仏教と現代文化 ―新しい仏像からマンガやゲーム、 ネット空間の最新表現まで―
特集趣旨 現代の多くの日本人にとって、仏教は縁遠いものに感じられるかもしれません。ですが、博物館で開催される仏像の展覧会はとても人気が高く、マンガやゲーム、音楽やYouTubeといったものの中に、仏教的な要素が見られることも決して珍しいことではありません。現代の日本人が、仏教的な「何か」に魅かれることがあるのは確かなようです。また、様々な現代文化のコンテンツを通して、仏教を少しでも身近に感じてもらおうとする実践も、積極的に行われています。
そこで今回の特集では、現代の文化的事象の中に見られる仏教的な要素と、現代文化を通した仏教の発信について、様々な立場の方々からご論考・エッセイをお寄せいただきました。
長い歴史と伝統があり、ともすると古いものと思われがちな仏教と、最先端の現代文化との接点について、改めて考えてみたいと思います。
2024年3月1日
青柳 英司 AOYAGI Eishi 親鸞仏教センター嘱託研究員
📤 この記事をシェア
>>>Next マンガと仏教
目次にもどる 東日本大震災後の仏像 君島 彩子 KIMISHIMA Ayako
和光大学表現学部講師
「仏像」と聞いて何を思い浮かべるだろうか? あまり興味のない方は、歴史の授業で出てきたのを、ぼんやりと思い出す程度かもしれない。逆に美術が好きな方は、博物館や美術館に展示された仏像、そして京都や奈良の有名寺院に安置された仏像などをすぐに思い出すだろう。美術ファンの間で仏像の展覧会の人気はとても高い。2000年以降の美術展の入場者数のベスト3を見てみよう。1位が「国宝 阿修羅展」(2009年、東京国立博物館)、2位が「国宝 薬師寺展」(2008年、東京国立博物館)、3位も「国宝 阿修羅展」(2009年、九州国立博物館)、いずれも仏像がメインの展覧会だ。仏像を鑑賞するため、1日平均1万人以上の人々が博物館に足を運んでいる。
仏像の展覧会に「国宝」という言葉がつけられていることからも分かるように、人気を集める仏像の多くは国宝に指定されている。例えば東大寺の毘盧遮那仏(奈良の大仏)、興福寺の阿修羅像、広隆寺の弥勒菩薩像など、著名な仏像の多くが国宝だ。日本において国宝に指定された彫刻の大半が仏像であることからも、仏像が日本美術を代表するものであることが理解できるであろう。葬儀や法事などの「仏事」の次に仏教に触れる機会になっているのは、仏教美術と言えるかもしれない。
明治期、美術や文化財という概念によって仏像がとらえられるようになったことで、仏像は鑑賞の対象となった。だが仏像が鑑賞の対象となっても、仏像における宗教的役割が消えることはなかった。筆者は10年以上にわたり東京国立博物館において接客に携わり、多くの来場者を目にしてきた。「国宝 阿修羅展」や「国宝 薬師寺展」などの混雑する仏像展においても、展示された仏像に手をあわせる来館者が多かったことが印象的だった。仏像に対する祈りが根づいているからこそ、文化財・美術作品として仏像が「展示」されていても手をあわせるのだ。
国宝の仏像のようにテレビや雑誌で紹介されるのは、飛鳥時代から鎌倉時代に造られた仏像であるため、仏像は「古いもの」という印象が強い。だが日本に残されている仏像の半数以上は、江戸時代以降に造立されたものだ。そして、現在も新しい仏像が発願され、制作されている。仏像が発願される理由はさまざまだが、そこには何らかの「祈り」が込められている。
浄土双六とのご縁をいただいて 向井 真人 MUKAI Mahito
臨済宗妙心寺派 陽岳寺住職・クリエイター
平成27(2015)年より毎年1作品以上、お寺や仏教をテーマにしたカードゲームやボードゲームを製作している。またお寺の本堂で市販のカードゲームやボードゲーム、けん玉などで遊ぶ会を開催している。おもちゃで遊ぶ会ではあるが、実際には遊ばずにお茶を飲みに来るだけでも良く、遊ぶことを主題にすることで気兼ねなくお入りいただけるような手立てである。そもそもの発端は、聖書のカードゲームを初めに知り、ついで浄土双六というものとの出会いをいただいたことである。
双六と聞くと、どのような形を頭に思い浮かべるだろうか。スタートとゴールが設定されており、途中に分かれ道がありつつも一本道。サイコロなどを使い推進力を得て、自分の分身であるコマが道を進み、上がることを目指す。ゴールへと一路邁進する双六のはじまりは出世双六と言われる。まるで出世街道を突き進むかのようだからだ。そんな出世双六よりも前には、飛び双六という種類があった。自分の分身であるコマがマス目を飛んで移動するため飛び双六といい、浄土双六もそれである。ふりだしが人間、サイコロを振って、地獄に落ちたり、餓鬼・畜生を転々としたりしながら、修行の道を進んで、成仏を目指すのだ。ゴールが仏のいらっしゃる国土、すなわち浄土であるため、浄土双六と呼ばれている。
浄土双六の前身として証果増進之図(仏法双六)があり、そこからさまざまな亜種が生まれ、今では日本全国の美術館や博物館に所蔵されている。ここでは東京国立博物館所蔵の『双六類聚(すごろくるいじゅ)』にある彩色された浄土双六について取り上げる。その中身を見ると、縦長の紙に、碁盤の目のような縦横並行の規則正しい線が引かれている。区分けされた箇所が双六のマス目で、須弥山世界観が振り分けられている。約100あるマス目には、仏教語、仏教語に関連した絵、そしてサイコロの出目による移動先が記載されている。遊び方はもともと口伝であったが、後の世には双六の紙自体に記載されたり、別紙が用意されたりしたようだ。
念仏機
加来 雄之 KAKU Takeshi
親鸞仏教センター主任研究員
どのような時代でも、どのような社会でも、私たちの問題は、自分の置かれている状況や遭遇する事件を受けとめる自己をどのように実現できるのかということにある。
人間が、事実そのものではなく、自我関心や価値観にとらわれた「思い」で作り上げた虚構の世界の中に生きている以上、人は不安から逃れることはできない。だからこそ人は、自分や他人の「思い」に左右されない依り処を与えてくれる何かに惹(ひ)かれるのだろう。その「思い」を超えた依り処として何を選ぶのか。それが、その人の生き方を決定する。
人は、そのような依り処を与えてくれる一つとして宗教(儀礼や信仰)を求めるのかもしれない。
例えば、毎朝の神仏への礼拝など日々の生活における儀礼的な様式や、誕生や結婚や死などの人々の人生の重要な出来事に結びつく儀礼や、大災害などとの遭遇や痛ましい事件を受けとめるための追悼や鎮霊のような特別な儀礼も、そのような要求を満たしてくれる。
また占いなどは日々の行動の指標となり、想定外の事件の意味を神仏からの試練として教えてくれる定式化された信条などは、私たちに安定した生き方を与えてくれるだろう。
しかしそれは本当に「思い」を超えた世界を開いてくるのだろうか。どのような儀礼も信条も、事実そのものを離れて、私たちの「思い」をかなえようとする呪術的・功利的なものにとどまるならば、真の意味で「思い」を超えた世界を開いてこないと思われる。
かつて大谷大学の学生と共に、他力浄土教の受容の現状について調査するための研修で台湾に行ったことがある。台北にある善導流の浄土教を広めている中華浄土宗協会を訪れたとき「念仏機」なる装置を眼にした(下画像、クリックすると音声が流れます) 。それは24時間、協会の指導者が「南無阿弥陀仏」と念仏する声をひたすら流し続けるという装置である。
最初はとても違和感を覚えた。一つは、自分で念仏せずに装置に念仏という行を代替させるということに。もう一つは、指導者の声を繰り返し流すということに(その行為が、或るカルト的な宗教の修行方法を連想させたからであった)。
後で調べると、この種の機械は台湾や中国などではごく一般的で、ネット上でも、それを鳴らしておくことでさまざまな利益が得られるといううたい文句で「ブッダマシーン」などと呼ばれて販売されていた。
聞くところによると、交通事故の場所などにはよく置かれており、亡くなった人が成仏できるように、また鬼にならないように、さらに事故が再び起こらないようにと期待されているということであった。いわば除災招福機である。私もそのようなイメージで受けとめたのである。
ところが協会の或る女性信者に念仏機のことを尋ねたとき、その答えに触れて深く考えさせられた。彼女は次のように語った。
「私は商売をしています。朝から晩まで忙しく客に対応しており、念仏をとなえる暇もありません。しかし念仏機を鳴らしておけば、いつも念仏の中に居ることができるし、阿弥陀仏のことを忘れないですむのです」
そのとき私は、親鸞聖人が念仏の本質を、仏たちが阿弥陀如来の名を称えて私たちに聞かせてくれることである、と受けとめておられることを思い出した。また流れる念仏が協会の指導者の声であることについても、もし法然上人や親鸞聖人の念仏の声が今に残っていたら私もそれを聴いていたいと思うだろう、と考え直した。ひょっとすると念仏機に違和感をもった私の中には、念仏を自分の行為とし、また手柄とするような発想が残っていたのかもしれない。
忘却に抗って
見田村 千晴 MITAMURA Chiharu
シンガーソングライター
「忘れる」ことに対して、漠然とした恐怖感がある。抵抗感、の方が正しいかもしれない。私は日々湧き上がっては消えていく己の感情を、できる限りその鮮やかさのまま、全て記憶していたいと強く思っている。
しかし人間は、忘れていく生き物である。未来を生きていくために忘れた方が良いこともある。痛みや苦しみ、悲しみといった負の経験から身を守るために、脳が記憶を消してしまうこともあるらしい。それでも私は、痛みも苦しみも、鮮烈に覚えていたいと思うのだ。お前の経験してきた痛みや苦しみなど生ぬるいからそんなふうに思えるのだ、と言われてしまえばそれまでなのだが。
では、なぜ私はこんなに「忘れたくない」のだろう。
私は幼少期から、「誰も私の気持ちを分かってくれない」と思っていた。なぜ分かってくれないんだ、分かってくれる誰かに出会えないのはこの場所のせいだ、と完全に周囲のせいにしていた。孤独感を抱えた10代だった。
そして大人になり、25歳を過ぎた頃からだろうか、過去の自分を少しずつ客観的に見られるようになった。子どもの頃の私は、言葉や態度での自己表現がとても苦手だった上に、 “優等生ぶる” ことが上手だった。どちらも自信の無さの裏返しである。
端的に言えば、私は重度の「察してちゃん」だったのだ。そうやって自己分析ができてくると、昔の自分がとてつもなく愛おしい存在に思えた。時を超えて隣に寄り添って「大丈夫だよ」と抱きしめてあげたい気持ちになった。そんな愛おしい“あの子”の孤独や苦しみを無かったことにしたくない。「何も分からない子どもだったから」という言葉で片付けてしまっては可哀想だ。そうだ、「子どもは黙ってなさい」と主張を封じられ続けていたから私は苦しかったのだ。
以上のような自己分析をして以来、今度は意識的に「思い出の美化禁止ルール」を自らに課している。過去の恋愛も、うまくいった仕事も、妊娠・出産の経験も、今は亡き人についても、綺麗な思い出だけではなく、苦しかったことや辛かったこと、後ろめたいことまでちゃんと覚えていたい。しかも、できる限り色褪(いろあ)せないままで。これは私なりの、過去の自分への供養なのかもしれない。
さて、私はシンガーソングライターである。歌詞を書き、曲をつけ、ギターを抱えて歌っている。おそらく作詞作曲をする音楽家の7〜8割は、先にメロディを作り、後から言葉を乗せていると思う。私は残りの2〜3割、歌詞を先に書き、そこにメロディをつけていくという順序で曲を作っている。誰かから教えられたわけでも、選び取ったわけでもなく、独学で曲を作り始めたらたまたまそうなっていた。日々色々なものを見たり聞いたり考えたりする中で、曲にして残したいと思う感情や風景を頭の中で “スクリーンショット” し、丁寧に言葉に変換していくイメージだ。
「思い出の美化禁止ルール」を遵守して生きていくために、音楽はとても効果的である。覚えておくのが難しい複雑な感情や、夕焼けのように時間とともに移り変わっていく感情も、楽曲に託せば半永久的に忘れないでいられるのだ。ライブで自分の曲を歌っているとき、私の目の前にはかつて見た風景が広がり、身体の内側にはかつて味わった苦しみや温かさが戻ってきている。
曲を作る動機がこうなのだから、主流であるメロディからではなく、歌詞から先に作っていくスタイルになったことは私にとってとても自然な流れだ。ともすると、「忘れてしまう」「忘れたくない」という言葉が頻出(ひんしゅつ)してしまうのが悩ましいところなのだが。
昔、たまたま観ていたテレビ番組で、取材されていた僧侶の方が口にした言葉がとても印象的だった。
「死は、準備のできた人に訪れるものなんです。死ぬのがどうしようもなく怖いうちは、まだ準備はできていないのです。」
もちろん、不慮の事故など突然起こる場合もあるだろうが、死について想像するだけで眠れなくなるほどの恐怖感を持っていた私は、胸のつかえがすっと取れていくような安心感を覚えた。それ以来、この言葉をお守りのように大事にしている。
「忘れる」ことを大らかな気持ちで受け入れられる日はいつか来るのだろうか。それは、必ず訪れる「死」への緩やかな準備をしているということなのだろうか。
「若い頃は全てがキラキラして楽しかったわ」
「大変なこともあったような気がするけれど、忘れちゃった」
と微笑むおばあちゃんになる未来はまだ想像できない。それまでは、このせわしない感情ひとつひとつに目を凝らし、言葉に託して歌っていこうと思う。
見田村 千晴 MITAMURA Chiharu
シンガーソングライター 自身が立ち上げた音楽レーベル「KICHIJITSU RECORDS」を主宰。 アルバムに『歪だって抱きしめて』(2019)、 最近のミニアルバムに、『Marking』(2021)など。
📤 この記事をシェア
>>>Next 失敗のプロフェッショナル
目次にもどる
失敗のプロフェッショナル
牟田 都子 MUTA Satoko
校正者
しょっちゅうものを忘れたり落としたりしている。ハンカチ、マフラー、読みさしの本。性格だからもはや直らないとあきらめているけれど、あきらめきれないのは「落としましたよ」と声をかけてくれた人に対する自分のふるまいだ。仏頂面のまま口の中でもごもごと謝意らしきものをつぶやければましなほうで、ときには逃げるように立ち去ってしまう。恥ずかしさが先に立ち、満足に礼も言えない自分のちっぽけさがほとほといやになる。
本の校正は、編集者や著者に「落ちてましたよ」と声をかける仕事だといえる。ゲラ(校正のための試し刷り)を読んで誤字脱字、文法の誤りや事実関係の混乱などを指摘することを「拾う」という。完璧な人間などいないから、どれほど注意深い著者であってもゲラの上には何かしら「落とし物」が残っている。
気を遣うのは「うっかり」に見えて「あえて」の場合もあるからだ。小説の中で友人を訪ねた主人公が、三鷹市井の頭六丁目にあるアパートの呼び鈴を鳴らす。調べると「三鷹市井の頭」は五丁目までしかない。そこで「六丁目」を「誤り」と考えるのは早計で、実在の風景に巧みに虚構を紛れ込ませる著者もいる。そうした著者に「落としましたよ」と大声で呼びかけたら、叱られてもしかたがない。かと思えば、「井【之】頭一丁目」が単純な書き間違いということもあって気が抜けない。
「落ちてましたよ」と声をかけて、まれに反発を受けることがある。自分が書く側に回ってみると、ゲラに鉛筆で書き込まれた校正者の疑問や提案を見るのは、己の粗忽さを思い知らされることであると得心がいった。ハンカチを差し出されるときと違うのは、こちらに心の準備があることだ。校正者は著者のさまざまなミスを指摘し、解決策を提案する。著者はそれが校正という仕事だと理解しているから耳を傾ける。指摘する側とされる側、双方に構えができている。十分な構えができていない相手の場合、恥をかかされたとか、けちをつけられたと感じてしまうのかもしれない。顔が見えず、声も聞こえない紙の上での意思疎通の難しさには、15年経っても慣れることはない。
仕事を離れて本を読むときは落とし物係の名札をはずすよう努めているが、思い入れのある本ほど、わずかな瑕疵も気になってしまう。目をつぶっていても拾えるような誤植がなぜ残ってしまったのかと口にしてしまったとき、裏にどのような事情があったのかを想像したいと諭してくれたのは、同業の大先輩だった。穏やかな口調ながら胸に突き刺さったのは、「自分なら拾えていた」という思い上がりを見透かされたからだろう。若いうちにそう言ってくれる先輩を持ったことは幸運だった。
人間はかならずミスをする生き物で、ミスを防ぐための専門職である校正者といえども、その宿命からは逃れられない。何週間もかけてゲラを読み込み、手に入るかぎりの辞書や資料にあたって誤りを残すまいと努めても、できあがった見本を開いたそこに誤植を見つけてしまうということを、この仕事をしていれば一度ならず経験するのではないだろうか。誤植を見逃すことを「落とす」といって、落とし物係が落とし物をしていては洒落にならないのだが、絶対に落とさない校正者は絶対にいないと言っていい。どんなに有能な校正者であっても、いつかはかならずミスをするもの……と同業の夫に言ったところ、「いつか」ではなく「いま」ではないか、と返された。私たちが誤植を「拾って」いるとき、裏では常に「落として」いる。そう思ってゲラに臨まなければならないというのだ。その意味で私たちは失敗の経験だけは豊富な、失敗のプロフェッショナルといえるかもしれない。
先日、学校で使われている教科書に大量の誤植が見つかったという報道があった。大きな声では言えないが、どれほど有能な校正者が目を光らせていても、誤植のひとつやふたつは残ってしまうものではないかと思う。とはいえ1200ヵ所というのはけたが違いすぎる。誤りのある教科書を使い続けることによって「学習上の支障を生ずるおそれがある」と判断した出版社は、修正・刷り直しの上で再配布すると発表した。なぜそのような事態が起こったのか、犯人を追う探偵のような推測や憶測が飛び交っていたけれど、ほんとうの事情は当事者にしかわからない。当事者でさえ十全にはわからないということもあるだろう。問うというより責める響きを帯びた「なぜ」にさらされている関係者の胸中を、思わずにはいられなかった。
誰もが「いつか」ではなく「いま」この瞬間にもミスをしているかもしれないと考えれば、人の失敗を必要以上に責めることは難しくなるのではないだろうか。ミスが起きてしまったとき、原因を突き止めること、再発を防ぐ仕組みを工夫することは大切だ。だが、そのためにはまず指摘しやすく、打ち明けやすい、誰もに「構え」のできている環境であってほしい。明日はわが身、お互い様だと笑って言い合えるくらいが丁度いいと思うのは、甘いだろうか。
牟田 都子 MUTA Satoko
校正者。著書に、『文にあたる』(亜紀書房、2022)、 共著に『本を贈る』(三輪舎、2018)、 『あんぱん ジャムパン クリームパン 女三人モヤモヤ日記』(亜紀書房、2020)など。
📤 この記事をシェア
>>>Next 念仏機
目次にもどる
浅原才市に学んだ小説
乗代 雄介 NORISHIRO Yusuke
小説家
専業の小説家として暮らしている。中学1年の時から書くことを始めて、29の年にデビューして、今は36。だんだん書き方も変わってきて、小説のほとんどを外で考え、外で書くようになった。
10代の頃、小説家の生活とはどんなものかと考えることがあったけれど、当時の自分が今の自分を見たら、多少なりとも混乱するだろうと思う。彼の考える小説家とは、彼が毎日せっせと誰に見せるでもなく実践しているように、机に座ってじっと考えながら手を動かすものだからだ。
どんな小説も文字が増えていった結果として完成するもので、例外はない。どこから書くにせよ、後から減るにせよ、とにかく書き進めるわけだ。迷った時は、読んだ本とか見た映画とか友人の話とかにヒントを得て、新たな道が拓けることがある。
つまり、書いている小説世界というのがあって、そこに現実から引っ張ってきた何かを投入することで活路を見出すのだ。しかし、その何かをそのまま使えることはほとんどない。既にできかけている小説世界に合わせて、形が変えられることになる。
例えば、現実の友人と喫茶店で話している時、友人がコーヒーをこぼしたとする。そのあわてぶりに興をそそられた作家は、小説の登場人物2人が喫茶店で話す場面で同じことを起こそうと思い立つ。
コーラが好きな人物設定だったから、コーヒーではなくコーラをこぼすことにしよう。登場人物は黒っぽい服を着ていたけど、目立たないから変えて、白だとやりすぎだから水色ぐらいにして。それで、そのあわてぶりを見て、相手に幻滅することにしよう。
全ての小説は、意識するかしないかは問わず、大なり小なりそういうことのくり返しで書かれていると言ってもよい。ただ、それに気付いた時、つまりは自分が現実世界から得たものを色々な事情で都合よく変えて小説世界に配置していると自覚した時、私は自分の小賢しさがいやになってしまったのだった。
私の場合、もともと1人で外を歩き回るのが好きだから、風景がきっかけになって小説が書き進められることが多いが、そこでどう書くかというのは問題だった。というのも、風景の素晴らしさを再現するために、何があって何がいてと言葉を尽くすほどに、言葉の上での美しさは目減りしていくのである。
間を取り持つ比喩を駆使してそれらしく書けば人は美しい風景と認識しないこともないだろうが、書いている私には生気を抜いて飾るようでくだらない。そう思っているくせに、クイナの仲間のオオバンがいる池の風景を思い出しながら書く際、ほとんどの人は知らないしいちいち説明すると興をそぐから「鴨」と書くことで趣ありげに流してしまったりするから、いやになった。
私は何のために小説を書いているのだろう? 人にそれらしく読んでもらって褒めてもらうためか? だとしたら、ひたすら自分のために書いていた10代の私に合わせる顔がないではないか。
そんな自問自答の中でいつも、妙好人と呼ばれる人々を思い浮かべた。ここで書くのも釈迦に説法だが、浄土教とくに真宗の他力思想に感化されて出た、多くは無学で社会的地位も高くないが、蓮華のように美しく篤い信仰をもった在家信者のことである。
私はサリンジャーの影響で割に早く禅に興味があったところから仏教について気まぐれな独学を続け、もう10年も辞書を引き引き『五灯会元』をじりじり読んでほぼ忘れながらそれでいいと思っているぐらいの人間だが、それはともかく鈴木大拙は、島根県石見国の漁村で下駄職人をしていた浅原才市という妙好人に関心を寄せ、くり返し書いている。『妙好人』(法藏館)から、才市が乏しい文字で書き残した〈口あい〉と称するものを孫引きする。
このさいちわ、まことに、あくにんで、ありまして、 くちのはばが、二寸のはばで、をそをゆて、 ひとをだますと、をもをてをりましたが、 それでわのをおて、 わたしは、まことに、あくにんでありまして、 せかいのよをな、をけな、くちをもつてせかいのひとを、だましてをります。 わたしや、せかいに、あまうたあくにんであります。 あさまし、あさまし、あさまし、あさまし、 あさまし、あさまし、あさまし、あさまし。
現実世界を都合よく小説世界の鋳型に押し込んでいた私は、「二寸のはば」で「噓を言って」小賢しいと自分を嫌悪していたが、実際はもっと大きな悪なのかも知れない。
「世界のような大きな口で世界の人をだましている」という才市の告白と反省に憧れたのかも知れない。かも知れない、かも知れないと書くのは、10年ほど前に『妙好人』を熱心に読んでいた時は、この箇所を敢えて意識した覚えがないからだ。今、この文章を書くために読み直して気付いたようなことである。
インドで年越し蕎麦を啜る
佐々木 美佳 SASAKI Mika
映像作家・文筆家
インド・コルカタ在住、たったの数ヶ月だが、この間どれだけの宗教的なお祭りに遭遇したのかよくわからない。コルカタという土地を生きているだけで、12月のクリスマス、1月のサラスヴァティ・プジャ、2月のバレンタインデー、3月のホーリーという風に、毎月何かしらの祝祭に遭遇する。
クリスマスは若者のイベントの側面もありパーティー化している様子もあるが、クリスチャンもともに暮らしているのがコルカタ。市内の中心にある教会では、クリスマスの朝、ミサが厳かに唱えられていた。サラスヴァティは、日本では弁財天として親しまれている。芸術の神様でもあるので、映画を学ぶわたしもあやかりたい神様だ。
この日はコルカタの至るところでサラスヴァティの像が祀られ、道を歩けばデカデカとしたスピーカーから音楽が鳴り響く。土でできた像は、祭りの夜、フーグリー川に流される。像を運ぶのもお祭り騒ぎで、スロウなスピードのトラックが像とスピーカーを積んで、地元の男たちがその後ろを踊り狂ってついていく。
地元だけでなく、映画学校で祝われるお祭りも負けたもんじゃない。インド各地の多様なバックグラウンドを持つ学生たちが学ぶ映画学校では、世俗主義が原則となっている。
そのため、1月にインド各地域で祝われる収穫祭が「文化的な祝祭」として祝われることになった。収穫祭前日、寮のど真ん中にどでかいスピーカーが出現した。
嫌な予感がする。部屋にいては1日中大音量に悩まされると判断した私は、学校を脱出し、夜の10時に戻ってきた。にもかかわらずだ。10人弱の学生が、爆音に身を浸しながらまだ踊り狂っているのだ。米軍式と書かれている耳栓をしても、音楽が耳に入ってくる。
12時過ぎになってようやく音楽が鳴り終わり、ホッと胸を撫で下ろして眠りにつくことができた。社会人を経験して再び学生になった自分としては、歌と踊りで神様を祀るお祭りで若さが炸裂するキャンパスライフに少々ついていけない節がある。
なんせ、若さのエネルギーでもって朝から晩まで祝いまくるのだから。生まれて育ってきた環境の違いを思い知らされる羽目になった。
自分自身が身につけてきた信仰をもっとも意識したのが、大晦日のことだった。クリスマスを過ぎてから、街がだんだん静かになり、仕事から離れ、家族と過ごすあの時間。家をきれいに掃除して、年越し蕎麦を茹でながら紅白を見るあの平穏で特別な1日。新年を迎えた瞬間に家族に向かって「今年もよろしくお願いします」と挨拶をする。
除夜の鐘を、焚き火に手を当てながら聞く。厳かな気持ちとともに新年の抱負を胸の中で唱える。自分が当たり前のように毎年繰り返してきた習慣が、クリスマスから「ハッピー・ニュー・イヤー」にかけてお祭りムードがなかなか消えないコルカタには存在しないと気がついた。
しかし何もしないで新年を迎えるというのはあまりにも残念な感じがして、なんとかならないものか…と思っていた矢先、同じ気持ちを抱えた友人の日本人旅行者たちと結託して、彼らが滞在しているゲストハウスで「プチ大晦日」を決行した。
時差3時間半のインドと日本、インド現地時間の8時半に、日本の大晦日を迎える。蕎麦は手元になかったが、出汁ベースのカップうどんがあったので、それを蕎麦に見立てて三人で食べた。除夜の鐘のライブ配信を待ちながら、日本時間の年明けの瞬間を待つ。
PCのスピーカーから「ゴーン」という音が響き渡った。「今年もどうぞよろしくお願いします」と、厳粛な気持ちで旅の仲間に挨拶をし、日本の大晦日という儀式を完了させた。霊験あらたかな気持ち。
日本でディーワーリーや、ドゥルガー・プージャーを大規模に行うインドの人々はきっとこんな気持ちなんだろうか。その祝い事を執り行わなければ、なんだか歯磨きをしていないみたいに気持ち悪く、居心地が悪くなってしまう感じ。自国から引き離されて、自身の宗教的慣習を確認することとなった。
日本式の新年のお祝いが済んで気持ちが満たされたので、今度はインド時間の新年の出番。2023年のお祝いを2回もできるなんてラッキーなことだ。12時を迎えると、花火やら爆竹やらの音が怒号のように鳴り響く。ベランダから恐る恐る外をのぞくと、子供たちがはしゃぎまわり、近所の犬たちがギャンギャンと鳴き喚く。ああ、わたしは今インドで生きているのだな。在日邦人が100人程度しかいないコルカタという街で、自分たちの小さな儀式を取り行えた満足感は、何にも代え難い喜びがあった。
お互いがお互いの宗教的祝祭を施せる場を設けること。信仰の権利を認め合うのが平和の秘訣であるということ。人類の歴史が証明してきたこれらの事実を身をもって体験するのが、多様な宗教が混ざり合いながら14億人の人がひしめくインドに身を寄せさせてもらって生きることの醍醐味なのかもしれない。
「インドのお祭りには歌と踊りがないとダメ」と豪語する同級生のことがまだよくわからないけれど、きっと彼女だって私が大晦日に何がなんでも蕎麦を啜りたくなる気持ちもわからないだろう。お互いがお互いを傷つけあわなければ、それでいいのだ。何より、インドで食べる大晦日のカップうどんの味は忘れられない。
佐々木 美佳 SASAKI Mika
映像作家、文筆家 監督作として、ドキュメンタリー映画『タゴール・ソングス』(2020)。著書に、『タゴール・ソングス』(三輪舎、2022)『うたいおどる言葉、黄金のベンガルで』(左右社、2023)など。現在、Satyajit Ray Film & Television Instituteの映画脚本コース在学中。
📤 この記事をシェア
>>>Next 浅原才市に学んだ小説
目次にもどる
上七軒猫町体験
長谷川 琢哉 HASEGAWA Takuya
親鸞仏教センター嘱託研究員
黒っぽいTシャツを脱いだ時にはもう朝焼け 照らされるイレズミはハートの模様だったかな?
「TATTOOあり」MUKAI SHUTOKU
私が京都に住んでいた学生の頃の話である。大学院に進学する関係で健康診断書を提出する必要が生じ、病院に出かけた。自宅から遠くない場所にあったその病院はずいぶん古めかしく、大きな木製のドアと大理石調の柱が印象的だった気がする。とはいえ、町中のそれほど大きくない、地元の、特に年配の人たちの利用が目立つごく普通の病院であった。私は階段を登って二階にある受付に向かった。受診のために必要な書類を提出して、待合室のソファーに腰掛けた。これから先の大学院生活への期待や不安を漠然と感じつつ、自分の名が呼ばれるのを待っていた。
ふとその時、強烈な違和感に襲われた。待合室の老人たちに交じって座っている、ひとりの若い女性である。見たところ10代後半から20代前半くらいの女性が私の目に入ったのだが、その女性は長く黒い髪をしっかりと結い(「日本髪」というのだろうか)、一見して普段着の、しかしそれでいてしっかりと仕立てられた上質の着物を着ていた。私の認識は混乱した。私の経験上、若い女性がいわゆる晴れ着の着物を着た姿を見たとこは、もちろん何度もあった。しかし普段着の着物を若い女性が着用し、しかも髪が本当に結われている。そのような若い女性を私は見たことがなかった。頭のてっぺんから足の先まで、現代的なものを一切身に着けていない時代錯誤なこの女性は、時間と空間を歪ませるに余りあるリアリティを有していた。どう見てもこれはコスプレではない。完璧に自然である。しかしなぜこの若い女性は、まるで明治か大正の世にいるかのようなスタイルで、平然と座っているのだろうか。病院の古めかしさと相まって、私は自分自身が今どこにいるのかも分からなくなるような強いめまいを感じたのだった。
しかし次の瞬間にすぐに思い至った。この病院は花街である上七軒の近くに位置している。そうか、この女性はおそらく舞妓さんか芸姑さんのプライベートな姿なのだろう。あまりにも時代錯誤でありながら、あまりにも自然なこのスタイルは、彼女の職業的な事情を考慮すれば簡単に説明がつくものだった。真偽のほどは定かではないが、少なくともこの認識によって、私の日常は瞬時に回復された。そこは近所にあるごく普通の病院の一室に戻ったのである。
――その時、私は萩原朔太郎の『猫町』を思い起こした。モルヒネやコカインの薬物中毒患者である「私」が、健康のための散歩の途中にふとしたきっかけで方向感覚を喪失し、見慣れた街並みが全く見知らぬ街であるかのように見える錯覚を主題とした小説である。北陸地方の「K」という温泉地に滞在した「私」は、山道に迷い込んでたまたま小さな街に行き着くが、突然、街の様子が変化する。辺りにいた人たちが消え、猫、猫、猫、猫、猫、に覆いつくされるという奇妙なヴィジョンをわずかな間に見るという話である。
私の京都の病院での体験は、『猫町』で描かれているそれと同種のものと言えるだろう。それは日常生活を転倒させ、まったくの異世界を垣間見させる体験であった。とはいえ、私の“猫町体験”への関心は、詩人である作者のそれとは異なるところもある。
『猫町』では最後に荘子の「胡蝶の夢」が引かれ、「夢の胡蝶が自分であるか、今の自分が自分であるか」という疑問が取り上げられる。そして最終的に、「理窟や議論はどうにもあれ、宇宙の或る何所かで、私がそれを「見た」ということほど、私にとって絶対不惑の事実はない」(萩原朔太郎『猫町 他十七篇』、岩波文庫、1995年)という詩人のヴィジョンの実在性が強調されるのである。たとえ幻のようなものであったとしても異世界を垣間見たことは事実であり、そしてその異世界はどこかに実在するという詩人の確信こそが、この著作の主題となっている。
これに対して、私が興味を惹かれるのは、むしろ非日常的体験の後に回復される日常性の問題である。私たちは確かに、この世の常識を引き裂き、転倒させるような強烈な体験をすることがあるかもしれない。しかし『猫町』で描かれているように、大抵の場合そうした体験は長くは続かず、一瞬で過ぎ去ってしまうに違いない。私たちは正気を取り戻し、今まで通りの日常に逆戻りするのである。もちろん、その一瞬が一生分のことを変えてしまうこともあるだろうが(「パウロの回心」はその典型例と言える)、その場合には、非日常的体験は意味づけられ、日常生活に組み込まれているはずである。そうでなければ、体験は現実に対して効果を与え続けることが出来ないからだ。
このように考えると、私が先に記述した病院での体験も、現在の私が再構築した物語に過ぎない。体験は記憶の中で改変され、体験それ自体は幻の中に消え失せているのかもしれない。
長谷川 琢哉 HASEGAWA Takuya
親鸞仏教センター嘱託研究員
📤 この記事をシェア
>>>Next ボードゲーム『即身仏になろう!』に寄せて
目次にもどる