんです。一八九三年頃に彼が寄稿した英語の記事もいくつか出てきて、こりゃ凄いと驚きました。

 さらに、サントゥッチ教授のお薦めで、アメリカに行く前にAmerican Encounter with Buddhismという本を読んでいたら、神智学と日本仏教の関係がいろいろ出てくる。それで失礼とは思ったんですが、著者のトマス・ツイード(Thomas Tweed/ノートルダム大学教授)さんに直接問い合わせのメールを送ったところ、「フィラデルフィアの歴史協会には鈴木大拙の友人だったアルバート・J・エドマンズ(Albert Joseph Edmunds/1857~1941)の著作や資料がいっぱいあるんで、ぜひ見に行け」と言われたんです。そこでフィラデルフィアではエドマンズの古い資料が結構集まっていて、スウェーデンボルグと心霊研究と仏教という、確かに変な面白いやつだということがわかってきて、じゃあ大拙はどういう影響受けたのかなと、そこから興味を持ったんです。エドマンズから大拙という、普通とは逆のコースでした。

 とはいえ、ここまでの成果は、せいぜい論文1本書いて終わりだと思っていました。ところがアメリカから帰る直前、平井金三とか野口復堂などで情報交換していた佐藤哲朗君(『アジア大思想活劇』著者。テーラワーダ仏教協会編集局長)から「平井金三の子孫が見つかった」と聞いて、すぐに子孫の方に会いに水戸へ行きました。そこにはトランク一杯に、アメリカで見た資料や未見の資料などが、全部残っているわけです。そこで、これは何とかしなければと思い、平井の研究を始めたんです。幸い科研もとれたので、この時はじめて一次資料の悉皆調査を行いました。この頃、近代仏教研究が少なくて、吉田久一を何度か読み直したのを覚えています。この時、共同研究がたいへんうまくいって、デジタル資料つきの報告書を出すことができました。デジタル資料は、当時としてはかなり先駆的な試みだったと思います。

 平井金三を研究していると、そのひとつ下の世代の新仏教の運動が気になってきました。平井は、明治三〇年代にユニテリアンに入っていましたが、そのユニテリアンと協調関係にあった仏教改革運動である新仏教徒同志会、いわゆる新仏教運動です。平井の資料を読んでいると、この新仏教関係の人名がよく出て来る。同人の一人、加藤咄堂は平井の教え子でしたし、その他の人間も個人的交流があったようで、これが何なのか興味が出てきた。また、新仏教は合理的な宗教観を唱え、迷信を排除して、修養的な仏教を提唱したんですが、いわばあたりさわりのない普通の仏教という感じがしたんですね。もしかすると、自分のように、特に仏教と縁が深いわけでもない人間が考える仏教は、ここらへんが出発点かなと思ったんです。でもまあ、それ以上に、実際に原物を手にとってみたら、愉快なんですね、ギャグが隠してある、こんな笑える仏教雑誌があったのか、という驚きもありました。

 そのとき「新仏教は面白いよね」という話をしたのが安藤礼二さん(多摩美術大学教授)と大谷栄一さん(佛教大学教授)だったんですが、二人もやっぱり、同じことを考えていたんです。

長谷川  それが、たまたま重なったのですか。

吉永  そうです。それで研究会を作って、科研を申請しようという話になって、スタートさせたところ、2008年に運良く科研に採択され2011年まで共同研究を行いました。大谷くんと安藤さん以外にも、岡田正彦さん(天理大)、守屋友江さん(阪南大)、星野靖二君(國學院)、大澤広嗣君(文化庁)、高橋原君(東北大)、江島尚俊さん(田園調布学園大)など、当時はまだ若手だった有能な研究者が参加してくれました。岩田真美さん(龍谷大)や碧海寿広くん(武蔵野大)もいました。二人は大学院終わるころだったかな。たまたま、旧友の岩田文昭君が同時に近角常観調査を開始したので、碧海くんはそちらに力を注ぐことになって、それが彼の現在につながっているわけですから、偶然とはいえ、面白いものですね。今は皆さん、偉くなってしまいましたが、その頃はみんな若くて暇もあり、近代仏教の「史跡」を見学したり、研究会でも議論が盛り上がり、とても楽しい科研でした。

 この科研と並行して、大谷くんと末木文美士先生と林淳先生が日文研で進めていた「近代と仏教」という共同研究プロジェクトに呼ばれました。数年、研究会を定期的に行い、最終的には2011年に国際研究集会が開催されました。これがなかなか楽しかったのですが、この後、急に国際カンファレンスに呼ばれたり、呼んだりするようになったのですが、それも些細な縁がきっかけでした。

 この時研究会を通じて知り合ったジョン・ブリーンさん(国際日本文化研究センター教授)から、「ブライアン・ボッキング(Brian Bocking/元コーク大教授)という友人が、アイルランド人僧侶の研究しているんだけれど、知っているか」と質問されたのです。ダンマローカ(Dhammaloka/1856~1914)という人物ですが、岩田真美さんから聞いたことがあったので、彼女に教えてもらった話をブライアンに伝えたところ大変感謝されました。そこから縁ができて、2012年の春頃、ブライアンから突然、コーク大で開催される近代仏教の国際学会に呼ばれました。実は海外へ一人で旅行したのはこれが始めてだったんですが、これもまた充実した研究会で、同席していたリチャード・ジャフィさん(Richrd Jaffe/デューク大学)が、こういう研究会をデュークでもやろうと言い出したのです。それで翌年はデュークの研究会に呼ばれました。その時、来年は日本で出来ないかと言われて、つい調子にのって、僕が引き受けたと言ってしまったんですね。全然あてがなかったんですが、龍大におられた桂紹隆先生から仏教伝道協会につないでいただき、さらにアメリカ宗教学会から助成金をいただいて、2014年には京大と龍大でAsian Buddhism Kyotoという国際カンファレンスを開催できました。参加人数からしても大成功と言えると思います。

 振り返ってみると、2010年前後から風向きが変わって、近代仏教研究が求められはじめたんでしょう。たまたま僕はその風向きが変わる場所に居合わせてしまったんでしょうね。

(文責:親鸞仏教センター)

③へ続く

吉永 進一(よしなが しんいち)

 1957年生まれ。京都大学理学部生物学科卒業、同文学部宗教学専攻博士課程修了。舞鶴工業高等専門学校教授を経て、現在は龍谷大学世界仏教センター客員研究員、英文論文誌『Japanese Religions』編集長。

 専門は宗教学(ウィリアム・ジェイムズ研究)、近代仏教研究、近代霊性思想史。2007年12月、論文「原坦山の心理学的禅:その思想と歴史的影響」で「湯浅賞」受賞。

 編著に『日本人の身・心・霊―近代民間精神療法叢書』(クレス出版)ほか。共著に『ブッダの変貌―交錯する近代仏教』(法藏館)、『近代仏教スタディーズー仏教からみたもうひとつの近代』(法藏館)ほか。翻訳に『天使辞典』(創元社)、『エリアーデ宗教学の世界―新しいヒューマニズムへの希望』(せりか書房)ほか。

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